▼瑠姫様
※前半ホラー風味です。
※流血注意
自分達とは無縁だった洛陽。
見たことも無い程の活気が熱気となって身体にまとわりつき、大量の嫌悪と恐怖などの邪な感情が目に見えぬ魔物と変わって迫り来る。
圧倒されるでもなく、怖じ気付くでもなく、自分達が如何に人間に忌み嫌われているか、黄巾族討伐軍陣営に引き続き市井に於いて再確認して、むしろ冷静になっている。
大切な長劉備が曹操に攫(さら)われ、取り戻す為に洛陽まで追いかけてきた猫族。
関羽が明らかに冷静さを欠いており、怒気どころが殺気立っている。
お陰ですれ違った人間達は皆恐れおののき、遅かれ早かれ兵士を呼ばれそうだ。
さて、関羽をどうやって落ち着かせるか――――洛陽に入った猫族数人の中では冷静な方の蘇双は周りの様子を窺いながら、思案していた。
しかしふと強い風が吹き――――足を止めた。
微かに鼻腔に入り込んだのは、鉄の臭いだ。
気の所為とも思える程度の微妙な臭いだったが、嫌に気になってつい、首を巡らせた。
そして、目にしてしまうのだ。
一人の少女を。
そこは蘇双達から離れた路地だった。
家屋と家屋の間を通る細い道は双方の庇に日差しを遮られて薄暗い。
が、少女の姿はやけにはっきり見えた。
とても美しい少女だ。
黒髪を高く結い上げ、白地の衣は赤い斑点が無数に散らばる。赤い雫を垂らす細長い物を握る右手、不気味に揺れる小さな巾着の紐を握る左手はとても細い。
少女の足下には、何か大きな物が転がっている。猪のように大きなそれから突き出し、少女の左足の甲に乗っている物の正体が分かった瞬間、蘇双は戦慄した。
人、である。
それは倒れた男性の身体なのである。
少女の足に乗っているのは、彼の手……ぴくりとも動かぬ。
心臓が痙攣(けいれん)したような感覚に襲われた。
いや、まさか、そんな――――。
死んでいる?
こんな真っ昼間の、洛陽で?
少女が、こちらに顔を向ける。
何も無い無表情を蘇双へ向ける。
恐ろしい、と。
思った。
咄嗟に顔を背け、数度深呼吸をする。
もう一度路地へ視線をやり、肩を落とした。安堵した。
少女の姿は、無かった。
あるのは、石畳に横たわる男の身体だけ――――。
「蘇双ー! そこで何してんだー!」
「! ……っい、今行く!」
裏返った声で返事をし、蘇双はその場から逃げた。
見なかったことにしよう。
忘れてしまえ。
無理矢理に、頭の中から追い出した。
‡‡‡
――――これは、悪夢か。
店先でそれを目にした瞬間蘇双は呼吸が止まり、咳き込んだ。
「ど、どうしたの蘇双!? 大丈夫!?」
隣で商品を選んでいた関羽が慌てたように蘇双の背中をさする。
「何でもない……」蘇双は呼吸を落ち着かせ、もう一度店の奥を見る。
結局曹操に逆らえずに洛陽郊外に暮らすことになって数日。
蘇双は関羽の手伝いで共に買い物に付き合っている。
たまたま欲しい物が店頭に並んでいた店に寄って、まず店主が自分達にどのような反応をするか確かめようと奥を見た時、それが視界に入った。
少女が奥に座っている。
蘇双が数日前に見た、あのおぞましい少女が。
豪奢な婚礼衣装を身にまとい、煌びやかな装飾品で全身を飾り付けた美しい姿で。
少女を見た瞬間全身が凍り付いたかのような衝撃を受けた。
「な、んで……」
「蘇双? ……あら、あれって、」
関羽も少女に気付いたようだ。「綺麗……」感嘆の溜息をつき、じっと魅入った。
それに、ようやっと出てきた店主の老婆が、
「あら、十三支のお客さんとは初めてだ。何をお求めかね」
特に蔑視するでもなく、人間の客に対するのと変わらない態度で近寄ってきた。
が、関羽と蘇双の視線が少女に向けられているのを見て、ああ、と納得した。
「その人形が気になるのかい」
「え……」
人形?
蘇双は顎を落とした。
「こんなに大きな人形があるんですね。初めて見ました。とっても綺麗……」
「昔に病で亡くなった娘にそっくりでね。つい、貯蓄はたいて買っちまったんだよ。気味が悪いと思うかもしれないが、あの子にしてられなかったことを人形にしていてね。止めようと思っても止められないんだよ」
「そうなんですね。気味悪くなんてないですよ。それだけ、大事な娘さんだったんでしょう」
店主は頷き、生前の娘が如何に器量が良くて親思いの子だったか語り、満足してから商売を始めた。
関羽も人形に救いを求める店主にすっかり同情し、予定以外の物も買い求める。
その間、蘇双はずっと店主を疑わしく思っていた。
あれが人形?
人間と同じ大きさじゃないか。そんな人形があるのか?
あれが人形――――作り物だなんて到底思えない。
だってボクは確かに彼女が動いているのを見た!
衣を真っ赤に染めて、赤い刃を手にして、蘇双に顔を向けた。
少女は確かに動いた。
生き物として存在していた。
白昼夢? だとしたら自分は何処から夢を見て、何処で夢から覚めた?
分からない。
心当たりなど無い。
「蘇双? 買い物終わったけど……あなたも何か買う?」
「え? あ……別に」
「そう。じゃあ、次のお店に行きましょう」
関羽は蘇双の心中など知る由もなく、不思議そうに顔を覗き込みながらも特に深く追求はしてこなかった。
話したところで信じてもらえるか分からないから、蘇双としてはその方が有り難い。
店主に見送られて立ち去る直前にもう一度少女の人形を振り返る。
蘇双を見ているように感じたのは、気の所為だと思いたい。
その日から、関羽がその店と交流を持ち始めた。
猫族を十三支と呼ぶものの特に強い差別意識がある訳ではなく、普通に客と店主のやりとりをしてくれるのを有り難がってというのが大きいだろうが、関羽自身が店主へ同情したのもあって優先して利用することにしたのだった。
蘇双にしてみれば身近な人が不気味極まる存在と接触を密にしていることがそら恐ろしく、かといって周りにしてみれば荒唐無稽な話を理由に注意を促されても戸惑うのは必定。疲れているだけだと片付けられるならまだ良いが、気が触れたと思われかねない。
結局止めることも出来ず、関羽が店主とどんどん親しくなっていくのを怖々と見ているしか無かった。
蘇双はあれから一度もその店には行っていない。街中を歩いていても少女を見ることは無い。
このまま関わらずに、いつかは故郷へ帰れるのだと願っていた。
だが、縁とは奇異なるもので、本人の意思に関係なく嫌がらせのように効力を発揮する。
蘇双が劉備の部屋に忘れ物をして、夜になる前にと一人薄暮の洛陽に入った時のこと。
劉備の話し相手をしたこともあり、忘れ物を回収して曹操の屋敷出た頃にはもう辺りは暗く、蘇双は早足に来た道を戻っていた。
その道途。再びあの微かな鉄の臭いを拾った蘇双は反射的に足を止めた。
背筋が冷えたのと首が勝手に動いたのはほぼ同時。
また、家屋と家屋の間の薄暗い路地の奥だった。今回は近い。二歩、三歩進めば路地の影に踏み入る距離だ。
少女がいた――――大柄な男と抱き合って。
夜目が利くことを、今程後悔したことは無い。
男が目を剥いて口を魚のように開閉させのも、手が必死に少女の肩口にしがみついているのも、大きな身体がずるずると崩れ落ちる様も、晴れた昼間の日向から見るよりもくっきりと見えてしまう。
蘇双は、その場から動けなくなっていた。
目が少女から離せない。
「……ぁ、はぅ……へ、へぇ……」
ヒューヒュー苦しげな息遣いの中必死に蘇双へ何かを訴えてる死にかけの男を助けるのが人道だろうけれど、蘇双は少女の呪縛から逃れられない。
少女がゆっくりとその場に屈み、男の身体に覆い被さってまさぐり始める。
懐から財布らしき物を取り出して立ち上がる。
蘇双を、見る。
「あぇ……」
何とか発せられた我が声は間抜けで、頼りない。
恐怖がぶわりと膨れ上がり、逃げろと頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。だのに身体は動かない。
少女は蘇双を見て無表情に首を傾げる。
最初に見た時と同じく真っ白な衣と匕首を血で汚している彼女。
視線を逸らして戻せば何処かに行ってしまうかもしれない。
嗚呼、目が逸らせれば!
少女は蘇双をじっと見つめる。表情は全く動かない。
人らしい感情が窺えれば恐怖も僅かにでも薄らいだかもしれない。少なくとも動く人形ではなく、人間に近い生き物であるとは認識出来るのだから。
足が動く。
蘇双のではなく、少女の足が。
「……!」
少女が近付いてくる!
動けない。
逃げたいのに逃げられない!
元々近距離であった為に少女はすぐに蘇双の前に立った。
背丈は蘇双よりも少し低い。
月光を受けて青白い顔にまで血飛沫は至り、紅唇の鮮やかな色は血を塗った所為なのではないだろうかと、蘇双は本気で思った。
少女は蘇双へ顔を近付ける。鼻先同士が掠める位置で蘇双の目をじっと凝視する。
身が竦んで動けぬ蘇双は、ややもすれば気が遠退きそうだった。
やがて、少女の細い人差し指が蘇双のうっすらと開いた唇に触れる。
少女の指は温かかく、柔らかかった。
人間の指の感触だった。
「ぇ……」
「これは、わたしとあなたの、秘密ですよ」
少女は無表情に言い、蘇双から離れて舞うように身体を翻した。路地の影に潜り込み颯爽と走り去っていく白を茫然と見送り、彼女が完全にいなくなったと分かるやその場から駆け出した。
それから何処を走って帰ってきたのか、分からない。
我に返った時自分の視界には雑草にぶちまけられた吐瀉物が占め、その酸い臭いにまた吐いた。
関定が背中をさすってくれていた。
何か変なことを口走っていないのではないかと不安になったが、彼の蘇双を気遣う言動から察するに自分はどうやら帰ってきてすぐ吐いて、間を置かずまた吐いたらしい。それが今だ。
体力も限界ぎりぎりで、全身が呼吸を急かし、心臓がばくばくと早鐘を打って苦痛で訴えかけてくる。
張飛に呼ばれて駆けつけた世平らによって蘇双は天幕に運ばれ、養母の看護を受けて翌日まで眠らされた。
翌朝。
夢だったならどんなにか良かっただろう。
目覚めて、空腹を覚えるよりも早く少女の指の感触を思い出し、蘇双は頭を抱えた。
柔らかくて温かかった彼女の指。あれは人間の指だ。とても人形のそれとは思えなかった。
だが、店の奥に座っていた婚礼衣装の彼女は店主が昔亡くした娘にそっくりだという理由で購入した人形だと言う。
人間と同じ大きさの人形があることを疑うべきなのか、人形にそっくりな人間が同じ街に存在していることを疑うべきなのか……。
数日安静にしていろと言われた蘇双には、十分すぎる程考える時間があった。
‡‡‡
再び、店を訪れた。
一人でだ。
結局、その先の結果がどうであれ、少女乃至(ないし)は人形の正体を確かめてすっきりしようという結論に落ち着いた蘇双。
誰にも言わずに少女が座る店に入る。
周りの人間達が容赦なく向けてくる痛々しい蔑視にはもう慣れつつある。
蘇双が店の中に入っても人間達が盗みだなんだのと騒ぎ出さないだけましだ。
「すいません、誰かいませんか」
怪しまれぬようもうすぐ必要になりそうな物を陣屋で確認して金まで持って店にやってきたというのに店に店主の姿は無かった。奥へ声をかけても出てくる気配が無い。
少女は、変わらず婚礼衣装を身にまとって座っている。
蘇双は首を傾げ、もう一度声をかけた。
すると。
にゃあぉ。
「……猫?」
店主ではなく、真っ白な猫が尻尾をぴんと立てて現れたのである。
猫は人懐こいようで段差から飛び降りると蘇双の足にすり寄って歓迎を示す。
蘇双が頭を撫でると嬉しそうに鳴き目を細めた。
「お前のご主人はいないの? 買い物に来たんだけど」
猫は鳴いて小走りに少女へ寄り、膝の上へ飛び上がる。丸くなって欠伸を一つ。
蘇双も店主がいないのならと、目的である少女に恐る恐る近付いた。寄せた手に顔を擦り付ける猫を可愛がるフリをして少女の様子を窺う。
間近で見ると、人形とは思えない生々しさをより強く感じる。
じっと見つめていた蘇双は息を呑んで手を少女の顔にそっと近付けた。
頬に触れる。
ふに、と。
「あっ……」
触れた瞬間全身が粟立った。
引っ込めた手を見下ろし、息を震わせた。
人間らしい弾力と温もり。
――――生きている。
彼女は、生きている。
「……人形じゃない……」
やっぱり、人間だ。
茫然と呟く。
にゃあぉ。
と、猫がまた鳴いた。
猫を見下ろし、固まる。
か弱い手が猫の背を優しく撫でている。
首の後ろから尻尾の付け根辺りまでを何度も何度も撫でている。
無論蘇双の手ではない。
「見つかってしまいましたね」
抑揚の無い声を聞いた途端蘇双は大きく距離を取った。
人形が――――少女が、ゆっくりと顔を上げる。
「怖がらせてしまいましたか。でしたら、申し訳ございません」
感情の無い目が蘇双を捉えた。
蘇双は言葉を失い、暫く間抜けな顔を晒していた。
猫が暢気に鳴き、動きを止めた手にせがむように身動ぎする。
少女は猫を見下ろし再び撫でてやった。
その様子を眺めているうち、柔らかな安堵が蘇双の恐怖を塗り潰して全身から力を奪う。
蘇双は座り込んだ。深呼吸を繰り返し、努(つと)めて冷静に、少女と対峙した。
「君は……」
「わたし、とうとう刑罰を受けなければならないのですね」
「え?」
「残念です、ええ、とても」
ほう、と少女は溜息を漏らす。
言葉通りのことを思っているのか怪しいくらいの無表情は人間らしさに欠けるが、彼女は間違いなく生きた人間であった。
「……えええ……」
あっさりとした展開に拍子抜けする。
今まで自分が怖がっていたのが、意気込んで店に臨んだのが、何とも情けなくなった。
長々嘆息すると、少女が無表情を向ける。
「言っておくけど、犯罪者だって突き出す気は無いよ。ボクはただ自分が見たことを確かめたかっただけだから」
少女は何度か瞬きを繰り返し、
「そうなのですか。それはようございました」
「……本当にそう思ってる?」
「思っておりますわ」
頷いてみせるが、ぴくりともしない無表情では説得力が無い。
意気込んでいた自分を馬鹿だと思いながら、蘇双は口を開いた。
が、先んじて少女が。
「ところで、お話をするなら猫と話しているフリをして下さいませんか。わたしは、人形でいなければなりませんので」
「……それ、もう少し早く言うべきじゃない?」
「いつ言おうかと、機会を待っておりました」
何なんだ、この人間……。
本当に彼女が二人も殺したのか、自分は彼女を怖がっていたのか、疑問に思った。
言う通りに彼女の前に屈み、猫を撫でる。
色々と複雑な感情が胸に去来する蘇双の手を見下ろし、
「あなたは、今は怖がらないのですね。前はあんなにも怯えていらっしゃいましたのに」
と。
それは、覚悟していたような結果とは逆方向の展開になってしまった上に、少女の態度にも拍子抜けしたからだ。
そう答えると、「左様でございますか」と淡々と納得された。
「君は人を殺して何していた訳?」
「お金をいただいておりました。お母さんを気味悪がって、お店に人が寄り付きませんし、収入よりも出費が酷いので、お金が無いのです」
「気味悪がってって……別に普通の人間のお婆さんって感じにしか見えないけど……」
「お母さんは許されないことをしました」
「許されないこと?」
「お父さんがいたのに、お父さん以外の男性と密通をしておりました。わたしがまだ四つの頃です」
猫の背を撫でていた少女の手が止まる。
猫が不満げに少女を見上げるも、何かを察したようで催促はしなかった。
少女は目を伏せ、語る。
浮気の発覚後母親はすぐに男の所へ行った。父親よりもずっと若い男の方が良いらしかった。
その後、父親は少女を連れて故郷へ帰り別の女性と再婚。少女も継母に十分過ぎる程愛されて育った。
一方母親はと言えば男と上手くいかず、男の為に昼夜問わず働かされ、男の暴力と度重なる浮気で追い詰められた果てに捨てられて精神を病んでしまった。
そして、少女が十五になった一昨年、男と浮気相手を殺したばかりか、彼女は父親の故郷にも現れた。夜中に家に押し入り、少女以外を斧で何度も何度も殴り斬り、惨殺したのである。
襲われること無く、実母が実父を、継母を、生まれたばかりの弟をなぶり殺す様を眺めているしか出来なかった少女へ、母親は三人の返り血で全身を真っ赤に染め、笑った。
『お母さんが迎えに来たよ』と――――。
「わたし、それから暫くのことは覚えていないのですが、気が付いた時には二年も経っていて、お母さんはお父さんもわたしも大昔に病で死んだと思い込んでおりました。わたしのことは、娘にそっくりだからつい買ってしまった人形だと信じて疑いません」
蘇双は見目こそ規格外に美しく、酷い欠陥を抱えた少女を見つめた。
母親が壊れた原因、自分が壊れた原因、どちらを話すにも、声音にすら感情が微塵も混ざらない。ただ書かれた文字を事務的に音読しているだけのようだ。
彼女の言動全てに、人間なら表れるべき感情の一切が無い。
「母親が許されないことをしたと分かっていて、母親が新しい家族を目の前で無惨に殺したことを覚えていて、どうして母親の為に人を殺してまで金を稼ごうと思うのさ。いつまでも人形のフリをしているのさ」
普通なら、そのような母親に罪と分かっていることまでして尽くす程の情が湧くとは思えない。
少女は目を開け、顔を上げた。蘇双を見つめ、蘇双の言葉を繰り返す。
ややあって、
「そう言えば、そうですね」
どうしてなのでしょう。
と淡泊に言うのである。
眩暈がした。
「どうしてって……こっちが訊いてるのに」
「申し訳ありません。わたしにはお答えしかねます。不思議でございま――――」
少女は言葉を止めて猫から手を離した。元のように顔の位置を固定する。
突然黙った少女に声をかけるよりも足音が聞こえた。
「……おや、この間の子じゃないか。今日はあの女の子じゃないんだね」
蘇双は不満げな猫を慰めるように頭を撫でてやり、首を巡らせた。
ようやっと、店の奥から店主――――少女の母親が現れた。
「……どうも。猫を飼ってるんですね」
「飼ってる訳じゃないよ。どうしてか野良猫が居着いちまってね。で、今日は何を買ってくれるんだい」
柔和に微笑む店主。
彼女を見ていると厭悪が顔に出てしまうからと、蘇双は俯き加減に商品を手に取り金を払った。早々に店を出る。
猫が、蘇双を送り出すように鳴いた。
‡‡‡
蘇双がその噂を聞いたのは、店で少女と会話を交わした翌日の昼だった。
劉備のところへ出かけていた関羽が帰りざまに、夏侯惇達が騒いでいたのを聞いたそうだ。
その内容を聞いて、蘇双は肝が冷えた。
「……白い衣の少女が人を殺してる?」
声が、震える。
「ええ。なんでも、洛陽で二ヶ月くらい前からお金持ちが刺殺されてお金を奪われている事件が頻発していたそうなの。それが昨夜、重傷でも何とか逃げられた人が曹操の屋敷に助けを求めて来たみたいで」
暗くて顔は良く見えなかったけど真っ白な衣をまとった若い娘だったんですって。
……間違い無い。
彼女だ。
人殺しを失敗したのだ。
何故、と考えて、昨日の会話が蘇る。
『母親が許されないことをしたと分かっていて、母親が新しい家族を目の前で無惨に殺したことを覚えていて、どうして母親の為に人を殺してまで金を稼ごうと思うのさ。いつまでも人形のフリをしているのさ』
『そう言えば、そうですね。どうしてなのでしょう』 あれだ。
何をどう考えてどうなったのかは分からないが、あれがきっと原因に間違い無い。
蘇双は青ざめた。
彼の心中など知らず、洗濯物を取り込みつつ関羽は気を付けてねと注意を促してくる。
平静を装い言葉を返した。
「注意しないといけないのはボクより買い出しにも行く関羽の方だろ。……じゃあ、この洗濯物を片付けてくるから」
「ありがとう。後はわたしだけで十分だから、自由にしてて良いわよ」
「分かった」
関羽に顔を見られないよう気を付けながら早足にその場を離れ、すれ違った同族に散歩してくると嘘をついて洛陽へ――――少女のいる店へ走った。
店は閉まっていた。
商品の無いがらんとした店内には少女の姿も無い。呼んでも店主は出てこない。
まさか捕まったんじゃ……!?
青ざめる蘇双。
されど側を通りかかった男女が、十三支がいると嫌悪混じりに吐き捨てた後、気になる話をした。
「ここの頭のおかしい婆、昨日の夜誰かに斬られたんだってさ」
「え、本当? 死んだの? 出来れば死んでて欲しいんだけどー……」
蘇双は彼らに背を向けたまま聞き耳を立てた。
「あー……死んだって話は聞かねえなあ。俺もあの婆には死んでて欲しいけど、何か人間と同じ方法で死にそうになくね?」
「ああうん、それ分かるー! ……あ、今思い出したんだけど。先月くらいかな。お姉ちゃんがたまたま店の前通ったらお婆ちゃんに話しかけられちゃってさー、人形の前に立たされて何言われたと思う? 『自慢の娘なの、可愛いでしょう? 良かったらお婿さんを紹介してちょうだい』だって! 私聞いただけで鳥肌が止まらなくてさー!」
「人形を嫁に貰う男なんている訳ないじゃんなー」
人形が実は人間で、店主の娘だと知ったら、この二人はより店主を嫌悪するだろう。 それは人形を演じ続ける少女に向けられるだろうと思うと、胸がじりじりとひりつく。
「そう言えば人形が――――」気になる続きは、聞けなかった。
雑踏に紛れる彼らを、やっと店から出た蘇双は険しい顔して見送った。
怪我をした店主は何処に行った?
いや、それよりも少女は?
店の奥へ入って確かめるか、と考えて止めた。ただでさえ蔑まれている自分が店主の許可無く入れば、嫌われ者の店とは言え騒ぎ立てられてしまうとこちらが悪者になる。
やむなしと、蘇双はそのまま陣屋へ帰った。
後ろを誰かがつけていることにも気付かずに。
何事も無く散歩から帰った風を装って陣屋に戻った蘇双を、たまたま見かけた世平が出迎え、彼の後ろを見て眉間に皺を寄せた。
「蘇双……その子はどうしたんだ」
「その子?」
「お前の後ろに座っている娘のことだ」
世平に後ろを示され不思議そうに振り返る。
ぎょっとした。
「はあ!?」
婚礼衣装を身にまとった少女が、白猫を抱いて座っていたのである。
猫が、機嫌が良さそうに鳴く。
愕然とする蘇双を怪訝そうに見下ろし、
「知り合いか? にしたってどうして婚礼衣装なんか……」
「ちょっと、蘇双! その人形、持って来ちゃったの!?」
声も出せない蘇双の代わりに返答したのは、蘇双の声を聞きつけて駆けつけた関羽である。後ろには関定と張飛もいる。
未だ少女のことを人形と思っている関羽は青ざめ蘇双の肩を掴んで揺さぶり叱りつける。
揺れでようやっと我に返った蘇双は「違う!」ぶるぶると首を左右に振って否定する。
窃盗の疑いを晴らす為に説明しようとして、躊躇った。
身の潔白を証明する為だとしても安易に話して良い内容ではない。
少女を思いやった行動ではあれど、結果的にそれが疑念を強めてしまった。
「蘇双……女の子と出会いが欲しいならオレに言ってくれれば……!」
「あー……悩みがあるなら、オレも関定も聞くからさ。あんまり貯め込むなよ」
「だから違うって!!」
両側から蘇双の肩を叩き同情的な眼差しを向けてくる幼馴染二名と、複雑そうな顔をする叔父に、蘇双は頭を抱える。それでも証明は出来ないけど自分ではないと頑なに主張し続けた。
関羽は否定ばかりで謝ろうとしない蘇双に憤然とし、眦を決した。
「もう! 今すぐ人形を返しに行くわよ! わたしも一緒に行ってあげるから」
言いつつ、少女に歩み寄り――――。
「それは困りますわ」
「困るのはあのお婆さんよ。今頃――――」
……。
……。
「……え?」
関羽はゆっくりと少女を見下ろした。
「い、今のって……」
「わたし、この方に用があってこちらに参りましたので、用を済ませぬまま家に戻るのは困ります」
少女が顔を上げる。
また、暫くの沈黙を置いて、関羽は文字通り驚倒した。
言葉にならない様子で少女を凝視する。
世平だけが冷静で、片手で顔を覆う蘇双を見て察したようだ。
「蘇双。お前はどういうことか分かってるんだな?」
「……一応は」
「なら、ひとまずお前の客として迎えるよう皆には言っておく。……関羽。彼女に服を貸してやってくれ。その格好じゃあ、周りの奴らがどんな勘違いをするか」
蘇双と少女を交互に見、肩をすくめる。
少女はややあって、世平の言葉の意味を理解したらしい。
「そうですね。こちらの方はとても素敵な殿方ですから、勘違いをされてしまっては困りますね」
「あ? ああ……まあ、そうだな……」
世平は蘇双を見、気まずそうに頷いた。
「素敵な……」
「殿方……」
「張飛、関定。言いたいことがあるならはっきり言えば?」
ぎろりと睨めつける蘇双に二人は目を逸らし、逃げた。
まだ混乱のさなかにいる関羽を助け起こし、少女と二言三言会話し、三人でその場を離れた。
猫は、少女が立ち上がる際に膝から降り、蘇双の足へ。抱き上げるとごろごろ咽を鳴らして甘えてくる。
それを見て、少女が言うのだ。
「その子も雌なのですよ」
「……だから何だよ」
「種族の違う者すら魅了してしまう程の殿方だと言うことです」
「それを言われて喜ぶと思う?」
少女は首を傾げた。
「喜ばれないのですか?」
「全く」
「それは残念ですわ」
せめて声にくらいは感情を添えて欲しい。
無表情で抑揚の無い科白に、関羽と世平が表現しがたい表情で少女と蘇双のやりとりを見ていた。
後からちゃんと説明するからと、少女に自分のいないところで身の上話をしないように口止めをしておき、蘇双は世平と関羽の天幕に先に行っておく。
少女は大人しく従ってくれたのだろう、すぐに彼女の服に着替えて天幕に現れた。
世平は張飛達と手分けして猫族全員に少女のことを伝えて回る為、遅くなるとのこと。蘇双の知り合いで警戒不要と言ってくれるようで、ひとまずは安堵した。
座った少女に思う存分甘える猫を見下ろす関羽はまだ半信半疑のようだった。
「ね、ねえ、蘇双……本当にこの子、あの店の人形なの?」
「左様にございます。こちらの方に詳細を語ることは禁じられておりますので、ご容赦下さいませ」
少女が深々と頭を下げると、関羽はたじろぎぎこちなく頷く。
「え、ええ……あの、でもね、」
「関羽。混乱してるのは分かるけど、ここは世平叔父が来るまで待っててよ」
早く事態を把握したいのだろう関羽を宥め、蘇双は少女を見やる。
少女は本当に蘇双の言葉に従い、自分のことを話していないようだ。
人形でいる時のようにじっとしている少女を眺め、ふと彼女の名前を知らないことに違和感を覚えた。
少女が躊躇い無く話したからとは言え、少女の身の上の深い部分まで知っているのに、名前という基本的な情報を知らないのは、如何なものか。
そう思った蘇双は、「ねえ」少女に声をかける。
名前を知らないので彼女を限定して呼ぶことは出来ず、呼ばれたことに気付くだろうかと不安に思ったが、少女は蘇双に焦点を合わせた。
「ボクは張蘇双。君の名前は?」
「○○と申します。そう言えばわたし、名乗っておりませんでしたね。申し訳ございませんでした、蘇双さん」
「ボクも訊かなかったし」
「ああ、言われてみればそうでした」
○○に『蘇双さん』と呼ばれても、呼ばれているように全く思えないのは、もう仕方がないと諦めた。
人形と思い込んでいなかったのが実は生きた人間だった彼女の隣に座っているのが気まずいらしい関羽を気遣い、○○を隣に移動させる。
「殿方の隣に座るというのは、こういう感覚なのですね」
冗談なのか、本気なのか……。
蘇双は溜息を漏らし、世平が来るまで気まずい沈黙を過ごしたのだった。
ようやっと天幕に入ってきた世平の後ろには、好奇心満々の関定と張飛が続いていた。
わくわくしている二人が青ざめることを予想しつつ、世平に促されて○○のことを話した。勿論、関羽が聞いた強盗殺人の犯人が○○であり、奪った金を母親に与えていたということも伝えた。
人形と思い込んでいたのにどうして受け取るのかとの指摘には、○○本人が金だけを母親が金を貯めていた壷の中にこっそりと入れていたことを話した。何処にあるどんな壷かも話そうとしたので慌てて止めた。
悲惨な過去に予想通りの反応を示した関定と張飛、途端に同情しだした関羽を無視して、○○にどうしてここまでついてきたのか訊ねた。
○○は暫し瞬きし、
「さあ」
首を傾げた。
蘇双は軽い眩暈を覚えた。
「用があったんじゃなかったの?」
「はい。ですが、わたしは何の用があったのでしょう」
「ボクに訊かないでよ。……じゃあ、ボクをつけ始めたのはいつ?」
「蘇双さんがわたしの家からお帰りになる時からですね」
「君の母親が怪我をしたらしいけど、それは知ってる?」
「わたしが斬ったからですわ」
さらりと答えてしまう。
張飛達が仰け反り、顔を強ばらせた。
関羽も青ざめ目を剥いて○○を凝視する。
○○は周囲の空気に気付かず、また水の流れるように当時の状況を説明しだした。
「蘇双さんと話したその日の夜、お母さんが正気に戻ったみたいで。深夜にわたしに向かって土下座をして泣き出してしまったんです。それでわたし、蘇双さんに言われたことを思い出して、自分がお母さんをどう思っているのか考えてみました。ですが、自分の心とは分かりそうで分からないものですね」
最後の言葉は頷けそうで頷けない。これも○○だからである。
○○も壊れていると分かっているが、やはりどうしても蘇双自身の物差しを基準に聞いているので、どうしても彼女の話に引いてしまう。
が、○○はそれにも気付かずに話を続ける。
「それで、試してみようと思って、お母さんを斬ってみたんです。憎ければお母さんを傷つければ少しはすっきりするでしょうし、愛着があるなら悲しくなるか、後悔するでしょうから」
「……で、どうだった訳?」
「さあ、何も感じませんでした。腕を斬ってみるとお母さんは血を流しながら一杯泣くんです。腹を斬ってみると血を流しながら一杯謝るんです。でも、わたしは何も思わなくて、憎いのか好きなのか分かりませんでした」
「で、お母さんはどうなった?」
「さあ。わたし、いつも通りお金を貰いに行ったので。帰ったら誰もいなかったんです。ああ、いいえ。この子がおりました」
○○の手が猫を撫でる。
母親は、娘に斬られて医者へ駆け込んだのかもしれない。
となると、騒ぎになっている可能性もある。
関定が、声を震わせた。
「蘇双……知り合いになる女の子は、選ぼうな?」
「関定。選ぶ余地も無かったって、分からない?」
「心中お察しします……」
○○は関定と蘇双を眺めて、思い出したように立ち上がった。
「そろそろ、戻らなければなりません。申し訳ございませんが、服を返していただけますか?」
「え……? で、でも、あなたお母さんを斬ってしまったんでしょう? 家に戻れないんじゃあ……」
関羽に指摘されて、○○がまたつかの間の思案。
そして、
「そうですね。お母さんがまだ正気なら、わたしを見たらまた泣いて謝罪して騒いでしまいますね」
斜め上方向に納得した。
蘇双は頭を抱える。
世平が肩を叩き慰めるが、全く嬉しくない。
「ですがわたし、あの場所に座っていなければなりませんので、服を返していただけませんか?」
「ひとまず、今日はここにいなよ。正気に戻ったままなら今戻ると大きな騒ぎになるし、君だってもう少し自分のこと考える時間があっても良いんじゃない?」
色々と思うことはあるが、自分のことを見つめる気になっているのはとても良い傾向だとは思う。
正直関わり合いになるには○○はかなりの勇気と覚悟と根気のいる相手だが、ここで野放しにしていざ騒ぎになった際、猫族との関係をさらっと暴露されてはたまったものではない。その時こそ猫族は更なる窮地へ立たされることになる。
取り敢えず明日関羽が店の様子を見に行き、店主がいて、○○のことを人形だと思い込んでいたならそのまま関羽が人形を拾ったと伝えて届ける。正気に戻っているままならまだ様子見とすることで、○○を納得させた。
不思議なことに、○○は蘇双の言葉には驚く程従順であった。
関羽達が諭そうとして無駄に終わっても、蘇双の一言ですんなりと頷くのだ。
これにより、満場一致で蘇双が○○の監視役となった。蘇双自身、他の者に任せることに強い恐怖を感じるので文句は言わなかった。
念の為、○○が滞在している間は蘇双の両親には他の天幕に泊まってもらうように頼んだ。
同年代の少女と二人きりで夜を明かす状況に、羞恥も期待も無い。ただただ厄介な事態になったと頭痛が止まない。そのうち胃痛もしてきそうだ。髪の毛……はまだ考えたくない。
○○は天幕の隅に端座し、眉間に皺を寄せっ放しの蘇双をじっと眺めている。
猫は相変わらず、○○に構って攻撃を仕掛けて胸までよじ登ろうとする。
○○に怯えていた関定と張飛は勿論、関羽も同情していたくせにこの天幕には訪れない。世平が稀に様子を確認しにくるのみである。他の猫族が来ないのは、きっと世平から言ってくれているからなのだろう。
蘇双は猫を見つめ、ふと口を開いた。
「例えばの話、その猫を殺したらどう?」
「この猫をですか?」
猫の首に手をやろうとしたので咄嗟に猫を奪い取る。
「例えばの話で実際に殺せとは言ってない。もし傷つけたのが母親じゃなくてその猫だったら君はどう思うのか、訊きたいのはそれ。想像すれば良いだけの話」
○○は猫をじっと見、「わたしがその子を殺す……」思案する。
そして――――。
そこで初めて、表情に変化が現れたのである!
「殺す……傷つける……」
眉間にうっすらと皺を作り、押し黙る。
思わぬ手応えに、蘇双は少し拍子抜けした。
ただ、この反応が正直なものなら、母親は猫以下ということになる。
猫が殺されることに表情に出る程度の嫌悪があるが、母親を自らの手で傷つけても憎いのでもなく好きでもなかった――――それはつまり、《無関心》なのでは?
だがそれでは○○の凶行の理由が分からない。
無関心なら金を与えて助けようなどと思えまい。
取り敢えず人として壊れてはいるだろうが、猫に対して抱く感情は辛うじて残っているのだと、存外なことが分かった。
蘇双がほっとしたのは、無理もないだろう。
猫が抗議するように鳴いたので解放してやると、一直線に戻っていく。
「その猫、名前は無いの?」
「……考えたことがございませんでした」
「じゃあ、今付けてみたら?」
○○は猫を飽き上げ、間近で見つめ合う。
ややあって、
「でしたら、『蘇双』と呼ぶことにします」
「は?」
「あなたを魅了した殿方の名前ですもの」
それが良いですわ。
蘇双は顎を落とす。
「ちょっと待って。それボクの名前なんだけど」
「はい。ですからこの子が好きになった殿方の名前をと」
「どうしてそうなるのさ!」
蘇双は変えるように言うが、○○はもう猫を蘇双と呼び、それに猫も嬉しげに鳴き返すのだ。
「蘇双も蘇双さんの名前が良いそうです。蘇双は蘇双さんが本当に大好きなのですね」
「……紛らわしいから止めてってば……!」
何度言っても、蘇双に従順だった彼女はこればかりは言うことを聞いてくれなかった。
その後猫を蘇双と呼び続ける○○に脱力してうなだれているのを、○○の分の寝具を持って訪れた世平が見て察し、無言で頭を撫でることになる。
○○の問題行動は、それだけに留まらない。
いざ寝ようとなった時、蘇双が広げてやった寝具に入らず、彼女は座ったまま目を閉じたのである。
人形扱いされていた頃の寝方なのだろうが、ここでまでそうする必要は無いと、強引に寝かせた。猫もご機嫌で○○の寝具の中に潜り込む。
「横になって寝るのは人形になってから初めてです」
そう言って目を閉じた○○に安堵し、蘇双も寝に入る。
翌日またとんでもない事態になるなど予想せず、すぐに意識を睡魔に委ねたのだった。
‡‡‡
どうしてこうなった。
窮屈になって目覚めてみたら、何故か目の前に○○の寝顔がある。
逃げようと思ったら背中にきっちり腕が回っている。
この時ばかりはさすがに恐怖や戸惑いよりも羞恥が勝った。
何とかして逃れようとしたり、○○を起こそうとしたりして足掻いてみるが、無駄である。
この○○、強めに背中を叩いても五月蠅く声をかけても、全く起きない。
久し振りに横になったことで余程良い眠りに就いているのかもしれないが、どうして蘇双に抱きついているのか……。
気付けば蘇双の背後に猫も丸くなっている。
この状態で誰かが来たら――――地獄だ。
蘇双は必死に○○を離そうと苦心する。
が、○○は起きないどころか蘇双により密着してくる。足も絡めてきて、全身が爆発しそうである。
そうこうしているうちに、天幕の外から世平の声が聞こえ、蘇双の赤い顔が一気に青くなる。
されど世平なら――――と考え直し、「世平叔父、助けて!」と叫んだ。
その声に世平が天幕に飛び込んでくる。
険しい顔は蘇双を見て、一瞬で強ばった。
無言で見つめ合うこと暫し、
「……蘇双」
「違うから! そっちに寝かせてた筈が、朝起きたら勝手に抱きついてて、離そうとすればする程くっついてきて苦しいくらいで――――」
「ん……」
「起きろってば!!」
胸に頬を寄せてくる○○に、蘇双はたまらず叫ぶ。
世平が苦笑混じりに蘇双から○○を引き剥がそうとするが、世平の予想以上に強くしがみついており、彼も苦心した。
ようやっと引き剥がして元の寝具に戻してやっても、○○は起きなかった。
「相当懐かれてるな、お前」
「全っ然、嬉しくない……!」
朝からぐったりとうなだれる蘇双の頭を撫で、世平はすり寄ってきた猫に声をかけた。
「猫蘇双。お前は早起きなんだな」
「世平叔父その呼び方止めて」
「だが彼女は蘇双って名前を付けちまったんだろ? しかもお前が嫌だと言っても変えないならどうしようもねえ。何でそんなに気に入られてるんだ?」
さあ……と言おうとして、○○を見下ろす。
暫し思案して、
「多分、人形生活が始まってからまともに会話をしたのはボクが最初なんだと思う……」
思えば蘇双にさらさらと躊躇い無く自分の身の上を話してしまったのも、それが少しは作用しているのかもしれない。感情があるのか定かではないが嬉しかったのか、誰かに知って欲しいと思ったのか、単純に話し慣れていなくて加減が分からなかったのかは、分からないけれども。
○○を眺めているうち、世平がぼやいた。
「まるで猫みたいだな」
「猫?」
「猫は人を選ぶって言うだろ。群を作らず上下関係が無い所為か、自分が心を許せる人間を見極めて懐くんだそうだ」
とどのつまり、○○にとって心を許せる相手が自分であると……。
……。
……。
「それってつまり彼女の飼い主になれってことじゃないよね」
「そうまでは言ってない。ただ、ここにいる間だけは仲良くしてやっても良いんじゃねえか。種族のことは抜きにして」
「仲良くって言ったって……」
「同衾(どうきん)した相手への接し方が分からねえか?」
「違う!!」
大声で否定する甥に世平は笑い、ひとまず朝飯をこっちに持ってくると天幕を出ていった。
蘇双はぶつぶつ文句を言いながら己の寝具を片付け、○○から少し離れた場所で彼女が目覚めるのを待った。
目覚めてすぐ説教をしたが、剥がした後に起きた所為か本人に自覚は無く、さして効果は望めずに終わった。
それから数日、蘇双は○○の母親の所在が分からずに陣屋で彼女の面倒を見ることになる。
○○は片時も蘇双の側を離れなかった。
寝ると必ず朝には蘇双に抱きついている癖は何度言っても一向に直る気配を見せず、関定に見られて絶好のからかいの種と化す。
一部では蘇双に恋する○○と言う認識が広まり、更に蘇双を悩ませた。
自身について色々と考える暇が出来た○○は、猫族の陣屋にいる間は、彼女が強盗殺人を犯す機会も無かった。
ただ、日が経つにつれ金がそろそろ底をつくとそわそわしだしたのを世平が見かねて、ある日犯行を未然に防ぐ為、曹操から支給されている金を少しだけ持って行かせた。無論、金を置いたらこちらに戻ってくるように言いつけて。
○○は素直に従った。
が――――。
薄暮に店へ帰宅した○○が猫族のもとに戻ることは無かった。
彼女が戻ってくる前に、猫族は強制的に洛陽を去らざるを得ない状況に追い込まれたのである。
‡‡‡
とにかく○○のことだけが気がかりだった。
こちらの意思に関係無く董卓討伐の連合軍に加えられた猫族。
黄巾賊討伐同様、曹操によって巻き込まれた彼らは憤然としながらもどうすることも出来ない現状に奥歯を噛み締め従う他なかった。
わけても蘇双は、置いていく形になってしまった○○とその母親のことが気がかりだった。
あの時点でまだ母親は行方が知れない状態だった。
だから陣屋に戻るように言ってあったのに、猫族は洛陽を去った。
あれから○○と猫がどうなったのか……考えない日は無かった。
それは世平らも同じで、彼女が悪い状況に陥っていなければと願っていた。
そんな彼らであったから、ようやっと戻ってきた洛陽の惨状を目にした衝撃は大きかった。
あんなにも賑やかに活気づいていた洛陽は、死んでいた。
あらゆる建物は焼けて崩壊し、瓦礫の隙間から黒こげの、人間だったものがはみ出している。
子供の物だろうか玩具が一部焦げて石畳に転がっているのを見、蘇双は目を逸らした。
「ね、ねえ、蘇双……○○は?」
「……行ってくる」
曹操軍は董卓を追いかけていった。
猫族はもう自由の身。
だから、蘇双は駆け出した。
真っ直ぐに○○が人形として母親と暮らしていた店へ――――。
「!」
真っ黒に焼かれ倒壊していた。
店が見えた瞬間、蘇双は立ち止まった。
心臓がばくばくと早鐘を打つ。
走れば体温は上がる筈なのに、逆に冷えていく。
強い罪悪感が胸の内から無数の針を突き出すように痛みを生む。
世平が横を駆け抜けていく。
店だった残骸に駆け寄った叔父は、ややあって怒鳴るように蘇双を呼んだ。
「蘇双! ○○がいたぞ!!」
「! え……」
蘇双は立ち上がり、世平のもとへ。
彼が示す場所は店の横の小道。
そこには、婚礼衣装を真っ赤に染めた○○が仰向けに倒れ、その横で尻尾を揺らす白猫がいる。
世平は○○の身体を抱き上げ呼吸と脈、怪我が無いか衣装の血に染まった部分を重点的に確認し、世平はほっとした。
「……眠ってる……細かい怪我はしているが、重傷は無いようだな」
にゃあぉ。
「猫蘇双も、元気そうだ。この服の血は、別の人間のものだろう」
何が起こったのかは、彼女が目覚めてからだ。
取り敢えず皆の所へ戻ろうと蘇双が○○を背負い、移動する。
と、暫くして、
「ん……」
耳元で○○が掠れた声を漏らし、身体を震わせた。
「○○?」
恐る恐る呼ぶと、ややあって、
「あら……蘇双さん。お久し振りですね」
平坦な声が返ってきた。
脱力しかけた身体を持ち直し、「ごめん」と。
「何かございましたか?」
「○○を店へやった日、俺達は洛陽を急いで去らなければならなくなった。陣屋があった場所に戻ってきて、驚いただろう」
「ええ。何にも無かったので、そこでのんびり寝ておりました。ですが、蘇双さんと一緒に寝ている時程眠れませんでしたわ」
蘇双は彼女の声音に違和感を感じた。
長らく聞かなかったからかもしれない。
微かだが、言葉に感情の起伏があるように感じられたのだ。
気の所為か?
そう思ったが、首に回った○○の腕に少しだけ力がこもる。
「あの後、思い出しました」
「思い出した?」
○○は蘇双のこめかみにすり寄った。
「わたし、お母さんのことどうでも良かったのですね。お金を集めていたのも、わたしの生活費として集めていただけだったのを、たった数ヶ月前のことなのに忘れておりました」
「……○○、」
「……ふ、ふふ……ふふふ……」
声色低く、笑い出す。
初めて笑った。
壊れたのではなく、嘲るような、蘇双の記憶に残る○○では考えられない程人間らしい笑い声だった。
驚いて足を止めた。
世平も目を丸くして○○を凝視している。
蘇双達が洛陽を離れている間に、彼女に……否、彼女と母親の間に一体何があったのだろう。
「ふふふ……お母さん、手当てをして戻ってきたらまたわたしを人形にしていたのに、わたしを庇ったんですよ。いきなり現れた兵士にわたしが襲われようとした時、体当たりして、わたしの名前を呼んで、お父さんの所に逃げなさいって……自分が殺したのに、それを忘れて……かと思ったら、ふふ……人形が動いていると騒ぎ出して、私に怯えて傷だらけで逃げていったんです……あんなに速く……ふ、ふふふ……何がしたかったのか……ふふふふふ」
笑い声は震え、湿っている。
泣いていると見ずともすぐに分かった。
○○は驚く程、人間らしくなっていた。
母親に庇われた直後に人形と誤認されて勝手に怯えて見捨てられて、感情が表面に出るようになったらしい。
だがこれでは喜べないし、良かったとも言えない。
もっと良い戻り方があっただろうに、よりにもよってこんな状況で、こんな状態で……とは。
「……世平叔父」
「ああ。関羽達には俺から言っておく。……お前もあまり気に病むなよ」
「分かってる」
世平は小走りに猫族のもとへ。
蘇双は適当な段差に○○を座らせ、隣に座った。
○○はやはり泣いていた。ぼろぼろと止め方が分からないようで、絶えず流し続けながら、笑い続ける。
猫がすり寄ると抱き締める。
世平にはああ言われたが、彼女を見てきっかけを作ってしまった蘇双を罪悪感がじりじりと苛む。
蘇双が○○の犯行を目撃して、彼女の正体を確かめようとか思わなかったら、安易なことを言わなかったら、もっと良い形で良い方向へ進んだのではないだろうか。
後悔先に立たず――――今更思い悩んでもどうにもならないが、そんな考えが止まらない。
原因が彼女に何をしてやれば良いのか迷った末に、恐る恐る頭を撫でた。
○○は目を伏せ、猫を抱いたまま蘇双にすり寄った。胸の辺りにすり寄り、ただただ泣き、ただただ笑い続けた。
劇的に人間らしくなっている。けれどこれはつかの間のことで、次の瞬間には本当に壊れてしまうのではないか……不安で落ち着かない。
「その……ごめん」
「何がです?」
「そもそもボクが安易なことを言わなければ、こうはならなかったかもしれない」
別の人間が○○を救っていたかもしれない。
○○は暫し沈黙し、「でしたら」
「蘇双さんには責任を取ってもらわなければなりませんわね」
また、すり寄る。
「殿方が女の人生を変える責任を負う代わりに、女は殿方に永遠を誓うものだと、継母に聞きました……」
「……は?」
蘇双は固まった。
……ちょっと、待て。
それはつまり結婚――――男女の深い関係にのみ適応されるものでは?
「責任は責任でもそっちの意味の責任じゃ――――」
言い止(さ)し、彼女が笑いながらもぞっとする程虚ろな目でこちらを見上げていることに気付いた。
○○は母親の残酷な所業によって失った人間らしさを母親の残酷な所業によって取り戻した。
だからといって、新たに何かが壊れていないとも限らない――――。
蘇双は何も言わず、受け入れも拒みもせず、彼女が疲れて眠ってしまうまで頭を撫でてやった。
その後寝ている筈なのに抱きついてこようとしたのを何とか回避し、着替えを持って駆けつけた関羽にそのまま引き渡す。関羽に抱きつこうとしないのが不思議だった。
○○を背負い、関羽は痛ましげに蘇双を見やる。
「世平おじさんから聞いたわ。○○、感情が出るようになってたんですって? よりにもよってこんな時に」
「一時的かも知れない。……落ち着いた後でもっと壊れる可能性もあるよね」
眠る前の状態は言わず、示唆(しさ)する。
世平から○○の母親がやったことも聞いたのだろう。関羽は苦しげに顔を歪めて「……そうね」頷いた。
「皆、この子を引き取ることには賛成してくれたわ」
「誰か殺されるかも知れないよ?」
「殺してお金を奪う理由はもう無いでしょう? 贅沢は出来ないけど、普通に暮らせる環境になるんだから」
「……まあね」
「○○を捨てるような形で洛陽を出て行ってしまったこと、関定達も結構気にしていたみたいよ。何だかんだで数日一緒に過ごしていたから情が湧いたのね。世平おじさんも言っていたけど、何だか蘇双に構って欲しがる猫みたいだったって。だからあなたも○○とずっと一緒にいるのかしら?」
にゃあぉ。
下に降ろされた白猫が尻尾をぴんと立てて鳴く。
「きっと大丈夫よ」関羽は蘇双に言い、歩き出す。
関羽の言葉を繰り返し、蘇双は吐息を漏らす。
「……そうだと良いんだけどね」
脳裏に、○○の虚ろな眼差しが蘇る。
結果的にこんな状況に追いやるきっかけを作ってしまった責任は取らなければならない。
だが正直、どうやって彼女に責任を取れば良いのか現時点では分からなかった。
蘇双は実の両親を幼い頃に亡くした。今の両親も良くしてくれている。親の修羅場や凶行を見ることなど無かったし、見捨てられるなんて考えもつかない。それはきっと他の猫族だって同じだ。○○の境遇こそ、作り話のようにすら思える。
責任を取らねばならないと分かっていながら、どうやったら彼女の壊れた部分が直るのか、父親や継母、異母弟と暮らしていた頃の彼女に戻せるのか、見当もつかない体たらく。
ただ、言えるのは。
○○の言っていた責任の取り方は簡単だが、何も解決しないということだけ。
まさか人間の為にここまでなるとは思わなかった。
が、○○に比べてずっと恵まれた環境で育った自分には非常に難しい問題だと思いながらも、不思議と億劫ではない。
むしろ、真摯に取り組もうとしてる。
「悪いけど、お前も協力してよ。○○が普通に生きられるように」
代わりに、別の名前を用意してやるから。
蘇双は猫を見下ろして頼んだ。
にゃあぉ。
猫は、答えるように鳴き、蘇双の咽元に頭をすり付けた。
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