孫家
尚香の侍女として仕えるようになってすぐ、幽谷は孫権と面会させられた。勿論彼女一人ではなく、尚香も同行の上でだ。幽谷を一人で孫権に会わせてもろくな席にならないことは、誰の目にも明らかだった。
孫権が二人が私室を訪れるに当たって周泰と周瑜を置いたのは、幽谷に対する気遣いだろう。
尚香に手を引かれて部屋に入り、孫権に拱手する。
「幽谷と申します。……以後お見知り置きを」
「……孫権だ。尚香をよろしく頼む」
「……」
「……」
「もう少し話せよ、二人共」
口数の少ない者同士の会話というのは、大体こんなものだ。
周瑜が呆れた風情で注意するのに、尚香が楽しそうに笑った。彼女は、こうなることは予想済みだ。
幽谷の手を引いて、孫権に笑いかける。
「今、お茶とお菓子をお持ち致しますね。今日の為に特別に用意したんです」
「ならば俺と幽谷が。姫様はこのまま」
「あら……そう? じゃあ、お願い出来るかしら」
こてんと小首を傾げ、尚香は周泰に笑いかける。
周泰は拱手し、幽谷に目配せして共に部屋を辞した。
尚香の言う菓子と茶の所在は幽谷も把握している。周泰に教えながら、並んで歩いた。
一方、狐狸一族の兄弟が去った後の孫権の私室では、尚香が嬉しそうに幽谷について語る。
幽谷の方が年上だのにどうしても放っておけないこと、記憶が無いことをとても気にしていること、彫刻がとても上手いこと、歌があまり得意ではないこと――――幽谷について分かったことは全て兄に話した。
記憶について孫権も周泰や蒋欽から聞いていたようだが、孫権は妹の話を終始凪いだ表情で聞いていた。妹との茶会が久し振りだということもあった。
新しい友達が出来た子供のように、無邪気に幽谷について語る尚香に、孫権は目を細めた。
甘寧が二人の娘を尚香の侍女にすると聞いた時にはあまりに唐突で驚いたものだが、尚香にとっては良い変化だったようだ。取っ付きにくい封統のことを訊ねれば、彼女も彼女なりの態度で尚香を咎めたりしているらしい。
人間に対して刺々しい封統が、尚香にはそれなりに軟化していることに、ほっとした。
己の中にあった不安も、杞憂であった。
尚香が一人喜々として喋っている間に、二人は戻ってきた。それ程に沢山尚香は孫権に色々な話をした。
その間周瑜が一度も口を挟まなかったのも、いつになく嬉しそうな尚香の話の腰を折ってしまうのが憚(はばか)られたからだろう。
茶を持って入室した周泰に、苦笑混じりに肩をすくめて見せた。
「さっきから、幽谷の話ばかりだ。周泰の姉と妹が、よっぽど気に入ったらしいぜ」
「……そうか」
周泰は尚香に頭を下げ、卓に人数分の茶を置く。周瑜には手渡した。
幽谷が菓子を入れた籠を置くと、周瑜がその中の一つを取って「オレのお勧め」と幽谷の手に載せた。
それをどう思ったのか、幽谷はゆっくりと瞬きを繰り返し、尚香の茶の側にそっと置く。
「おいおい、俺はアンタにやったんだけど」
「……私に、ですか?」
「尚香にやるなら直接やってる」
周瑜は幽谷の頭を叩くように撫で、尚香に断って菓子を取り上げて再び幽谷の手へ。
困惑した様子で尚香と兄を交互に見るが、二人が食べて良いと許可を出すと、渋々と包みを開けて口に運んだ。
その間にさり気なく周泰が周瑜を幽谷から離し間に立つ。
「あのな……」
「どうだ、幽谷」
「……美味しいです。とても」
「そうか」
周泰に頭を撫でられ、こめかみから突き出した耳が微かに揺れる。
孫権はその様を見、尚香の話を思い出す。
確かに、彼女は見た目の割には幼い。記憶が無い為に自我が右往左往しているからなのだろうが、尚香が放っておけないのも頷ける頼りなく儚い雰囲気だ。ただ立っているだけなら、凛々しい女丈夫に見えるのに。
……ああ、そう言えば周泰達の話では彼女は暗殺術を主に、色々な武器で戦うことが出来るのだったか。狐狸一族の大勢の兄弟の中でも、なかなかの強者だと蒋欽が自慢げに話していたのを思い出す。
鍛錬する姿だけでも見れたら、また違う印象を抱くのだろうか。
孫権はふと、興味を持った。
無口な彼が幽谷を呼んだのは、その為である。
「幽谷。お前は、武術に非常に優れていると聞いたが」
これに、周瑜が眉根を寄せる。
「孫権。まさか蒋欽の話を信じたのか?」
「蒋欽は、周瑜に嘘をついても私にはつかぬ」
「……そうだったな」
「周泰」
視線で問いかけると、周泰は瞬きで返し、
「確かです」
短く肯定した。
これに、疑念を持つのは周瑜。
見た目がこれなのだ、確かに周泰達が認める程の実力者であるとは俄(にわか)には信じられない。
だが、周瑜はともかく、孫権には、周泰も蒋欽も決して嘘をつかなかった。蒋欽によれば『嘘をつく相手を選んだ結果』だそうだが、これはきっと自分を僅かでも信頼してくれていると、そういうことなのだろう。
「では、近々周瑜か周泰と鍛錬をしてもらえないか。一度で良い。観てみたい」
「構いませんが……」
許可を求めて尚香を見やると、彼女は驚いていた。口に手を当て、丸い目を見開いて兄を凝視している。
周瑜を見やると、彼も似たような反応だった。
「お兄様が……女性に興味を持たれたわ」
「……珍しい」
「は?」
幽谷は首を傾けた。何か問題があるのかと問おうとすると、先んじて周泰が提案する。
「なれば、明後日でも里にいらして下されば、その日に幽谷と鍛錬を約しております故」
「そうか。分かった、すまぬな」
「いえ。我らが母も、兄達も喜びます」
孫権が里に行くことも無いことは無いが、今まで片手で数えられる程度だ。
それだけに、孫権や尚香が訪れると、狐狸一族は大層喜び彼らなりに盛大にもてなすのだった。甘寧が気に入っているからこその待遇である。
「尚香も、行きたいのなら共に」
「はい。是非ご同行させて下さい。幽谷や封統がどんな風に里で暮らしているのか、知りたいです」
幽谷を見上げて笑い、尚香は幽谷が食べた菓子と同じ物を口に入れた。
ますます上機嫌になった尚香は、幽谷の腕を握ってくいっと引いてくる。
「幽谷。周泰も、こちらに座って。今日は沢山お話ししましょう」
「あ……はい」
促されるままに座り込む。
されど、生憎と幽谷は話すようなことが無い。周泰も寡黙(かもく)な性格だ。更には、孫権も。
結局は周瑜と尚香が主立った話し手となり、他の三人は稀に肯定するだけの聞き手となってしまった。
それでも、お開きになる瞬間に名残惜しさを感じるくらいに、幽谷も孫権も尚香も、この茶会を楽しんでいた。
○●○
柴桑に来たばっかりの頃です。まだ夢主は本編以上にぼんやりしてる感じです。
周泰は忠誠を誓っているからこそですが、蒋欽の場合は孫権が嘘を鵜呑みにする性格であるからです。
尚香にも票が入っていたのと、孫権が意外に上位にいるのが嬉しかったので。
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