▼時計屋様
※夢主人外です。


 最近、妙な生き物が付近に住み着いたらしい。

 一つ目に三本の尾を持つ四つ足の獣。
 目撃した猫族は皆口々にそう言うが、そんな不可解な外見の獣、見たことの無い関羽には見間違いだとしか思えなかった。

 だから、その日突然の雷雨に見舞われ逃げ惑う中でかの怪異を見た瞬間、仰天した。

 雨宿りして、遠くで鳴り響く雷鳴にびくびく震えていたところ、雨足が弱まったほんの一時。
 たまたま右手が急な斜面になっていて、その下を聞いた通りの茶色い獣がずぶ濡れでとてとて歩いているではないか。
 周囲の様子を注意深く確認し、足を止める。

 そして――――。

 関羽は両手で口を覆った。

 獣が発光し始めたかと思うと、ゆっくりと姿を変えたのである。
 関羽よりも二つか三つ歳上の見たことも無い、絶世の美女だ。
 片目を前髪で隠しているのは、元の姿が一つ目だからだろうか。茶色の髪は濡れ、頬や身体にぴったりと張り付いている。
 見るからに儚く華奢で、純白の衣から覗く足は歩けるのかと言う程細く、手も何も持てないのではないかと言う程細い。

 思わず魅取れていると、ふと美女が顔を上げる。


 目が、合う。


 瞬間美女は青ざめ口を薄く開き、


「ひ――――ひえええぇぇぇぇっ!!」

「あっ!!」


 情けない悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
 が、僅か二歩。


「なうっ!?」


 転んだ。
 ぬかるんでいるとは言え、顔面から地面に倒れ込んだ美女はぴくりともしない。
 まさか泥に顔が埋まって抜けないんじゃ……!
 関羽は慌てて木を掴みながら斜面を下った。


「だ、大丈夫ですか!?」

「あぅぅ……」


 助け起こして袖で顔を拭いてやる。
 倒れた時に頬を擦り剥いて血が滲んでいた。
 「大丈夫?」そっと声をかけると、彼女はすぐに泣き出してしまった。


「え……まだ何処か痛いの!?」

「…………ません」

「え?」

「すみませんこんな出来損ないがのうのうと皆様と同じ空気を吸って生きていてごめんなさいいぃぃぃぃっ!!」

「えええ!?」


 驚いた関羽から美女はまた逃げた。
 が、近くの大木の影に隠れて顔だけをひょっこりと覗かせるのである。
 関羽が近付こうとすると、顔を引っ込めて、暫くするとまた怖ず怖ずと顔を出す。

 ……興味があるけど警戒している野生動物を彷彿とさせる。

 関羽はさすがに雨の中立ち尽くす訳にも行かず、近くの木に雨宿りすることとした。

 美女は相も変わらず関羽をじぃっと見つめてくる。顔がほんのりと赤いのはどうしてだろうか。
 目が合った途端影に引っ込むのは……怯えられているのかもしれないわね。
 先程の姿を思えば、人目を避けて暮らす筈。人間に見つかれば珍獣と騒ぎ立てられて捕らえられてしまうかもしれない。見せ物にされるならまだ良いが、最悪殺される可能性も――――。

 ひょっとしてあの子、人間から逃げてきてここに辿り着いたんじゃ……?
 思うや、胸中に憐憫が芽生える。
 その場から動かぬまま、努めて優しく、しかし雨音に掻き消されないように大きな声で話しかけた。


「ねえ、あなた。何処から来たの?」


 返答は、無いかと思ったが、


「……すみません。分からないんです、生きててすみません……」


 二重の謝罪を伴って返ってきた。


「あっ、あのね。謝らなくて良いのよ。この辺りは別にわたし達の所有地って訳じゃないから。ただ、ええと……気を悪くしてしまったらごめんなさい。さっきの、獣の姿もわたし、この辺りで見たことが無いの。だからもしかしたら別の場所から来たんじゃないかって――――」


 直後の美女の動きは、異常に素早かった。
 木の影から飛び出して泥まみれで雨に打たれながら土下座したのである。


「す、すすすすすみません! 私なんかが皆様と同じ森の恩恵を受けたいなどと分不相応なことを思っちゃって本当にすみません!! すぐに出ていきますのでお許し下さい!! そうですよねそうですよね満足に凶を追い払えないただ長生きしてるだけのぶっさいくな妖なんているだけ穀潰しですよね皆様にご迷惑かけていますよねすみませんすみません生きててすみませんすみませんずみまぜんんんんん!!」


 関羽も飛び出し美女の側に膝をついた。


「ううう埋まってる! 埋まってるから! 落ち着いて!」

「ああああすみませんすみませんすみませんもう今後とも人間様や猫族様のお目に触れないよう細心の注意を払いますからぁーっ!!」

「だ、大丈夫よ、大丈夫だから! そんなこと言わないで――――」


 ピシャアァン!!


「きゃああぁぁぁ!!」

「ひいいぃぃぃぇぇぇええっ!?」


 背後で凄まじい雷光と雷鳴に、関羽は悲鳴を上げて美女に抱きついた。

 抱きつかれた美女は、この世のものとは思えない、情けなく震えた奇怪な悲鳴を上げる――――。



 これが、二人の出会いである。



‡‡‡




 山海経西山経次三経に、一つ目に三つの尾を持つ獣が記されている。
 讙(かん)と言う名の獣の鳴き声はあらゆる音をも掻き消し、凶――――邪悪な妖怪、或いは鬼神の祟りではないかと思われる――――を駆除する力を持つ。
 讙の鳴き声は様々で、他の生き物の声を真似することも出来るという。
 讙を食することで黄疸(おうだん)にも効果があるとも伝えられる。

 その讙として生を受けた○○は、讙は讙でも非常に出来の悪い、ただただ長生きしているだけの雌の讙であると自ら断言する。
 生来気弱な性分の彼女は自信というものが毛程も無く全ての生き物の邪魔になるまいと大陸中を転々と移動してきたらしい。
 たまたまそこを猫族に目撃され、関羽に拾われたのであった。

 ○○は、人が怖い訳ではないらしい。
 ただ自信の無さが起因して、生き物の前に出るとこみ上げる恥ずかしさから逃げ出してしまうか泣き出すかしてしまうのだ。
 関羽と出会った時とて、申し訳なくて恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて――――といった心境で木の影に隠れて関羽をじっと凝視していたのだそうだ。

 世界に生きる生き物の中でも最下層の最下位だと自負しているが故に小さな兎にすら恥じ入り平謝りするわ大泣きするわで、泣かない日が無い。
 そんな○○に関羽の母性を擽(くすぐ)られない訳がなかった。

 ちなみに、○○という名前は関羽がつけた。
 あろうことか永らく他者に名を呼ばれることは愚か、名乗ることすら一度も無かった為に、本来の名前を忘れてしまったというのである。

 名前を貰って良くしてもらっている恩義から、○○は関羽によく懐いた。
 やがては世平や劉備ともまともに話せるようになったけれど、それでも外を歩く時は関羽の横にぴったりだ。

 関羽も年齢は天と地程にも離れているが、可愛い妹が出来たみたいで胸中では喜んでいた。

 だからこそ、猫族が曹操と共に乱世の嵐へ足を踏み込むこととなった時、関羽は○○を連れて行かなかった。
 ○○は心細さから泣き出してしまった上、讙なのに讙らしいことが全く出来ていない我が身の不甲斐無さをひたすら平謝りした。
 が、それでも村に残る僅かな猫族に○○のことを任せ、関羽達は人の世に出た。

 それから、○○は森の中で一人、時々残った猫族の誰かが様子を見に来るのを木の影から迎える以外毎日毎日関羽と出会った場所に座って寂しさを堪えている。


「関羽様達……大丈夫でしょうか……」


 いつになったら、お戻りになるのか。
 まさか戦で……と不安から涙で視界が滲む。
 膝を抱えて顔を埋めると、茂みから一頭の白虎が現れた。

 ○○の唯一の遊び相手となった劉備と、たまに遊ぶ白虎だ。
 森の中では関羽の代わりに○○の世話を焼いてくれている面倒見の良い虎である。
 泣きそうな気配を察して出てきたのだろう。側に伏せて手を舐める。正直、ざらざらして痛い。


「ううぅ……すみません虎様。痛いです、すみません……」

「グルル……」

「すみません。関羽様達がいないと寂しいです。すっごく寂しいです……分不相応ですみません」


 発言に必ず謝罪を入れなければ気が済まない謝り癖に呆れられることも、恥ずかしがって人と喋るどころか対面することも出来ないことを励まされることも、今は無い。
 ずびっと鼻を啜(すす)り、白虎に寄りかかった。

 白虎は顎で○○を強引に己の腹を枕に寝かせ、低く唸った。


「すみません。そうします……」


 ○○はそれに素直に従い、目を伏せる。
 しかしそのまま寝ようとした彼女らのは、次の瞬間飛び起きた。


「この臭い……火!?」


 まさか森が燃えている!?
 ○○は白虎と共に、村が見える場所へ急ぎ移動した。

 村に近付けば近付く程、焦げ臭さは濃くなっていく。
 煙立つ村が見えた時思わず駆け出しそうになったのを白虎が服を噛んで引き止めた。


「あ……は、はい、そうですよね、すみません。まだ人間様がいらっしゃるかもしれませんし……私なんかが行っても何も出来ませんよね、すみません」


 白虎はもう暫く個々で様子を見るべきであるとその場に腰を下ろした。

 ○○も頷き、腰掛けた。
 自分が如何に無力か自覚しているから、何が起こっているか分からなくて村に飛び込むより、この場で見守っているべきだ。
 讙としてもっとちゃんと力を振るえていたら――――なんて猫族と触れ合うようになってから特に思うようになった。
 ○○も白虎の隣に正座し、村をじっと見据えた。

 やがて、ぞろぞろと大勢の武装した人間達が村を後にし、火の手も落ち着いたであろう頃に、白虎と並んで村に入った。
 ○○は安堵した。
 良かった……誰も死んでいない。村の気に触れただけで○○には分かった。
 ここにいた猫族は無事に逃げおおせたらしい。
 ○○はそれなら大丈夫だと、すぐに森に帰った。

 でも、残っていた猫族が去って関羽達に合流したら、きっとそのまま安住の地を探しに行くだろう。
 そうなれば、もう二度と会うこともあるまい。

 胸に寒風吹かせる寂寥感(せきりょうかん)に、ぶるりと震えた。

 関羽は、心配して来てくれるだろうか。
 いや……人間達が来た以上、この場所に戻るのは危険だろうと周りが止めるかもしれない。
 元の場所に戻り、身体を丸くする。
 猫族と過ごすうちに本来の姿よりも人型の方が過ごしやすいと思えるようになった。
 随分と昔、人型になれるように躍起になって練習した。でも、どうして必死に人型になりたかったのか覚えていない。
 ○○は、覚えていることよりも忘れていることの方が多い。
 永い永い寿命を持っていると、否応なしにそうなってしまう。忘却は避けられない。
 猫族とのことも、きっと百年二百年と過ごすうちに胸の中から消え去ってしまうだろう。

 ○○は、寄り添う白虎の温もりに、涙した。



‡‡‡




――――だが。


「○○!!」

「!!」


 どれくらい、そこで過ごしていただろう。何日も経ったかのようにも思えるが、それ程経っていないかもしれない。
 白虎と共にぼうっとしていた○○は、初め、幻聴かと思った。

 けれども自分を呼ぶ声は何度も何度も聞こえてきて、徐々に近付いてきているのだ。
 白虎も確信を持って○○の身体を顎で押し、無理矢理に立たせる。

 それからややあって、斜面を駆け下りてきた少女がいた。


「……っ良かった、○○!!」

「ひいいぃぇええっ!?」


 ○○を見るなり黒い瞳を潤ませて抱きついてきた彼女に、○○はいつかの時のように悲鳴を上げ、しかし湧き上がる歓喜に、涙が滲んだ。

 少女が――――関羽が悲鳴に身を離すとわたわたと慌て出して、ぽろぽろ流れ落ちる涙を袖で拭ってやった。


「ごめんなさい。わたし、今力を加減していなかったわよね! 痛かった? 大丈夫!?」

「ううぅぅう……っ」

「! や、やっぱり痛いのね! 何処? 痣になっているかどうか――――」

「生きででずみまぜんんんん……!!」

「生きてて良いのよ○○!?」


 ○○は泣きながら関羽に抱きついた。
 関羽は戸惑いつつ、頭をぽんぽんと撫でてやる。
 するとより一層泣き声が増すのである。

 久し振りの大号泣が懐かしく思えるのも、致し方ない。
 関羽は、暫く○○の好きにさせた。

 泣き止んでもちょっとの刺激ですぐに泣き出してしまう○○を根気良く宥め、白虎も連れて無惨に焼けてしまった村に戻る。
 二人と一頭を出迎えたのは、当然ながら猫族である。

 《猫族全員》という光景が、○○にとっては大きな意味を持ち、大きな衝撃を与えた。


「……どうして」


 皆様、村から逃げたのでは?
 茫然として独り言のように小さく問いを投げる○○に、村に残っていた猫族達は揃って呆れ顔。


「どうしてって、お前達を置いて逃げられないだろう」

「かと言ってあたし達じゃあんた、恥ずかしがって隠れてしまうし」

「だから俺らはお前がこっちに来ないように人間達から隠れながら森を見張っていたんだぞ。虎がたまにこっちに様子を見に来てすぐに森に帰っていたから、知っているもんだと思ってたが……」


 ぎょっと白虎を見下ろせば、欠伸をしていつの間にか無事を喜んでじゃれついている劉備の相手をしている。
 言わなかったのは、○○が信じないとでも思ったのか。
 心外な――――と思ったが、多分、白虎の予想通りだろう。

 ○○は猫族の苦笑を見渡し、


「……」

「……姉貴」

「ええ……危険かも」

「……わだじなんががいぎででずみまぜんんんん〜!!」

「「「この流れでそれか!!」」」


 ツッコんだのは張飛、関定、蘇双である。
 関羽はまた泣き出した○○を抱き締めて宥めた。今度は世平と劉備も加勢する。
 見目は関羽よりも幾らか歳上なのだが、猫族の誰よりも子供っぽく見えてしまう讙に、誰もが慣れきって苦笑を浮かべるしかない。

 だが、ふと泣き止んだかと思うと、○○は大勢の猫族に囲まれている己の状況を今更理解し、今更羞恥がこみ上げてきた。


「ああっ、○○!! お願いだから今になって逃げようとしないで!!」

「キャインッ!!」

「劉備様! 虎と一緒にそいつをしっかり捕まえておいて下さい!」


 物影に逃げ込もうとした恥ずかしがり屋を、虎が服を噛んで転倒させる。
 起き上がったところを劉備と結託して捕まえた。

 その様を眺めながら、関定が溜息を漏らした。


「……あー限界だったかー」

「いや、今までより長かったと思うよ……気付いてなかっただけだけど」

「これから旅に出ることになんのに、あれで大丈夫か?」

「「さあ……」」


 ……いや、その前に乗り越えなければならない壁が一つある。


「あの女性は、人間か……?」


 猫族に紛れて、一人の青年が不思議そうに首を傾げた。


「あー。趙雲。驚かずに聞いてくれな」

「あいつな、○○って言って、讙って言う妖らしいんだ」

「妖? かん?」


 趙雲の反応は分かり切ったものだ。
 張飛達は腕を組み、溜息をついた。


「分かんねーよなあ……オレらも分かんねーもん」

「今は人の姿をしてるから信じられないと思うけど、実際僕達は一つ目で尾が三つの獣の姿を見てる。あの前髪の下、一つ目の所為で眼窩(がんか)はあるけど眼球が無いから瞼がずっと閉じっ放しなんだ」

「あんな情け無いのが妖だって、しかも鳴き声で邪気とか追い払ってくれるとか信じたくないけど」

「鳴き声で追い払うんじゃなくて泣き声で女性の母性本能を目覚めさせてるよね……」


 世平に手を繋がれたまま背中に隠れる○○の顔はいつも通り真っ赤だ。誰かと目が合うと一瞬で引っ込む。
 今まで一度も人間や猫族と接したことが無いとしても、ただ他人がいるだけでああなるのはさすがに度が過ぎていると思わざるを得ない。
 今から新天地へ向かうと言うのに、これでは先が思いやられる。

 これから世話になる趙雲にも、○○の取り扱いについての説明をしっかりとしてやる。趙雲にも心得ておいてもらわなければ、過剰な恥ずかしがり屋の○○が逃げ出して大騒動になりかねない。

 趙雲は、関定達からの説明を受けながら、関羽に宥められる○○に視線を注いでいた。
 それが徐々に熱を帯びていることなど、誰も気付かない。


「……つまり、彼女の羞恥の琴線に触れないよう細心の注意を払えば良いんだな?」

「過剰に、を忘れないで。多分それでも不十分だから」

「分かった。ではまず、自己紹介で感覚を掴んでみよう」


 趙雲はその場から関羽と○○を呼び、途端にびくりと身体を震わせた○○の様子を窺いながらそっと近付いた。
 三歩程間を取って、努めて優しく名乗った。


「俺は、趙雲。公孫賛様の命で、猫族を右北平へ案内することとなった。○○殿も、何か困ったことがあったら遠慮無く声をかけてくれ」

「……すみません。お気っ……遣い、あぁりがとゥございます、すみまぜん……」

「○○。言えてねえぞ」

「世平おじさん。これが精一杯なのよ。これでも上手に話せている方だわ」


 頭を撫でながら、関羽が苦笑する。実際、昔はもっと言葉になっていなかった。

 趙雲はもう二歩程後退し、讙についての質問をしたり、自虐謝罪に走る彼女をやんわりと励ましつつ軌道修正したりと、彼に出来る最大限の気遣いを見せた。

 趙雲が妖だと分かっていても変な目で見ていないことに、関羽も世平も安堵する。

 ○○は、今にも逃げ出してしまいそうだ――――。



‡‡‡




 新たに蒼野に居を構えた猫族は、ようやっと得られた平穏に安堵した。

 けども。
 ○○にとって安堵する暇も無く、日々対人羞恥に逃げ出して白虎に宥められている。

 蒼野に落ち着いてすぐに関羽がまた一人曹操への間者として旅立ったのだ。
 ついて行こうとした○○はやはり関羽にも周りにも止められ、蒼野の森に居残ることとなった。
 白虎と一緒に世平や劉備のもとを訪れて過ごすこともあるが、それでも寂しいものは寂しい。

 加えて、公孫賛の命令で猫族を迎えに来たという趙雲のことがあった。
 彼が、どうしてか頻繁に蒼野を訪れると○○の住む森まで足を運ぶのだ。

 白虎が間に入って会話をするが、趙雲に右北平の城下を案内したいと毎度言うのに○○は全身で拒絶する。趙雲の熱を帯びた眼差しに、その熱の正体が分からない○○はとても戸惑っていた。

 全力で拒まれているのに趙雲は諦めなかった。

 一部を除いた猫族の前でも羞恥で逃げ出したくなるというのに、彼らに比べて全く親しくない趙雲との対話に、○○が耐えられる筈もなかった。
 来る度に必ず熱っぽく誘ってくる趙雲に、○○は困り果てて世平に助けを求めた。

 だが――――。


「―――#どうして、こんなことに……」

「仕方が無い。趙雲も別に二人きりが良いとは言わなかっただろう? 劉備様の気晴らしついでと思えば良い」


 ううう、と唸って潤んだ隻眼で睨めつけるが、頭を撫でて宥められた。
 今、彼女は世平や劉備と共に右北平を訪れている。

 前には趙雲。喜々として案内してくれているが、○○は大勢の人間の雑踏の中にいて恥ずかしさで今にも死にそうだ。

 ○○の相談に世平はすぐに結論を出した。
 世平と劉備が二人に同行するという条件をつけることで趙雲の要望を叶えてやるという、○○にとって無情極まる答えを。

 嫌だと猛抗議したが、劉備が行きたいと言い出してしまって……渋々折れる他無かった。


「虎様もいないのに……」

「それも仕方が無い。虎が堂々と人の生活圏を歩き回るものじゃないからな。最悪兵士に捕らえられて殺されちまう」

「こここ殺される!?」

「あくまで可能性だ。だが、俺達もいるのだから、良い展開にならないことは確かだ。だから、予(あらかじ)め避けておいた方が良い」


 猫族は、人間に十三支と忌み嫌われている。
 それは知っている。
 こんなに良い人達なのに、どうして嫌うことがあろう。
 ○○には、この差別が不思議でならない。

 自分のような妖なら仕方のないことだ。
 だが、猫族は人とほとんど変わらない。変わらないのに迫害を受ける。
 永く生きているが、ひっそりと生きていた為に人の世がとんと分からない。

 首を傾げていると、劉備が袖を引く。
 何事かと見下ろせば楽しそうに目をきらきらさせてとある店を指差した。


「○○。あのお店、きれいなものがいっぱいあるよ!」

「ならばまずあの店に行こうか」


 劉備の言葉に即座に反応した趙雲が、劉備に笑いかけて方向を変える。

 趙雲の後ろに従いながら劉備と共に店に寄る。
 すると店主と思われる若い女性が露骨に嫌そうな顔をした。劉備を睨んで何かを言おうとしたのも一瞬、視界を遮るように立った趙雲に口を噤み、頬に朱を走らせて奥へ走って戻っていった。

 見目の良い趙雲が市井の娘達にも絶大な人気があるとは、○○や劉備どころか趙雲本人にも分からない。

 劉備が興味を示した店は、服を仕立てる布を取り扱っている店のようだ。

 並べられた布は、いつもまっさらな白無垢の衣をまとう○○にはどれも派手過ぎる。
 されども見ているだけでもとても楽しい。
 劉備と揃って一枚一枚眺めていると、劉備が一枚の布地を指差して笑みを深めた。


「この青くてきらきらしたの、○○ににあうよ!」

「えっ、すみませ――――こんな派手な綺麗な布がですか!? すみません! すみません!」


 ○○は謝りながら頭を下げる。

 劉備はこてんと首を傾げた。


「? どうしてあやまるの? ○○は青色、きらい?」

「いいいいいえ、すみません! 海の色は大好きです! 好きですみません!」

「ぼくもね、青色はすきだよ。○○の色だもん」


 ○○は固まった。


「わ、私の色……?」

「うん。○○はねぇ、青色なの!」


 劉備は無邪気に断言した。

 ○○は感動のあまり涙を滲ませ、即座に世平に宥められた。
 しかし、


「趙雲といっしょの青色!」


 趙雲を指差して言うのだ。


「俺と同じ色か……それは光栄だな」


 趙雲は笑み、とても嬉しそうに言う。
 ○○は、何だか気まずい。
 彼は布を見ると、店主を呼んで何かを話し始めた。
 店主は顔を赤らめながらも不服そうに何かを言ったが、趙雲が打って変わって真顔で何かを言うと青ざめて一礼し、俯いた。

 それから何かのやりとりを終えた後、店主は急いで劉備の気に入った布を持って奥へ退がり、持ちやすい大きさに綺麗に折り畳んで趙雲に手渡した。

 趙雲は笑顔で受け取り、戻ってくる。
 そして○○に手渡そうとして、正面に立った瞬間に逃げそうになったのでやむなく世平に渡した。


「劉備殿が折角選んでくれたんだ、この布で○○の服を作ってくれ」

「すみませんそれ高い布では」

「そうか。そいつは関羽が喜ぶ。○○に服をあげたいってずっと言っていたんだ」


 ○○の言葉を遮り世平は頷く。


「○○は……関羽が喜ぶのを見て泣いて謝って喜ぶだろうな」

「少しでも喜んでくれるなら、それで構わない」


 趙雲は○○に笑いかける。
 ○○は劉備の後ろに隠れて申し訳なさそうに頭を下げた。


「近くに美味い飯店がある。そこで一旦食事を摂ろう。金も俺が持つから心配しなくて良い」

「悪いな」

「いや、俺がしたいことに付き合ってもらっているのだから、気にする必要は無い」



‡‡‡




 趙雲の案内した飯店は、美味いと言う割には人が少なかった。
 老夫婦がひっそり営んでいる飯店のようで、周辺の住民のみが常連の、知る人ぞ知る隠れた名店なのだそうだ。

 今まで雑踏の中耐えていた○○を気遣って、人の少ない店を選んでくれた趙雲に、世平は感謝した。



「悪いな、趙雲」

「いや。ここの店主夫婦は客に対して偏見が無い。猫族について前以て確認してあるから、気兼ね無くくつろいでくれ」

「ああ。助かるよ」


 劉備が○○の手を引いて店の隅の席の壁際に座らせる。その隣に自分も腰掛けた。
 ○○の前に世平、劉備の前に趙雲が遅れて座る。


「○○はぼくとはんぶんこだよ」

「分かった。では、俺の気に入っている料理を三人分頼もう」

「ああ」


 注文を聞きに来た老妻に親しげに世間話を挟んで同じ料理を三人分頼む。
 老妻は劉備を見、ふんわりと微笑んで奥へ入っていった。

 周りの客も、こちらの存在を気にせず、それぞれ料理に舌鼓を打っている。

 やがて料理が出来上がると、店主が料理を運んできた。
 彼もまた、劉備を見て優しく笑いかけた。偏見が無いというこの夫婦、子供に優しいようだ。

 趙雲に言われて○○と劉備の間に料理を置き、取り分けられるように小皿を置いてくれた。

 気遣いを有り難く思いつつ、恥ずかしくて他人の顔すらまともに見られない○○は元気にお礼を言う劉備の隣でぺこぺこ頭を下げた。


「じゃあ、ごゆっくり」

「ああ。さあ、食べようか」


 趙雲は笑顔で三人を促した。

 趙雲の言う通り、料理は絶品だった。
 唯一気になった点と言えば、劉備も○○も、我慢は出来たがほんの少しだけ辛く思えたことくらいだ。だが劉備はそれでもこの料理が気に入ったようで、いつもより喜々として食べていた。
 辛さについては、夫婦も気にしてくれていた。精算の際に老妻に問われ劉備が正直に話すと、『今度来てくれた時には、特別に甘めに調理してあげようね』と言ってくれた。
 結局飯店を出るまで他の客にも絡まれることも無く、あそこまで差別しない人間も珍しいと、世平も驚嘆していた。

 その後は、色んな店を覗いて回り、その中で趙雲が劉備に菓子を買い与えた。○○にも買ってくれたが、世平経由で受け取った。

 そして、日が傾いて蒼野に帰ろうという時になり、問題は起こった。


「っ! 劉備様!」


 ○○は突然劉備を抱き締めた。
 直後、こめかみに痛みが走る。


「○○!」

「十三支は出てけ 十三支は出てけ!」

「汚らわしい化け物! 趙雲様から離れろーっ!!」

「……!」


 子供達だ。
 大勢の子供達が拳大の石を劉備に投げつけたのだ。
 世平にも投げているが、全て避けられている。

 周りの大人達は誰も止めようとしない。白い目をこちらに向けている。
 まるで悪いのはこちらであって、自分達が正しいのだと言わんばかりだ。

 ……恐ろしい。
 なんて、恐ろしい。
 ○○は涙を浮かべながらも、劉備を抱き締めて決して放さなかった。こめかみから血が垂れているような感覚があるけれど、構ってはいられない。石は未だ劉備の身体を狙って○○の身体を何度も何度も殴りつけている。私が劉備様を守らなければ――――その一心であった。

 と、石の飛礫(つぶて)が止んだ。

 顔を上げた瞬間、


「止めるんだ!!」


 趙雲が、一喝した。
 辺りがしんと静まり返り、子供達も鼻白んで一歩後退した。


「ちょ、趙雲様……だって、十三支は、」

「彼らは俺の客人だ。子供のやったこととしても、彼らに対してこの無礼は目に余る。子供達を止めもしない者達とてそうだ。猫族のことを任された俺や、受け入れることをお決めになった公孫賛様のお顔に泥を塗るつもりか」


 公孫賛の名前が出されると、周りの大人が青ざめた。


「そ、そのようなことは決して……でも、十三支なんですよ?」

「十三支ではない。彼らは猫族だ。彼らと触れ合えば俺達と何ら変わらないことなどすぐに分かる。自ら知ろうとせずに外聞だけを頼りに判断するなど、軽率だとは思わないか」

「それは……ですけど、十三支だし……」

「だって……なあ……?」


 人間達は趙雲の言葉でも納得しない。受け入れない。
 もう、十三支という概念はこびり付いて、当たり前の常識となり、離れないのだ。

 違うのに。
 猫族の方々は、とっても優しい人達なのに!
 たまらず、○○は立ち上がった。


「猫族は方々は!! すみません!!」

「!? な、何だよ……いきなり、」

「すみません! 猫族の方々は、皆さんすっごく良い人なんです!! 私みたいな最下層の最下位な生ゴミ級の穀潰しを拾って下さって良くして下さってます!! 本当に良い人達で! 今までも今も穢れなんて微塵も感じられません!! 汚くありません!! すみません!! 生きててすみません!!」

「ど、どうして謝ってるの、あの子……?」


 口を開けば謝罪は必ず付けてしまう○○の癖に周りは困惑の色を濃くする。

 ○○は肩で息をしながら、隻眼からぶわっと涙を溢れさせ大声を上げて泣き出した。それがまた周囲を困らせるのである。

 世平が慌てて宥めるも、劉備も○○のこめかみの傷に驚き不安がって、泣き声につられてとうとう一緒になって泣き始めてしまう。
 隻眼の美女と猫族の子供が一緒になって大泣きするのに、石を投げつけた子供達も戸惑い顔を見合わせた。


「趙雲、こうなるとすぐには落ち着かねえ。幸い○○のこめかみも、血が止まりかけているようだし、これ以上周りに迷惑をかけない為にも帰ろう」

「……すまない」

「いや。謝るべきはこっちだ。公孫賛様にも迷惑をかけちまったな」

「それは気にしなくて良い。俺も公孫賛様も猫族の力になりたいんだ」


 世平は苦笑し、劉備と○○を宥めながら手を引いて、周囲の人間に頭を下げ街の外へと出た。

 蒼野に帰る頃には、二人共落ち着いてはいたが、○○は己の失態と醜態に平謝りが止まらなかった。


「ず、ずびばぜん……ずびばぜん……」

「うわー……未だかつて無いひっどい顔……」

「こりゃ年頃の女の子がする顔じゃねえよなー……○○は人間じゃねえけど」

「おおおびぐるじいぼのをずびばぜんんんんん!!」

「だー!! 何言ってるか分かんねーし! 取り敢えずもう謝んなくて良いから落ち着け!!」


 張飛に怒鳴られ宥められ、○○はしゃくり上げながら何とか謝罪を止める。
 周りは皆苦笑し、早く怪我の手当てをと座らせる。今はまだ気が逸れているがいつ羞恥で逃げ出すか分からない。
 ○○の性質をよくよく心得た猫族の女達はてきぱきと○○の傷の手当てを急ぐ。ただ、服に隠れた部分の怪我は、逸れている羞恥心を刺激してしまいかねないので、保護者の白虎に薬を持たせて本人に処置をさせる他無いだろう。関羽がいれば、彼女に任せられたのだが。


「○○。虎が迎えに来てるぜー」

「あ……ひゃい……今行きまず……」

「○○殿」


 趙雲が、一定の距離を開けて、申し訳なさそうに頭を下げた。


「すまなかった。関羽の不在で気が鬱(ふさ)いでいる○○の気晴らしになればと誘ったのだが……逆に不快を与えるばかりか怪我をさせてしまった。劉備殿や世平殿にも、辛い思いを」

「俺達のことは気にしなくて良い。帰りまでは、劉備様も○○も楽しんでいたからな。趙雲には二人に色んな物を買ってもらってこっちが申し訳ないくらいだ」

「しかし……長を危険に晒し、女性の顔に傷を作るなど……本当にすまなかった」


 もう一度、彼は頭を下げた。

 世平は苦笑する。
 ○○の身体に傷痕が残ることは無い。妖という特殊な身体だからだろうが、それを言ったところで傷を付けてしまった事実を趙雲は気にするだろう。

 表情を曇らせた趙雲に、ふと、劉備が歩み寄った。袖をくんと引き、


「……趙雲。もうぼくたち、おじいちゃんたちのお店に行けないの?」


 そう、不安そうに問いかけた。
 劉備は余程あの老夫婦の料理が気に入ったようだ。強い蔑視を受けたことよりも、あの料理を食べられないことを気にしていた。

 趙雲は、一瞬軽く瞠目し、


「……いや、次は、何事も無く行けるよう今回以上に配慮しよう。あの料理が食べたくなった時は遠慮無く言ってくれ」

「ほんと! 行って良いって、○○!」


 喜色満面の劉備に、○○はつられて、ぎこちなく笑う。心の中ではあの雑踏の中を歩きたくないと思っている筈だ。


「……すみません、そうですね。あのお料理はとても美味しかったです、し……すみません」

「だから、関羽といっしょに行けるようにがんばろうね!」

「! ……関羽、様と……っ」


 ○○はつかの間固まったが、もう一度関羽の名を呟き、先程とは打って変わって両手に拳を握って劉備に迫った。


「すみません! あのお料理を食べたら関羽様も喜んで下さるでしょうか!」

「うん! だっておいしいもん!」

「すみません、私頑張ります! 頑張って関羽様に喜んでいただきたいです! すみません! あ、あのあのっ、趙雲様!」

「っ! あ、ああ……何だ、○○殿」


 珍しく自分から勢い良く迫った○○に趙雲は僅かにたじろいだ。片手を両手でしっかり握られ、頬に朱が走った。


「すみません! 私、関羽様の為に頑張るので! また連れて行って下さい!! すみません!!」

「……、ああ。任せてくれ。○○殿の為なら、いくらでも協力させていただく」


 一応、握り返しはしないでおく。


「すみません! ありがとうございます! すみません!」


 嬉しそうなのに、やはりお礼にすら謝罪がついてくる。
 劉備のお影で○○の気分が明るくなったことは良いことだが……と、猫族は皆苦笑する。


「昔からだけど、必ず謝罪を付ける癖、どうにかならない?」

「すみません、頑張ります!」

「うん。今ので無理だって分かったから良いや……」

「え……すみません! すみません!」


 蘇双に謝罪する○○を見、趙雲は目を細める。安堵したように吐息をこぼした。


 が。


 そこで、○○は己の行動に気付いたらしい。
 暫し沈黙し、顔が青ざめ――――真っ赤になった。
 ぶるぶると震え出し、趙雲の手をぱっと放してきびすを返した。

 一瞬で一つ目三つの尾の獣の姿に変じ、一目散に逃げ出した。
 迎えに来ていた白虎が、猫族の足の間を縫うように抜け、呆れ果てた様子で彼女をゆっくりと追い始めた。

 世平は赤い顔を片手で隠し俯く趙雲に苦笑を向け、


「そういうことだ。また、機会があったら頼むぞ、趙雲」

「……ああ。次こそは、任せてくれ……」


 彼女にはいつも笑っていて欲しいんだ。
 好意を寄せる相手から思わぬ攻撃を受けた趙雲は少しばかり恥ずかしそうに言い、世平に頭を下げてきびすを返す。

 世平は足早に帰って行く彼を見送り、肩をすくめた。


「あいつも厄介な奴に惚れたもんだな」

「確かに」


 ぽん、と後ろから世平の肩を叩く者が在った。


「関定」

「『彼女にはいつも笑っていて欲しいんだ』って……良かったな、世平。最近二人共笑ってなかったもんな」

「そうだな。……帰りのことを趙雲は気にしてたが、俺は感謝しているよ。何せ、あんなに楽しそうな二人は、久し振りだったからな」

「関羽、早く帰ってくると良いなー」


 関定が空を仰ぎ、呟く。

 世平も同様に顔を上げ、「そうだな」と。


「ところで、趙雲は見込みありそう?」

「○○の性格を知っていてそう言うか」

「分かってるけど敢えて訊いてる」


 関定の頭を、軽くはたいた。


「ま、あいつが諦めない限りは見込みはあるだろ」

「諦めなさそー……」

「それとも趙雲以外の誰かに嫁いで欲しいのか?」

「あー……趙雲が一番性格的に良いと思うから余所の男は却下で――――って言わないと猫族全員敵に回す気がする」

「よく分かってんじゃねえか」


 関定は、苦笑した。

 そこで、○○の甲高い鳴き声が聞こえた。



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