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※夢主人外です。
最近、妙な生き物が付近に住み着いたらしい。
一つ目に三本の尾を持つ四つ足の獣。
目撃した猫族は皆口々にそう言うが、そんな不可解な外見の獣、見たことの無い関羽には見間違いだとしか思えなかった。
だから、その日突然の雷雨に見舞われ逃げ惑う中でかの怪異を見た瞬間、仰天した。
雨宿りして、遠くで鳴り響く雷鳴にびくびく震えていたところ、雨足が弱まったほんの一時。
たまたま右手が急な斜面になっていて、その下を聞いた通りの茶色い獣がずぶ濡れでとてとて歩いているではないか。
周囲の様子を注意深く確認し、足を止める。
そして――――。
関羽は両手で口を覆った。
獣が発光し始めたかと思うと、ゆっくりと姿を変えたのである。
関羽よりも二つか三つ歳上の見たことも無い、絶世の美女だ。
片目を前髪で隠しているのは、元の姿が一つ目だからだろうか。茶色の髪は濡れ、頬や身体にぴったりと張り付いている。
見るからに儚く華奢で、純白の衣から覗く足は歩けるのかと言う程細く、手も何も持てないのではないかと言う程細い。
思わず魅取れていると、ふと美女が顔を上げる。
目が、合う。
瞬間美女は青ざめ口を薄く開き、
「ひ――――ひえええぇぇぇぇっ!!」
「あっ!!」
情けない悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
が、僅か二歩。
「なうっ!?」
転んだ。
ぬかるんでいるとは言え、顔面から地面に倒れ込んだ美女はぴくりともしない。
まさか泥に顔が埋まって抜けないんじゃ……!
関羽は慌てて木を掴みながら斜面を下った。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あぅぅ……」
助け起こして袖で顔を拭いてやる。
倒れた時に頬を擦り剥いて血が滲んでいた。
「大丈夫?」そっと声をかけると、彼女はすぐに泣き出してしまった。
「え……まだ何処か痛いの!?」
「…………ません」
「え?」
「すみませんこんな出来損ないがのうのうと皆様と同じ空気を吸って生きていてごめんなさいいぃぃぃぃっ!!」
「えええ!?」
驚いた関羽から美女はまた逃げた。
が、近くの大木の影に隠れて顔だけをひょっこりと覗かせるのである。
関羽が近付こうとすると、顔を引っ込めて、暫くするとまた怖ず怖ずと顔を出す。
……興味があるけど警戒している野生動物を彷彿とさせる。
関羽はさすがに雨の中立ち尽くす訳にも行かず、近くの木に雨宿りすることとした。
美女は相も変わらず関羽をじぃっと見つめてくる。顔がほんのりと赤いのはどうしてだろうか。
目が合った途端影に引っ込むのは……怯えられているのかもしれないわね。
先程の姿を思えば、人目を避けて暮らす筈。人間に見つかれば珍獣と騒ぎ立てられて捕らえられてしまうかもしれない。見せ物にされるならまだ良いが、最悪殺される可能性も――――。
ひょっとしてあの子、人間から逃げてきてここに辿り着いたんじゃ……?
思うや、胸中に憐憫が芽生える。
その場から動かぬまま、努めて優しく、しかし雨音に掻き消されないように大きな声で話しかけた。
「ねえ、あなた。何処から来たの?」
返答は、無いかと思ったが、
「……すみません。分からないんです、生きててすみません……」
二重の謝罪を伴って返ってきた。
「あっ、あのね。謝らなくて良いのよ。この辺りは別にわたし達の所有地って訳じゃないから。ただ、ええと……気を悪くしてしまったらごめんなさい。さっきの、獣の姿もわたし、この辺りで見たことが無いの。だからもしかしたら別の場所から来たんじゃないかって――――」
直後の美女の動きは、異常に素早かった。
木の影から飛び出して泥まみれで雨に打たれながら土下座したのである。
「す、すすすすすみません! 私なんかが皆様と同じ森の恩恵を受けたいなどと分不相応なことを思っちゃって本当にすみません!! すぐに出ていきますのでお許し下さい!! そうですよねそうですよね満足に凶を追い払えないただ長生きしてるだけのぶっさいくな妖なんているだけ穀潰しですよね皆様にご迷惑かけていますよねすみませんすみません生きててすみませんすみませんずみまぜんんんんん!!」
関羽も飛び出し美女の側に膝をついた。
「ううう埋まってる! 埋まってるから! 落ち着いて!」
「ああああすみませんすみませんすみませんもう今後とも人間様や猫族様のお目に触れないよう細心の注意を払いますからぁーっ!!」
「だ、大丈夫よ、大丈夫だから! そんなこと言わないで――――」
ピシャアァン!!
「きゃああぁぁぁ!!」
「ひいいぃぃぃぇぇぇええっ!?」
背後で凄まじい雷光と雷鳴に、関羽は悲鳴を上げて美女に抱きついた。
抱きつかれた美女は、この世のものとは思えない、情けなく震えた奇怪な悲鳴を上げる――――。
これが、二人の出会いである。
‡‡‡
山海経西山経次三経に、一つ目に三つの尾を持つ獣が記されている。
讙(かん)と言う名の獣の鳴き声はあらゆる音をも掻き消し、凶――――邪悪な妖怪、或いは鬼神の祟りではないかと思われる――――を駆除する力を持つ。
讙の鳴き声は様々で、他の生き物の声を真似することも出来るという。
讙を食することで黄疸(おうだん)にも効果があるとも伝えられる。
その讙として生を受けた○○は、讙は讙でも非常に出来の悪い、ただただ長生きしているだけの雌の讙であると自ら断言する。
生来気弱な性分の彼女は自信というものが毛程も無く全ての生き物の邪魔になるまいと大陸中を転々と移動してきたらしい。
たまたまそこを猫族に目撃され、関羽に拾われたのであった。
○○は、人が怖い訳ではないらしい。
ただ自信の無さが起因して、生き物の前に出るとこみ上げる恥ずかしさから逃げ出してしまうか泣き出すかしてしまうのだ。
関羽と出会った時とて、申し訳なくて恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて――――といった心境で木の影に隠れて関羽をじっと凝視していたのだそうだ。
世界に生きる生き物の中でも最下層の最下位だと自負しているが故に小さな兎にすら恥じ入り平謝りするわ大泣きするわで、泣かない日が無い。
そんな○○に関羽の母性を擽(くすぐ)られない訳がなかった。
ちなみに、○○という名前は関羽がつけた。
あろうことか永らく他者に名を呼ばれることは愚か、名乗ることすら一度も無かった為に、本来の名前を忘れてしまったというのである。
名前を貰って良くしてもらっている恩義から、○○は関羽によく懐いた。
やがては世平や劉備ともまともに話せるようになったけれど、それでも外を歩く時は関羽の横にぴったりだ。
関羽も年齢は天と地程にも離れているが、可愛い妹が出来たみたいで胸中では喜んでいた。
だからこそ、猫族が曹操と共に乱世の嵐へ足を踏み込むこととなった時、関羽は○○を連れて行かなかった。
○○は心細さから泣き出してしまった上、讙なのに讙らしいことが全く出来ていない我が身の不甲斐無さをひたすら平謝りした。
が、それでも村に残る僅かな猫族に○○のことを任せ、関羽達は人の世に出た。
それから、○○は森の中で一人、時々残った猫族の誰かが様子を見に来るのを木の影から迎える以外毎日毎日関羽と出会った場所に座って寂しさを堪えている。
「関羽様達……大丈夫でしょうか……」
いつになったら、お戻りになるのか。
まさか戦で……と不安から涙で視界が滲む。
膝を抱えて顔を埋めると、茂みから一頭の白虎が現れた。
○○の唯一の遊び相手となった劉備と、たまに遊ぶ白虎だ。
森の中では関羽の代わりに○○の世話を焼いてくれている面倒見の良い虎である。
泣きそうな気配を察して出てきたのだろう。側に伏せて手を舐める。正直、ざらざらして痛い。
「ううぅ……すみません虎様。痛いです、すみません……」
「グルル……」
「すみません。関羽様達がいないと寂しいです。すっごく寂しいです……分不相応ですみません」
発言に必ず謝罪を入れなければ気が済まない謝り癖に呆れられることも、恥ずかしがって人と喋るどころか対面することも出来ないことを励まされることも、今は無い。
ずびっと鼻を啜(すす)り、白虎に寄りかかった。
白虎は顎で○○を強引に己の腹を枕に寝かせ、低く唸った。
「すみません。そうします……」
○○はそれに素直に従い、目を伏せる。
しかしそのまま寝ようとした彼女らのは、次の瞬間飛び起きた。
「この臭い……火!?」
まさか森が燃えている!?
○○は白虎と共に、村が見える場所へ急ぎ移動した。
村に近付けば近付く程、焦げ臭さは濃くなっていく。
煙立つ村が見えた時思わず駆け出しそうになったのを白虎が服を噛んで引き止めた。
「あ……は、はい、そうですよね、すみません。まだ人間様がいらっしゃるかもしれませんし……私なんかが行っても何も出来ませんよね、すみません」
白虎はもう暫く個々で様子を見るべきであるとその場に腰を下ろした。
○○も頷き、腰掛けた。
自分が如何に無力か自覚しているから、何が起こっているか分からなくて村に飛び込むより、この場で見守っているべきだ。
讙としてもっとちゃんと力を振るえていたら――――なんて猫族と触れ合うようになってから特に思うようになった。
○○も白虎の隣に正座し、村をじっと見据えた。
やがて、ぞろぞろと大勢の武装した人間達が村を後にし、火の手も落ち着いたであろう頃に、白虎と並んで村に入った。
○○は安堵した。
良かった……誰も死んでいない。村の気に触れただけで○○には分かった。
ここにいた猫族は無事に逃げおおせたらしい。
○○はそれなら大丈夫だと、すぐに森に帰った。
でも、残っていた猫族が去って関羽達に合流したら、きっとそのまま安住の地を探しに行くだろう。
そうなれば、もう二度と会うこともあるまい。
胸に寒風吹かせる寂寥感(せきりょうかん)に、ぶるりと震えた。
関羽は、心配して来てくれるだろうか。
いや……人間達が来た以上、この場所に戻るのは危険だろうと周りが止めるかもしれない。
元の場所に戻り、身体を丸くする。
猫族と過ごすうちに本来の姿よりも人型の方が過ごしやすいと思えるようになった。
随分と昔、人型になれるように躍起になって練習した。でも、どうして必死に人型になりたかったのか覚えていない。
○○は、覚えていることよりも忘れていることの方が多い。
永い永い寿命を持っていると、否応なしにそうなってしまう。忘却は避けられない。
猫族とのことも、きっと百年二百年と過ごすうちに胸の中から消え去ってしまうだろう。
○○は、寄り添う白虎の温もりに、涙した。
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