諸葛亮





「……それで、私のもとへ連れてきたと言うことか」


 諸葛亮は目を伏せ、静かに言う。

 暗い静寂の中、闇に溶け込んだ人物は「ああ」静かに肯定する。
 灯りは諸葛亮の背後に立てられた灯台ただ一つ。うっすらと照らされる部屋の中、相手の顔は窺え知れない。ただ分かることと言えば、女であること、全身が真っ黒であるということのみ。

 されど、諸葛亮にはその人物に姿をある程度は記憶していた。それ故に、彼女の唐突な訪問にも何の警戒も抱かず、むしろ快く受け入れた。

 旧知の仲である彼女が久方振りに顔を出したのは、諸葛亮の膝を枕にして眠る十四・五程の少女に理由があった。


「幽谷という四凶に、心当たりはあるだろ。君にはあの天仙の術が効かなかったんだから」


 僕の渡したあの石をまだ後生大事に持っていたことには驚いたけれど。
 呆れを含む言葉に、諸葛亮は無視を決め込む。懐から取り出したのは、何の変哲も無い石だ。けれども彼女が幼い諸葛亮に手渡したそれに彼女の力が宿り、諸葛亮をずっと守護しているのには気付いている。
 彼女のほんの一時の気まぐれにしか過ぎないが、その気まぐれは諸葛亮にとって大きな意味を持つ。捨てるなど有り得なかった。

 それが結果的に再び彼女と相見えるきっかけをくれたともなれば、その価値はもっと膨れ上がる。

 諸葛亮は少女の顔を見下ろし、目を細めた。
 先程彼女が短く告げた彼女の《依頼》を脳内で繰り返し、幽谷、と呟く。

 幽谷――――猫族と共に行動していた四凶の女。
 暗殺を生業とする犀家出身であり、多彩な武術を会得している。かの凶将、呂布を殺したのも幽谷だと言う。
 二ヶ月前の不可解で凶悪な《乱》にて、彼女は命を落としている。
 猫族に深い忠誠を誓っていたと聞くが、よくもまあ、四凶だと排他されなかったものだ。

 目の前にいる彼女は、同族に徹底的に排除されたと言うのに。

 ……いや、そんなことはどうでも良い。
 諸葛亮が噂に聞いていた幽谷は死んでいる。それに、四凶と言えども見た目は四凶の証である色違いの目、そして四凶の特徴を示す痣を何処かに持つだけの、諸葛亮とほぼ変わらない歳程の茶髪の女性であった筈だ。

 だが、少女は年齢は先述した通りであり、髪は黒く、こめかみからは何かの獣の耳が突き出している。形状が狐にも見えるし、犬にも見える。毛は赤いが、先端が黒くなっているところから狐……だろうか。
 諸葛亮の聞いた幽谷とはあまりにもかけ離れた姿のことを訊ねると、彼女は淡泊に肯定した。


「ああ、違うね。君の言う幽谷はあの動乱で死んだもの。君に預けるのは、彼女の結晶を基礎として、狐狸一族(フーリ)として新しく作り直された幽谷だ。少々の邪魔が入って中途半端に若い姿になってはいるが、身体能力はそのまま、武術の刷り込みも完璧。あとは……まあ、記憶も全て消しているし、自我が定着しきっていないらしいから、非常にぼやぁーっとした娘になっているとは思うよ」

「狐狸一族だと? 神の一族が存在しているとお前は言うのか?」

「今現在僕は狐狸一族の長に勝手に拾われて勝手に一族の一人にされてるんでね。言っておくけど、お伽噺の中だけの存在だと言っていたのは人間だけで、仙界じゃ存在しているのは普通に認知されてる。ってか、狐狸一族の長は天帝に最も近い奴なんだ、そんなのが死んだら仙界は大騒ぎだよ。……ま、そうなっても人間達が知る由も無いけれど。君に託すのは長の指示だ。僕にもその意図は分からない」


 意図が分からずとも従うのは、彼女自身一族の長の判断を信用しているからか。
 諸葛亮は幽谷を見下ろし、暫し思案した。

 彼女は沈黙して待ってくれた。唐突な頼みだからと、配慮をしてくれたのだろう。


「幽谷を育てつつ教育をしろと、お前は言ったな」

「ああ。元々賢しいから教育に苦は無い。それにかの臥龍から学べば自我もすぐに確立するだろう。ただ、市井に連れて行く際は眼帯で片目を隠させろよ。こっちじゃ僕も幽谷も四凶だ。本来の四霊の役割なんて伝わっちゃいない」

「四霊?」

「僕達は四凶じゃない。四霊の宿る器として作り出され人に混じって生まれた、言わば天帝の道具だ。仙界の者達の代わりに、彼らの憂いを取り除く役目を押しつけられていたんだ。四凶と言い出したのは十三支、それから人間に広まったって訳。南には、普通に四霊って通ってるんだけどね。で、どうする? 断っても良いよ」


 諸葛亮は首を横に振った。彼女を見据え、澱み無い玲瓏(れいろう)な声で告げた。


「いや。狐狸一族の長のご意向であれば謹んでお受け致そう」

「……そうかい。じゃあ、頼んだよ。ああ、心配しなくても僕が時々様子を見に来るから。四霊について分からないことがあればその時に訊け」

「分かった。泉ち」

「封統。今はそう名乗ってる」


 名前を遮り、彼女――――封統は、指を鳴らす。
 すると、一瞬にして部屋の四隅に火の玉が生じ明るさが増した。

 自ら姿を晒した封統に、諸葛亮は軽く瞠目した。


「少しは女性らしくする気になったのか」

「まさか。ただ成長した姿で蘇っただけさ」


 封統は肩をすくめ、きびすを返した。大股に歩き、扉から家を出る。


「じゃあ、頼んだぞ。諸葛亮」


 最後に、そう言い残して。

 諸葛亮は彼女の閉めた扉に向けて、恭しく拱手(きょうしゅ)した。



‡‡‡




 一人書簡を読み耽(ふけ)っていると、扉の向こうから控えめな声が聞こえた。


『あの、兄さん。よろしいですか』

「……ああ。幽谷か」


 応(いら)えを返せば、少しだけ扉を開けて顔を覗かせた少女が隻眼を瞬かせて単調な声で用を伝えた。


「襄陽から使者が。兄さんにまたお誘いがあると。広間に通しておきましたが、どうしましょう」

「分かった。会おう」


 幽谷は頭を下げて小走りに広間の方へ向かった。使者に諸葛亮が来ることを伝え、茶を用意する為だろう。

 幽谷から遅れて広間に向かい、使者に会う。常のことながら、劉表からの登城の求めであった。
 諸葛亮の才を認め、こうも何度も家臣にならないかと誘ってくる。
 それをぞんざいに扱いはしないが、諸葛亮は決して首を縦には振らなかった。

 今回も、そんな運びになるだろう。
 早々に対話を済ませ使者を帰らせた諸葛亮は幽谷を呼び、その旨を伝えた。
 茶の用意をしていた彼女は、分かりやすく耳を落とした。無表情なばかりの彼女でも耳で感情が分かってしまう。

 諸葛亮は彼女の頭を撫で、また何か土産を買ってくると告げた。


「……ありがとうございます」

「劉表様や使者殿はお前を狐狸一族の娘であると信じて下さっているが、民はそうも行かない。お前を好奇、嫌悪の目で見るだろう。それにお前が傷つくのは目に見えている。人間の世界に興味を持つのは、決して悪いことではないがな。まだ、時期ではない」

「それは、分かっています。兄さんの迷惑にもなりますから」


 幽谷が良い顔をしないのは、人間の世界を見れないということの他に、一人で留守番をするのが嫌だからだ。
 この幽谷、どうしてか人の側で世話をしていないと落ち着かないらしい。猫族のもとにいた頃の名残か、誰かを守っている、支えているという意識が無いと彼女自身が安心出来ないらしいのだ。

 そんな彼女を一人に残すのに、諸葛亮とて何も思わない訳がない。
 だがそれ以上に理解の無い人間達の前に彼女を晒すのがそら恐ろしいのだ。人間は普通でない人間に平気で心無い仕打ちをする。
 それで幽谷が傷つく様を、見たくはなかった。

 いつかそうなるだろうとは思っていたが、こんなにも早く情が移ってしまうとは思わなかった。
 これでは、完全に兄の感情だ。

 諸葛亮は幽谷の頭を撫でて諭しつつ、自身の変化に擽ったさを覚えて唇を歪めた。


「……兄さん?」

「いいや。支度を手伝ってくれ」

「……はい。……あ、あの……」

「……好きにすると良い」

「ありがとうございます」


 先んじて許可を出せば、耳が少しだけ上を向く。

 だが諸葛亮の心中は悩ましいもの。
 幽谷の悪癖――――という程ではないが、彼女は諸葛亮が出掛けて戻ってきた日には、必ず一緒に寝たがる。
 年齢を考えれば止めさせるべきなのだが、兄だと慕い、少し離れただけで寂しがる幽谷を目にすると好きにさせてしまえと思ってしまうのだ。……絆(ほだ)されている自覚はある。

 安堵した風情で支度の手伝いに取りかかる幽谷に、諸葛亮は眉間を押さえた。



○●○

 何となく浮かんだif。
 だがこれだと恋愛フラグが立たないという……。



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