賈栩
※注意
※if
夏侯惇に捕まった後賈栩と逃亡。
斬り落とす感触にぞっと鳥肌が立った。
ぼと、と微かな音を立てて落下したそれは血を流し地面を汚す。この上からもぼたぼたと生暖かな赤い液体が一定の間隔でこぼれた。
しかし、彼女はもう片方の耳も斬り落とす。耐えながら己の得物でざっくり、根本から切断する。
この行為がどういう意味を持つのか、彼女自身分かっていた。母を裏切るも同じ行為に、彼女も胸が痛まぬ筈はない。
それでもそうしなければならない事態にまで、彼女は追い詰められていたのだ。
恐ろしい《彼》から逃げる為に、彼女は自ら耳を斬り落とす。
血に染まり、血を吸収しきれずに血溜まりを作る地面を茫然自失と見つめていると、ふと赤い雫ではない、透明な水が落ちていくのに気が付いた。
これは血ではない。血ではないなら、何だろう。
何処から流れているのか。
何処、から……。
――――嗚呼、目だ。
私の目から、この水は流れている。
そう自覚した時、心の底から安堵した。
悲しんでいる。
私は耳を斬り落とし、母や兄達を裏切ってしまったことを悲しんでいるのだ。
もし何も感じていないのならどうしようと、思っていた。
自分には記憶が無い。だから家族の感覚というものを知らない。
だから、だから――――彼らに対して何も思っていなかったら、自分を嫌いになりそうだった。
良かった。私は、母上達のことが大事だったのだ。
でも、きっと彼らは自分を許しはすまい。
だって、私は。
耳を斬り落として全てから逃げようとしているのだから。
‡‡‡
「幽谷。今のうちに麓まで降りよう」
反応が少しだけ遅れてしまった。
幽谷は慌てて頷き、前方を足早に進む男の背を追う。
耳の聞こえが悪い。それは、音を反響させ耳孔へ入りやすくさせる耳殻が無いが故のことであった。
仕方がないとは言え、これは少々不便だ。耳の横に手を添えて音を拾おうとしても、やはり聞こえにくい。
幽谷の状態に、目の前の男も気を遣って声を大きくしようとするが、あまり目立ってしまうのも問題だ。今、自分達は逃亡中の身の上なのだから。
人気の無い夜中に迅速に進み、昼間は野宿か宿屋で、息を潜めながら身体を休める。そんな毎日を繰り返していた。
幽谷の耳と、青い目を隠す眼帯のことを伝えれば、宿の主人もさほど疑いはしなかった。夫の暴力から愛する男と命辛々逃げ出して、昼間は隠れ夜の闇を利用し夫のもとから少しでも離れようと急ぐ――――以前そのように勘違いされてから、宿屋に泊まる度に有り難く借り受けたその設定を匂わせた。そうすれば、大体は同情して協力的になる。
騙すようで胸が痛むけれど、《彼》から逃げる為だ、仕方がない。
それに、《彼》にもう一度捕まれば同じような目に遭うに決まっている。
幽谷は松明を片手に山道を進む男を、小声で呼んだ。
「……あの、賈栩殿。何処へ向かうつもりなのか、お訊ねしても?」
男――――賈栩は肩越しに振り返り、首を左右に振った。
「今はとにかく南だ。曹操の手が伸びていない地域へ逃れよう。その後は……西の異国へ向かうのも一つの手かもしれない」
「異国……」
「夏侯惇から確実に逃れるなら、そこまでしないと難しい。何があったか知らないが、彼の執着は、曹操の十三支に対するそれ以上だ。捕まったらもう終わりだと思った方が良い。俺も、一も二も無く殺されるだろう」
「……私の為に、申し訳ありません」
頭を下げる。
賈栩は肩をすくめた。
……彼は、いつもこうだ。
賈栩が幽谷と共に逃げ出し、懸命に逃れようとする理由は分からない。唐突に幽谷を牢から連れ出したかと思えば男物の服と眼帯を渡し、耳を斬り落とすように勧めたのだ。それまではたまに手が放せない夏侯惇の代理として食事を運んでくるくらいの面識しか無かったのに。
こうやって、あれこれと配慮して、夏侯惇から幽谷を逃そうとしてくれる。
立場を捨てたばかりではなく、一歩間違えれば自分が死んでしまうかも知れないのに。
何が彼をそうさせているのか、分からなかった。訊ねても教えてはくれなかった、
彼の考えていることが、正直分からない。
幽谷は賈栩に従いながら、彼の後ろ姿を見つめた。
そんなことをしたって、本意が分かる訳でもないのに。
夜の短い時間で、進めるだけ進む。
そうして、夜明けがくれば今度は隠れる場所を探す。日が昇る前に見つかることは少ないが、今回は山の中ということもあって、近くに洞窟があると幽谷に動物達が知らせてくれた。
昔は旅人使っていたが、虎が住み着いて寄りつかなくなった洞窟だ。今は虎はいないそうだから有り難く使わせてもらう。
体型を隠す為に着用していた、だぼだぼとした服を脱いで洞窟の奥に座り込む。賈栩が集めてきた枝に、札を使って火をつけた。
賈栩は食料を探してくると洞窟を出る。
その間に、幽谷は眠るのだ。勿論動物達に警戒してもらうよう頼んでから。
寝転がって、幽谷は目を伏せた。
こんな毎日をいつまで続けるつもりなのだろうか。
逃げるだけなら自分一人でだって出来る。賈栩が、わざわざこんなところまで付き合う必要など無かったのだ。
逃がして、素知らぬフリをしていれば、曹操軍の軍師としていられたのに。
どうして、何で、何故。
毎日毎日、疑問は尽きなかった。彼は問いかけても嘯(うそぶ)くばかり。胡散臭い笑みでかわしてしまう。
本心が全く見えないのだ。
けれど……それが嫌でないのは、夏侯惇に捕まっている間、会う度にどうでも良いような話を持ってきていた記憶があるから。
幽谷にとって、それは唯一の《普通》だったのだ。
狂気の中での普通程尊いものは無い。
夏侯惇を拒絶しながらも、頭の中では賈栩の他愛ない話だけは残り続けた。
それは、旅のさなかにも稀にあった。
幽谷の為にそこまでする理由は、何なのか――――。
疑問を胸に眠るのも、毎日のことだった。
‡‡‡
適当な木の実を採取して戻った賈栩は、狼に寄り添われて眠る狐狸一族(フーリ)の娘を見、肩から力を抜いた。
歩み寄れば狼が尾を振って賈栩に近付く。木の実を分けてやれば飛びかかって感謝を示された。
狼を宥めつつ幽谷の側に腰を下ろす。
木の実を幽谷の側に置いておけば狼は食べない。それが幽谷の分の食料であると認識するからだ。
獣は、皆等しく幽谷を敬う。色違いの瞳を持つ人間――――尊き四霊である為だ。
その存在を詳しくは知らないが、四凶と呼ばれ蔑まれるのは、人間達が勝手に恐怖し、勝手に決めつけたからだという。
そのお陰で、夏侯惇から上手く逃げられている。
幽谷の寝顔を見下ろし、賈栩は手を伸ばした。頬を撫でると、髪が動いて痛ましい傷跡が見えた。
耳を斬り落とすように言ったのは少しでも見つかりにくくする為。
今でこそ眼帯はしていないが、人の多い場所では付けさせるようにしていた。
女の身にそこまでさせることは無い――――それは、一般的な良識。
されど生憎と賈栩はそんな良心は持ち合わせていなかった。
幽谷を逃がす為の方法として、効力のあるものを選んだだけ。そしてそれを幽谷に授けただけ。それに従ったのは幽谷に意志だ。
こういうところが、無情と言われるのだろう。
賈栩は無表情に幽谷の寝顔を見下ろした。
夏侯惇に捕らえられた狐狸一族の四霊の娘――――彼女を逃がすつもりになったのがどうしてなのか、賈栩自身も分からない。
ただ、気が付くとすでに曹操軍を抜け幽谷と共に逃亡者に成り下がっていた。
一度は狐狸一族の里へ送り届けようかとも思った。
が、自ら耳を斬り落とした幽谷を、長や仲間はどう思うか。
考えを巡らし、ひとまずは言葉も通じないような異国に逃げる手を考えた。
幽谷にはまだ決めていない風に言っているが、そうでもしなければ夏侯惇は幽谷を追い続けるだろう。曹操にひたに付き従う夏侯惇らしくないと、賈栩ですら思う程に執着している。
幽谷自身の性格や容貌だけではない、もっと深い場所で彼は何かを感じていたのか。それ故に、牢に四肢に枷を付けてまで閉じ込めたのか。
……いや、これはきっと分からないままの方が良い。
賈栩には関係ないことだ。
そう、関係ない……。
賈栩は目を細めて幽谷の頬に顔を寄せた。
傷跡に舌を這わし、口付ける。
「ん……っ」
幽谷が身動ぎする。
色違いの目がうっすらと開かれ、意識の朧気な、焦点の定まっていない瞳がさまよう。
賈栩は手で目を覆い隠した。
「寝ていて良い。今日は日が暮れるまでここで過ごそう」
「……は、い……」
ふっとすぐに夢の中へ戻っていく。
賈栩はもう一度口付けて自身は壁に寄りかかって燃える焚き火を無表情に見つめた。
先程の行為に《答え》があることを、賈栩はまだ気付かずにいる。
●○●
会話がほとんど無いです。
アンケートを見て浮かんだネタをぱぱっと書きましたif話。
めっちゃくちゃシリアスになってます。
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