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 腕を組んで話せそうな話題を考えていた俺は、自分自身に不意打ちを受けた。

 突如として、賈栩殿に押し倒された時のことが思い出されたのだ。
 反射的に羞恥が湧き出してきて、体温が急上昇、思わず俯いた。

 俺の突然の異変に関羽と大姉上は驚いたのもつかの間、すぐに笑声を漏らした。


「良かったわぁ。○○が女の子になってくれて。賈栩様はそんなに魅力的な方なのね」

「ええ。賈栩は自分のこと、人間の感覚が分からないって言っているけど、最近は全然そんなこと無いんです。特に○○のことになると」

「まあ、相思相愛なのね。予想以上に良い関係で安心しました」


 ……。

 ……え?


「……相思相愛?」

「「違うの?」」


 顔上げた瞬間に、二人同時に同じ言葉を返され俺はたじろいだ。


「え? え?」

「あら、自覚が無いみたい」

「ねえ○○。あなた、賈栩のことどう思ってる?」

「どう? どうって……」


 俺は口を噤んだ。
 いや、話すのは止めておこう。
 恥ずかしい。

 俺はどうにか誤魔化そうとした。

 が、関羽はともかく大姉上は一筋縄ではいかない。

 結局口で負けてしまって、最近の俺の賈栩殿といた時のおかしな身体の不調を話す羽目になった。
 本当に恥ずかしくてたまらないことは濁しても許されたけれど、話を進めれば進める程二人が何故か昂揚していくのが目に見えて分かる。どうしてそうなる。どうしてこの二人は俺の話にこうも喜んでいるんだろう……。
 おかしいのか? なんて思ったけれど、二人の反応は俺をからかっているようなそれではない。

 話を終えて何を言われるのかと身構えていると、心底嬉しそうな関羽に頭を撫でられた。


「それは賈栩のことを意識しているのよ」

「い、意識……」

「旦那様のこと、好きなのね。愛している……と言ったら○○は恥ずかしがっちゃうかしら」


 虚を突かれた。
 俺は頓狂な声を上げた後、何も言えなくなってしまった。
 俺が賈栩殿のことを、好き、と? 今二人はそう言ったか?
 いやまさか。
 さすがにそれは……。


「あら、無いとは言い切れないんじゃなくて?」

「え?」

「口に出していたわよ、○○」


 関羽に言われ、咄嗟に口を手で塞ぐ。
 大姉上が微笑ましそうに笑った。


「だって、賈栩様を異性だと認識することがあったのだもの。初めてでしょうから、ころっと来ちゃったのねえ。良かったわぁ。ねえ関羽ちゃん」

「ええ。……え、か、関羽ちゃん?」

「あら、女の子よね? それとも関羽君?」

「あ、いえ……ちゃん付けで良いんですけど……」

「じゃあ、関羽ちゃんでよろしいのね。それで、賈栩様にはちゃんと気持ちを伝えたのかしら」

「き、気持ちを伝える?」

「好きですって、ちゃんと言わないと」


 何だか誘導されているような気がしてならない。
 俺はここで歯止めをかけようと言葉を返した。


「いやまだそうと決まった訳ではないのでは……」

「ならあなたにはそれが何なのか分かるの?」

「それは……」

「分からないからずっと悩んでいたのよね? ○○は、昔から人に相談するというのが苦手な子だったもの」


 俺は頭を押さえた。
 いや……どうなんだ?
 俺は賈栩殿のこと、異性として認識しているんだろうか。
 でも、考えてみたって自分のことを把握していない俺がどうして分かるだろう。

 俺よりも大姉上の方が、俺のことを理解してくれていた。昔からそうだった。
 なら、やっぱり俺は……。


「……好き、なんだろうか。賈栩殿のこと」

「わたくしは恋をしている女の子を何人か見てきたけれど、その子達と今の○○、とてもよく似ていてよ」

「……そう、なんですか……」


 俺は、賈栩殿のことが、好き。
 心の中で呟いた瞬間、胸が空いたような感覚がした。つかえていたモノが落ちてすっきりとした感じだ。
 納得とも言える感覚に俺は一度深呼吸した。何度も心の中で同じ言葉を繰り返し、自分の感覚を観察する。

 俺は馬鹿だからかなりの時間がかかっただろうに、その間大姉上も関羽も、声をかけたりはしなかった。俺が最後に自分で理解して納得するのを待ってくれているのだと、思う。


「……うん。多分、好きだと思う。賈栩殿のこと」

「そう。じゃあ、伝えなければね。賈栩様も同じ気持ちでしょうから」

「そうなんですか?」

「でなければ自分から名ばかりの妻に迫ったりはしないわ。あの手の殿方は」


 断じる大姉上にも頭を撫でられた。
 大姉上の言う通りであれば良いのだけれど……。


「言ってみれば、分かるわよ。賈栩って○○のことになると結構分かりやすいから。○○でも分かると思うわ」


 関羽は自信ありげに言う。
 彼女に頷き返すも、俺は別の部分で釈然としないものを感じていた。

 結局、賈栩殿と蓮々が言っていた、大姉上の『別の意図』というのが、分からないまま俺と賈栩殿の話に変わってしまったからだ。
 大姉上は何を思ってここに来たんだろう。
 探るように大姉上を見つめると、彼女は笑顔で首を傾けた。


「なあに?」

「あ、いえ……じゃなくて、あの……賈栩殿や蓮々が、大姉上は別の意図があってここに来られたと。それが一体、どういうことなのかな、と……」


 大姉上は納得した風情で盛んに頷いた。


「だから蓮々だけであなたは部屋の外にいたのね。面と向かって訊ねてくれれば良いのに」

「す、すみません……」


 確かにそうだけど、訊きづらかった。
 俺は視線を逸らした。

 大姉上は少しだけ考える素振りを見せ、


「わたくし、殺して欲しかったの」


 俺は固まった。


「――――なんて言ったら、面白いかしら?」

「……え? あ……ああ、冗談、だったんですね」

「ふふふ……姉が、夫が敵方の捕虜になった妹を心配しない理由がありますか」


 安堵した俺に、大姉上はずっと優しい笑みを浮かべていた。



‡‡‡




 大姉上は、近くの村で静かに暮らすのだと言って、雨の日からたった七日間滞在しただけで城を発ってしまった。念の為に趙雲殿が護衛をしてくれるそうだから、道中は安心だろう。
 彼女は家のあれこれが煩わしくなったそうだ。だから世俗を離れ、自分の好きなように気ままに暮らしたいのだそう。

 別れ際、大姉上が賈栩殿に何か耳打ちしていたのが気になったので賈栩殿に訊ねてみたけれど、ただ妹が殺されるような辞退には絶対にするなとキツく釘を刺されただけだと言われた。猫族に遠慮したのだろうか。

 趙雲殿を先頭に城を離れていく大姉上は、ふと足を止めて振り返った。
 俺を見て笑ったような気がした。
 そしてその笑みが、俺を促しているようにも――――。

 俺はそこで、また全身が熱くなる。
 でも、大姉上は滞在中ずっと俺の心が定まるまで相談に乗ってくれた。その度に大丈夫だと言ってくれた。
 だから、言わないと駄目、だ。

 見送りが済んで猫族が城の中に戻っていく中、俺は小声で賈栩殿を呼んだ。


「あの……賈栩殿」

「何か?」

「あーっと……その……」


 賈栩殿が、無表情に俺を見下ろしてくる。無表情だけど、不思議そうだ。

 俺は視線を一時さまよわせ、地面に落とした。
 そしてようやっと、


「……そのぅ……二人で話が出来ないだろうか。ちょっと、俺から話がしたいんだ」

「ここで出来ないのかい?」

「……出来れば、人に聞かれたくないので」


 賈栩殿は口元に手を添え、暫し思案した。


「先約が終わってからで良いのなら」

「それで構わない。突然のことだし……」

「なら……なるべく早く終わらせて来よう。そちらの部屋に行けば?」

「あ、ああ。すまない、賈栩殿」


 賈栩殿は俺の頭を撫でて、城の中へ入っていった。

 賈栩殿が去れば、俺一人が城門に残る。蓮々は何故かこの場に姿を現さなかった。

 いや、彼女はいない方が良かったかもしれない。蓮々は賈栩殿ととにかく仲が悪い。だから話が思うように進まない可能性がある。

 言うと決めたからには、覚悟も決めなければならない。
 俺は両手に拳を握り、大きく深呼吸を繰り返した。



‡‡‡




 燐西は、秘密裏に手土産を二つ用意していた。

 まず、彼女が大事に隠してきた間諜集団に於ける全ての権限を妹の夫賈栩に譲渡した。忠実なる間諜達は、主の命令に従順だった。逆らわずに、賈栩への忠誠を誓った。○○の夫であり、燐西が認めた男だということもあったのかもしれない。

 そして、燐西が裏で見出し父親を介して曹操軍に組み込んだ武将達が、恩人を追って江陵へ逃れてきた。
 幾十の彼らは錚々(そうそう)たる顔触れで、曹操軍でも屈指の武将さえも含まれていた。
 皆、燐西に才能を拾い上げられたことを深く感謝し、彼女の為に彼女が身を寄せた猫族のもとに馳せ参じたのだった。
 これも見越して、彼女は嫁いだ家を追い出される前に彼らへ働きかけていたのだろう。
 この武将の中には燐西と○○の間の姉妹の夫も含まれている。彼らはちゃんと嫁や子供も連れて来ていた。

 これが彼女の妹達への最後の施しなのだ。燐西という女の引き際なのだ。
 己の才が人中を逸脱していることを自覚していた彼女は、妹達の将来安泰を見届けた後、自らは世俗を去るつもりであった。

 その為に、自分の身体の不調すら放置している。
 治る病を放置して、命を縮めている。


「――――俺に医者のあてを訊ねるとは、余程心配のようだね」


 こつ……足音が無人の廊下に響いた。

 蔡剛は目を伏せ、忌々しそうに唇を歪める。


「……諸葛亮に借りを作れば○○様の枷になると思ったまでのことだ。猫族が燐西に恩を売れば、猫族の窮地に引き出される可能性がある。あいつは頭は化け物並だが、深窓で微笑むのが仕事の女だ。自分の頭が異常であり、無闇矢鱈と人の世で行使するべきものではないと理解している。あの女は、身の丈を考えず自分の思いだけで突っ走る関羽(ばか)なんぞとは、まるで違う」

「なるほど……あんたにとって関羽は、愚者か」

「ああ。愚者だ。守りたいという思いだけで戦場に立つ奴など、俺みてえな化け物に簡単に斬り刻まれる」


 蔡剛のような凶人が、何処にいないとも限らない。
 いや、絶対に存在する。

 蔡剛のように無機質に大量の殺戮(さつりく)を遂行する者。
 殺人に堪らない快楽を覚え、快楽を求めて戦場を望む者。
 復讐の言う名の傷で渇く胸を満たす為に狂刃を振り回す者。

 奴らは、戦いのさなか仲間は愚か自分を守ろうという意思すら持っていない。むしろ自分の肉を使って刃を受け止め迎撃することすら厭(いと)わぬ。
 そんな存在に、関羽や猫族が敵うものか。かの臥龍、諸葛亮ですら、その手の思考回路は予測が難しい。ただただ衝動のままに動くのだから。そこに人間らしい心は存在しないのだ。
 蔡剛は断じる。