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‡‡‡
――――だが。
「○○!!」
「!!」
どれくらい、そこで過ごしていただろう。何日も経ったかのようにも思えるが、それ程経っていないかもしれない。
白虎と共にぼうっとしていた○○は、初め、幻聴かと思った。
けれども自分を呼ぶ声は何度も何度も聞こえてきて、徐々に近付いてきているのだ。
白虎も確信を持って○○の身体を顎で押し、無理矢理に立たせる。
それからややあって、斜面を駆け下りてきた少女がいた。
「……っ良かった、○○!!」
「ひいいぃぇええっ!?」
○○を見るなり黒い瞳を潤ませて抱きついてきた彼女に、○○はいつかの時のように悲鳴を上げ、しかし湧き上がる歓喜に、涙が滲んだ。
少女が――――関羽が悲鳴に身を離すとわたわたと慌て出して、ぽろぽろ流れ落ちる涙を袖で拭ってやった。
「ごめんなさい。わたし、今力を加減していなかったわよね! 痛かった? 大丈夫!?」
「ううぅぅう……っ」
「! や、やっぱり痛いのね! 何処? 痣になっているかどうか――――」
「生きででずみまぜんんんん……!!」
「生きてて良いのよ○○!?」
○○は泣きながら関羽に抱きついた。
関羽は戸惑いつつ、頭をぽんぽんと撫でてやる。
するとより一層泣き声が増すのである。
久し振りの大号泣が懐かしく思えるのも、致し方ない。
関羽は、暫く○○の好きにさせた。
泣き止んでもちょっとの刺激ですぐに泣き出してしまう○○を根気良く宥め、白虎も連れて無惨に焼けてしまった村に戻る。
二人と一頭を出迎えたのは、当然ながら猫族である。
《猫族全員》という光景が、○○にとっては大きな意味を持ち、大きな衝撃を与えた。
「……どうして」
皆様、村から逃げたのでは?
茫然として独り言のように小さく問いを投げる○○に、村に残っていた猫族達は揃って呆れ顔。
「どうしてって、お前達を置いて逃げられないだろう」
「かと言ってあたし達じゃあんた、恥ずかしがって隠れてしまうし」
「だから俺らはお前がこっちに来ないように人間達から隠れながら森を見張っていたんだぞ。虎がたまにこっちに様子を見に来てすぐに森に帰っていたから、知っているもんだと思ってたが……」
ぎょっと白虎を見下ろせば、欠伸をしていつの間にか無事を喜んでじゃれついている劉備の相手をしている。
言わなかったのは、○○が信じないとでも思ったのか。
心外な――――と思ったが、多分、白虎の予想通りだろう。
○○は猫族の苦笑を見渡し、
「……」
「……姉貴」
「ええ……危険かも」
「……わだじなんががいぎででずみまぜんんんん〜!!」
「「「この流れでそれか!!」」」
ツッコんだのは張飛、関定、蘇双である。
関羽はまた泣き出した○○を抱き締めて宥めた。今度は世平と劉備も加勢する。
見目は関羽よりも幾らか歳上なのだが、猫族の誰よりも子供っぽく見えてしまう讙に、誰もが慣れきって苦笑を浮かべるしかない。
だが、ふと泣き止んだかと思うと、○○は大勢の猫族に囲まれている己の状況を今更理解し、今更羞恥がこみ上げてきた。
「ああっ、○○!! お願いだから今になって逃げようとしないで!!」
「キャインッ!!」
「劉備様! 虎と一緒にそいつをしっかり捕まえておいて下さい!」
物影に逃げ込もうとした恥ずかしがり屋を、虎が服を噛んで転倒させる。
起き上がったところを劉備と結託して捕まえた。
その様を眺めながら、関定が溜息を漏らした。
「……あー限界だったかー」
「いや、今までより長かったと思うよ……気付いてなかっただけだけど」
「これから旅に出ることになんのに、あれで大丈夫か?」
「「さあ……」」
……いや、その前に乗り越えなければならない壁が一つある。
「あの女性は、人間か……?」
猫族に紛れて、一人の青年が不思議そうに首を傾げた。
「あー。趙雲。驚かずに聞いてくれな」
「あいつな、○○って言って、讙って言う妖らしいんだ」
「妖? かん?」
趙雲の反応は分かり切ったものだ。
張飛達は腕を組み、溜息をついた。
「分かんねーよなあ……オレらも分かんねーもん」
「今は人の姿をしてるから信じられないと思うけど、実際僕達は一つ目で尾が三つの獣の姿を見てる。あの前髪の下、一つ目の所為で眼窩(がんか)はあるけど眼球が無いから瞼がずっと閉じっ放しなんだ」
「あんな情け無いのが妖だって、しかも鳴き声で邪気とか追い払ってくれるとか信じたくないけど」
「鳴き声で追い払うんじゃなくて泣き声で女性の母性本能を目覚めさせてるよね……」
世平に手を繋がれたまま背中に隠れる○○の顔はいつも通り真っ赤だ。誰かと目が合うと一瞬で引っ込む。
今まで一度も人間や猫族と接したことが無いとしても、ただ他人がいるだけでああなるのはさすがに度が過ぎていると思わざるを得ない。
今から新天地へ向かうと言うのに、これでは先が思いやられる。
これから世話になる趙雲にも、○○の取り扱いについての説明をしっかりとしてやる。趙雲にも心得ておいてもらわなければ、過剰な恥ずかしがり屋の○○が逃げ出して大騒動になりかねない。
趙雲は、関定達からの説明を受けながら、関羽に宥められる○○に視線を注いでいた。
それが徐々に熱を帯びていることなど、誰も気付かない。
「……つまり、彼女の羞恥の琴線に触れないよう細心の注意を払えば良いんだな?」
「過剰に、を忘れないで。多分それでも不十分だから」
「分かった。ではまず、自己紹介で感覚を掴んでみよう」
趙雲はその場から関羽と○○を呼び、途端にびくりと身体を震わせた○○の様子を窺いながらそっと近付いた。
三歩程間を取って、努めて優しく名乗った。
「俺は、趙雲。公孫賛様の命で、猫族を右北平へ案内することとなった。○○殿も、何か困ったことがあったら遠慮無く声をかけてくれ」
「……すみません。お気っ……遣い、あぁりがとゥございます、すみまぜん……」
「○○。言えてねえぞ」
「世平おじさん。これが精一杯なのよ。これでも上手に話せている方だわ」
頭を撫でながら、関羽が苦笑する。実際、昔はもっと言葉になっていなかった。
趙雲はもう二歩程後退し、讙についての質問をしたり、自虐謝罪に走る彼女をやんわりと励ましつつ軌道修正したりと、彼に出来る最大限の気遣いを見せた。
趙雲が妖だと分かっていても変な目で見ていないことに、関羽も世平も安堵する。
○○は、今にも逃げ出してしまいそうだ――――。
‡‡‡
新たに蒼野に居を構えた猫族は、ようやっと得られた平穏に安堵した。
けども。
○○にとって安堵する暇も無く、日々対人羞恥に逃げ出して白虎に宥められている。
蒼野に落ち着いてすぐに関羽がまた一人曹操への間者として旅立ったのだ。
ついて行こうとした○○はやはり関羽にも周りにも止められ、蒼野の森に居残ることとなった。
白虎と一緒に世平や劉備のもとを訪れて過ごすこともあるが、それでも寂しいものは寂しい。
加えて、公孫賛の命令で猫族を迎えに来たという趙雲のことがあった。
彼が、どうしてか頻繁に蒼野を訪れると○○の住む森まで足を運ぶのだ。
白虎が間に入って会話をするが、趙雲に右北平の城下を案内したいと毎度言うのに○○は全身で拒絶する。趙雲の熱を帯びた眼差しに、その熱の正体が分からない○○はとても戸惑っていた。
全力で拒まれているのに趙雲は諦めなかった。
一部を除いた猫族の前でも羞恥で逃げ出したくなるというのに、彼らに比べて全く親しくない趙雲との対話に、○○が耐えられる筈もなかった。
来る度に必ず熱っぽく誘ってくる趙雲に、○○は困り果てて世平に助けを求めた。
だが――――。
「―――#どうして、こんなことに……」
「仕方が無い。趙雲も別に二人きりが良いとは言わなかっただろう? 劉備様の気晴らしついでと思えば良い」
ううう、と唸って潤んだ隻眼で睨めつけるが、頭を撫でて宥められた。
今、彼女は世平や劉備と共に右北平を訪れている。
前には趙雲。喜々として案内してくれているが、○○は大勢の人間の雑踏の中にいて恥ずかしさで今にも死にそうだ。
○○の相談に世平はすぐに結論を出した。
世平と劉備が二人に同行するという条件をつけることで趙雲の要望を叶えてやるという、○○にとって無情極まる答えを。
嫌だと猛抗議したが、劉備が行きたいと言い出してしまって……渋々折れる他無かった。
「虎様もいないのに……」
「それも仕方が無い。虎が堂々と人の生活圏を歩き回るものじゃないからな。最悪兵士に捕らえられて殺されちまう」
「こここ殺される!?」
「あくまで可能性だ。だが、俺達もいるのだから、良い展開にならないことは確かだ。だから、予(あらかじ)め避けておいた方が良い」
猫族は、人間に十三支と忌み嫌われている。
それは知っている。
こんなに良い人達なのに、どうして嫌うことがあろう。
○○には、この差別が不思議でならない。
自分のような妖なら仕方のないことだ。
だが、猫族は人とほとんど変わらない。変わらないのに迫害を受ける。
永く生きているが、ひっそりと生きていた為に人の世がとんと分からない。
首を傾げていると、劉備が袖を引く。
何事かと見下ろせば楽しそうに目をきらきらさせてとある店を指差した。
「○○。あのお店、きれいなものがいっぱいあるよ!」
「ならばまずあの店に行こうか」
劉備の言葉に即座に反応した趙雲が、劉備に笑いかけて方向を変える。
趙雲の後ろに従いながら劉備と共に店に寄る。
すると店主と思われる若い女性が露骨に嫌そうな顔をした。劉備を睨んで何かを言おうとしたのも一瞬、視界を遮るように立った趙雲に口を噤み、頬に朱を走らせて奥へ走って戻っていった。
見目の良い趙雲が市井の娘達にも絶大な人気があるとは、○○や劉備どころか趙雲本人にも分からない。
劉備が興味を示した店は、服を仕立てる布を取り扱っている店のようだ。
並べられた布は、いつもまっさらな白無垢の衣をまとう○○にはどれも派手過ぎる。
されども見ているだけでもとても楽しい。
劉備と揃って一枚一枚眺めていると、劉備が一枚の布地を指差して笑みを深めた。
「この青くてきらきらしたの、○○ににあうよ!」
「えっ、すみませ――――こんな派手な綺麗な布がですか!? すみません! すみません!」
○○は謝りながら頭を下げる。
劉備はこてんと首を傾げた。
「? どうしてあやまるの? ○○は青色、きらい?」
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