▼葵様
※残酷な微裏表現を含みます。



 ここは寒い。
 ここは暗い。

 何故あたしはここにいる。
 何故あたしはここにいる。
 何故あたしはここにいる。

 あたしのいるべきはこんな狭い牢屋ではない。
 あたしのいるべきは血臭漂う広い戦場なのだ。

 ここにあたしの魂は無い。
 魂は戦場でこそこの身に宿る。

 戦場を。
 戦場を。
 戦場を。
 戦場へ。

 戻せ。
 行かせろ。

 あたしは戦場で生きる民族。
 戦場で散ることが最上の喜び。

 それを得られぬ我が身など、芥(ごみ)同然。
 存在価値など無い!!

 誇りをこの手に取り戻せ。
 存在意義をこの身に取り返せ。

 その為には四肢を縛る枷を壊さなければならない。
 噛み壊せば良いのだ、こんな物。
 我らの身体は全て戦う為の武器。
 我らが牙は鋼に決して負けはしない――――。


「――――嗚呼、また、足掻いているのかい」



‡‡‡




 我が一族は、武力こそ全て。
 武力に女も男も無し。
 戦場にて散り果てることこそ我らが最上の誉れとせよ。
 子に過ちあらばすなわちこれ親が滅す。

 我が一族は、武力こそ全て。
 武力に幼も老も無し。
 床にて息絶えることこそ我らが最低の恥とせよ。
 親に過ちあらばすなわちこれ子が滅す。

 我らが命、ただただ武に捧げん。
 その他に捧げて良いものは無し。


――――その理念こそが、彼女の魂である。


 ○○という娘は、まさに野獣であった。

 ある山岳地帯に住まう戦闘民族の長の娘である彼女は、曹操にその才を買われ傘下に乞われた。

 この民族は戦場に出ることを誇りに感じる。長の娘が、乱世の群雄の一人の下に求められることに、民族の者は大仰に歓喜した。

 戦いこそ存在意義とする彼らは、身体能力が非常に高く、大変気性が荒い。○○もその例に漏れず周囲との衝突が絶えない。
 彼女によって負傷し戦に出られない状態になった者も少なくない。無惨に殺された者もいる。

 扱いの非常に難しい彼女は、特に軍師と折り合いが悪かった。
 本来、○○の民族は少数であり、数の少なさを生かした奇襲戦が得意だ。故に、大軍勢を一つの塊として動かす戦法に、個々の判断によって戦う彼女らはそぐわぬ。
 個々の臨機応変な判断力に頼る故協調性を持たぬ。戦死を最高の誉れと尊び、不利の中奮戦する味方に加勢する行為は万死に値する大罪と先祖は定めた。
 軍師の指示に従うと言うことは、代々守り抜いてきた己らの理念を捻じ曲げる行為。到底許容出来るものではない。

 曹操軍が抱える軍師の二人が○○と衝突し、咽を噛み切られて殺されている。
 されども、曹操はこの荒ぶる猛獣を手放さない。扱い方すら間違えなければ彼女は非常に使える戦力なのだ。呂布在りし日に見出さなかったことが悔やまれる程。

 ○○の周りに、人は寄りつかぬ。
 触らぬ獣に害は無し。
 そこに在れどもそこに在らざる者とされ、誰もがその存在を忌避した。
 彼女が従える兵士も無い。誰もが嫌がるし、○○も邪魔になれば躊躇い無く殺すからだ。

 誰からも恐れられ避けられる○○。
 その彼女にも、忌避する人間が現れた。


 新たに軍列に加わった男の名は、賈栩。


 ○○にとって、人間――――否、生き物らしさをまるで感じない、奇妙不気味な軍師であった。


「……困るね。あんた一人従ってくれないだけでもこの策は台無しだ」


 いつになく緊迫した広間、賈栩の大仰な溜息がその場の人間達の不安と焦燥を煽った。

 次いで聞こえた舌打ちが響き渡り、各々恐怖に身体を震わせた。
 舌打ちを放ったのは、まだ幼さを残した少女だ。
 日に焼けて浅黒い肌には筋肉の隆起に沿ってくっきりとした線が何本も走る。同じく日光によって傷んだ髪は赤みを帯び、束ねていなければぼさぼさに膨らんでいただろう。
 顔は可愛らしく整っているものの、愛らしさを形成する目鼻の形を裏切った猛禽類の如く鋭すぎる青の眼光が際立ち、見られただけで身が竦んでしまう。
 獣の毛皮と使い古した防具を太い縄で括(くく)り付けた彼女は足下に刃がギザギザの大剣を抜き身で置いている。毛皮にも防具にも、大剣の柄に巻き付けられた包帯にも、返り血が黒く変色して染み込んでいる。
 ○○は、年齢にもこの場にもそぐわぬ凶暴な野性味を帯びて雄々しく立っている。
 その猛禽の目が睨めつけるのは、賈栩。

 誰もが竦む凶器的な視線を受けてなお、賈栩は涼しい顔で見返している。

 ○○は、人にしては大きく、下に突き出た犬歯を剥き出しにして唸った。


「知るかよ。あたしはあたしのやり方でやる。それで曹操も良いっつってんだから良いんだよ」

「そちらの民族の伝統を尊重して組み上げた戦略であっても?」

「尊重してる奴は最初からあたしを策に入れねえよ」


 たんっ、と片足で床を叩く。
 呆れた様子の曹操と賈栩以外の人間がびくりと小さく震えた。


「賈栩。私は予(あらかじ)めこれのことは言ってあった筈だが?」

「ええ。覚えていますよ。ですが、彼女も曹操軍の一員というのであれば、一員としての相応の義務は果たしてもらいたいものですな」

「あぁ?」

「せめて俺達軍師の大まかな指示くらいには従って然(しかる)るべきでは?」


 ぐっと○○の眉間に皺が寄る。
 舌打ちと同時に彼女は身を屈め大剣を持ち上げた。片腕で大きく振り回す。元々彼女の左右前後に人はいない。皆大きく距離を取っている為、多少振り回しても当たる者はいない。

 臨戦態勢を取る彼女に、しかしやはり、賈栩は動じぬのである。困ったとばかりに肩をすくめ、両掌を天井へ向け、顔の頬辺りまで持ち上げる。

 おどけた態度に吐き気がする。
 気色の悪い男だ。心の中で唾棄して悪口を叩いた。


「あんたがどうしようが、俺はこの策を変えるつもりはないよ。軍師に従ってもらう」

「ざけんじゃねえ。誰が頭だけのひょろっちいもやし如きの指示に従うかよ。あたしはあたしの良いと思ったことをやる。今までもこれからもな」


 大剣を床に叩きつければ轟音が周囲の者達の身体を殴る。掠れた悲鳴を上げその場に座り込む者も在った。

 軟弱者達に冷たい一瞥をくれ、○○は深く抉れた床をそのままに身を翻す。
 大股に広間を去り行く蛮族の女の後ろ姿を賈栩は無表情に見つめ続けた。が、眼光だけは冷たく軽蔑しきっている。

 ○○が誰かと衝突するのは軍に入ってからしょっちゅうだ。すでに死人も出ている。
 彼女は味方であっても平然と殺すから、大抵は相手が先に折れて難を回避するのだけれど、賈栩に関しては違った。
 賈栩は、○○と衝突しようが己の意見を曲げることが無い。こうしろ、ああしろ、軍師の指示に従え――――毎度一点張りの態度で○○を苛立たせる。

 それでいて今まで殺されないで済んでいるのは、賈栩という男を○○が気色が悪いと忌み嫌っているからだ。そうでなければとうの昔に彼の命は亡い。
 手に馴染んだ大剣で殺すよりも、同じ場所に立つことを忌避する――――賈栩のことがどうしてそのように嫌いなのか、知る者は無かった。
 誰も知らぬ故に、ただ殺されるよりももっと酷い事態が訪れるのではないか、誰もが懸念を抱いている。


「……今日はもう良い。参会だ」


 曹操が吐息混じりに言い放った途端緊張が弛み、各々が長々と吐息を漏らす。
 あの夏侯惇すら、○○の側にいれば戦場以上に気を張るのだ。他の者は皆、ただ軍議を終えただけで、病人のように青ざめ疲労が濃く滲んでいる。

 賈栩と曹操だけが、涼しい顔をしている。


「賈栩。あれは死んでも直らん。策は練り直せ」

「……御意のままに」



‡‡‡




「賈栩さんも本当懲りませんよねえ」


 そう言うのは、郭嘉である。
 賈栩の隣を歩きながら呆れた笑みで感心した声で言う。
 郭嘉は、軍議を欠席していた。前以てああなることを予測し、巻き込まれんが為に適当な仮病を使ったのだった。
 が、彼の様子を見るに、物影から軍議の様子を傍観してはいたようだ。

 賈栩は「そうかい」とぞんざいな言葉を返し、足を早めた。


「あれ、賈栩さん。珍しく怒ってます?」

「さあ、どうだろう」

「いや、やっぱり怒ってますよね。あの賈栩さんが珍しー……って、あれじゃあ、無理も無いか。そっちも早く割り切ってしまった方が良いですよ。○○殿は、人間の手には負えない猛獣です。猛獣って言っても、こちらの作戦の邪魔になったことは一度もありませんし、たまにこっちの手助けしてくれた? みたいな結果になることもままありますから、賈栩さんが思う程使えない邪魔な駒じゃありませんって」


 賈栩は足を止めた。溜息。


「それは、周りに散々言われたよ。けれどね……俺達が考えた策のすぐ側で獣が好き勝手に暴れるだけならまだ良いが、気まぐれにこちらの動きに干渉されるのは気に食わない。それを分かっていて献策するのも馬鹿馬鹿しいと思わないかい」

「それについては同感です。でも、あの人の民族はもう生きる世界が違うんですから諦めた方が賢明ですよ」


 賈栩は同僚を見つめ、また、溜息をついた。
 歩き出す。

 郭嘉も、隣につく。


「諦めないと殺されちゃいますよ。良いんですか?」

「獣に殺されるつもりもないよ」

「……うわぁお」


 郭嘉には一度否定したものの、今、賈栩の心中はかつて無い熱を放っていた。

 腹立たしいこと限り無し。気に食わない生き物だ。
 視界に映り込むだけでも胸の内は荒れ狂う、実に忌々しい女――――否、雌の猛獣である。

 曹操軍の武将でありながら何故軍師の指示に従わない? 何故軍を構成する一部として機能する意識を持てない? 軍律を守る義務すら怠っているではないか。

 ○○という猛獣――――その民族自体、軍に入ってはならない存在だ。
 このままでは曹操軍の規律のみならず尊厳までをも壊されかねない。

 嗚呼、忌々しいこと限り無し。気色の悪い生き物だ。
 今まで一生持たぬであろうと思っていた激情を、彼女の為に知ることになろうとは、これ以上に不愉快なことなどあろうか。いいや、無い。
 思えば初めて顔を合わせた時からこの熱はくすぶっていた。
 初対面で自分の頭は彼女を忌み嫌ったのだ。

 芽生えぬと思って芽生えたこの感情も、忌々しいものでしかなかった。


「賈栩さん。ねえ、賈栩さんってば」

「……何だい」

「怒るのは良いけど、手、大変なことになっちゃってますよ」

「……。……ああ、本当だ」


 いつの間にか力を込め過ぎていたようだ。
 我知らず固めていた両の拳。その隙間から真っ赤な筋が垂れている。
 自覚した途端じわりじわり、じくじくとした痛みが生じる。
 賈栩は掌を開き、くっきりと横に走る三つの傷を見下ろした。爪にも、血が付いている。
 爪が伸びていた所為もあって、傷は深いようだ。
 溜息が、また出てしまう。


「……本当……大丈夫なんですかねぇ」


 郭嘉が、目を細めて、珍しく無表情に呟いた。

 賈栩の耳にも届いたが、言葉は返さなかった。
 確かに周囲が危惧するように、己はいつか○○に殺されるだろう。

 だが。

 殺されるなら、その前に――――。


「賈栩さん」

「今度は何だい」

「今日はやけに珍しいことばかりで驚きですね。賈栩さんが怒るだけに留まらず殺気立つなんて」

「……確かに、そうだね」


 嗚呼、苛立つばかりだ。
 溜息しか出ない。



‡‡‡




 あの時と全く同じ激情が、胸の中で荒れ狂っている。
 賈栩は眼下に横たわる全裸で拘束された少女を見下ろし、目を細めた。

 見ているだけで忌々しいというのに、視線は彼女に釘付けだ。
 何をされているでもない。少女は熱い息を、噛まされた猿轡(さるぐつわ)の隙間から血の混じった涎と共に荒く吐き出し荒く吸い込む。
 日に当たらぬ所為で徐々に元の色に戻りつつある傷痕だらけの肌は赤らみ、じっとりと汗を掻いている。
 熱を孕(はら)んだ青の瞳は涙で潤み、焦点が定まっていない。

 耐え難いものを耐え、身体を捩(よじ)っては股から垂れる物を賈栩の目から隠し小さく呻く様は、もはや猛獣と呼べぬ。
 淫らでもどかしい熱を必死に抑え込み、自らの尊厳を守らんと抵抗する女に成り果てている。

 少女のその姿に苛立ちを覚えながらも、賈栩は何処か満たされるような、不可思議な心地を得た。
 彼女を忌々しいと思う反面で、激情のまま動けば満足する結果が待っている――――そう囁く自分のものではない声に身体が勝手に動き出してしまいそうだった。

 賈栩は少女に近付く。
 丸い肩を撫でるとくぐもった甘い悲鳴が上がり、長期に渡って鍛錬を怠っている為に筋肉が衰え始めた身体がびくりと強ばる。
 賈栩の手はそのまま首を掴んだ。

 体重をかけて、咽を押し潰す。


「う゛!? ぐ……ぅ……っ!」

「……」


 折れそうだ。
 存外、女らしい首の細さをしている。
 かの猛獣は、こんなにも簡単に折れる首をしていたのか。

 いや、それ以前に、裸になれば彼女は女だった。

 賈栩は手を離し、激しく咳き込みながら身を捩る少女を見下ろし、身を乗り出した。

 見ているだけでも苛立たしい存在。
 不愉快な感情ばかりを植え付ける存在。
 今も、胸が熱くたぎり、不快感が身体を鉛のように重くする。

 けれども身体は、勝手に動いた。
 少女の身体にのし掛かり、腰に爪を立てる。引っ掻く。
 途端に鳥肌が立ち身体が痙攣(けいれん)する。

 何の為に捕らえようと思ったのかは、自分でも分からない。
 たまたま、女官が夏侯惇に仕込もうとしていたところを咎め取り上げた媚薬を、少女に用いた。
 結果、猛獣は快楽を求めて女となり、賈栩の下で涙を流す。荒い呼吸音が賈栩の鼓膜を震わせる。

 彼女はもうあの猛禽の眼光を失い、欲望を必死に抑え込もうとしても熱い視線に含まれている。

 猿轡を取り去る。涎が染み込んだそれを投げ捨て、腹の肉を抓り上げた。


「……っ、ん、やぁ……あっ」


 甘く媚びるような声に、頭がじんと痺れるような感覚に襲われる。

 不愉快だ。
 不愉快だ。
 気に食わない。
 この少女の何もかもが、忌々しい。

 それでも、賈栩の手は、少女の身体を這い性的な目的を持って暴いていく。

 時折、快楽によってとろけていく彼女の首を寸前まで絞め上げて、苦悶と悦楽の入り交じった顔を見下ろすと、得も言われぬ心地良さがあった。
 賈栩は、その心地良さの正体が分からない。
 分からないから、その行為は続く。

 無言で悦(よ)がり苦しむ少女を眺めながら、賈栩は正体の分からぬ感情を持て余し、狂行を続けた。


「や、止めろ……ああ……止めろっ!」

「……」


 女らしく卑猥な声に、胸が満たされていく。

 賈栩の狂行は止まらない。
 少女が女である限り。
 賈栩が己の感情に気付かぬ限り。

 檻に閉じ込められた猛獣は、二度と出られない。

 出られたとしても、その時にはもう、己が誇る牙も矜持も、無事であるのか分からぬ――――……。



‡‡‡




 当然の報いという者が多数。
 敵の罠に嵌(は)まり、自力で包囲を抜けた○○は、満身創痍、這々の体だった。
 常人であれば立っていることの難しい傷だらけの彼女は、敵方の名将の首級を三つ腕にぶら下げて曹操に献上した。
 『あたしは死んじゃいない。ならこの戦場はあたしの死に場所じゃあない』――――にたりとさしもの曹操すら悪寒が走る笑みを浮かべた後、地に伏し絶入(ぜつじゅ)した。

 即座に軍医のもとに運ばれ、早急な応急処置を受け、いち早く城へと戻された○○を、誰もが畏怖し、誰もが軽蔑した。
 到底、我らには蛮族の理念なぞ理解出来ぬと。

 ○○は、それから数日昏睡状態となった。
 そのまま死ねば良い。
 死ねばこちらが気が楽になる。
 ○○がいれば勝率が格段に上がるが、それだけだ。十三支の方が、よっぽどましである。
 彼女の死を願う者が多い中、かの猛獣は目覚め、目を瞠る程の回復力を見せた。


 ……だが。


 翌日には復帰する筈だったその日、彼女は肺の疾患により急逝した。
 流行病であることを考慮し、誰の目にも触れさせず死体を燃やし地面に埋めたと言う。

 疲れ切った軍医と、賈栩の報告に、曹操は大層落胆したという。






 この一ヶ月後。
 一人の軍医が自ら命を絶つ。

 彼の遺書は短く、こう記されていた。


 この世に、人間でありながら猛獣と成り果てた人間が、我が身の周りに一体どれだけいるのか、考えるだけで恐怖に気が狂いそうだ、と――――。



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