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 「賈栩殿!」俺は駆け寄った。

 彼は少しばかり驚いたようだ。
 俺を凝視して柱から離れた。

 俺は賈栩殿の前に立ち、


「誓って言う。大姉上はとても良い人だ。あなたが疑っているようなことは絶対に無い」

「誓うとは、何に?」

「何にって……」

「俺は猫族の捕虜であり、○○は俺を裏切らせない為の人質。そんな○○が、ここで何に誓える?」


 俺は、言葉を詰まらせた。
 賈栩殿の言う通りだった。
 猫族は皆、俺達に身内のように優しく接してくれるから忘れがちだが、そもそも賈栩殿は曹操軍の軍師。俺も元は人質にする為に連れ去られようとしていた。……俺の見てくれでちょっとした問題が発生したけれども。

 諸葛亮殿や、呉の周瑜殿にとっては、俺達は――――特に賈栩殿は気の許せる相手ではないのだ。軍師同士馴れ合っているように見えても、水面下では警戒されている。
 それを今賈栩殿の言葉によって思い出して、ばつが悪くなった。彼は俺の脳天気さに呆れているかもしれないと思うと、胸がきゅっと締まるような息苦しさを覚えた。


「すまない。賈栩殿。でも本当に、大姉上は俺を家族の誰よりも可愛がってくれた人なんだ。だから、賈栩殿に大姉上へ疑念を持っていて欲しくない」

「……」


 賈栩殿は俺を見下ろした後、小さく吐息を漏らした。
 また呆れられたのかと俯くと頭に突然重みを感じた。
 それがゆっくりと左右に動いたものだから、顔を上げるとそれが賈栩殿の手だと分かる。
 頭を撫でられている……らしい。


「賈栩殿……?」

「言っておくが、俺が疑っているのはそのことではないよ」

「え?」

「あくまで俺の印象に過ぎないが……燐西殿は、別の意図があってここに来ているのではないかな」


 別の意図?


「そ、それってどういう……」

「いや……あくまで俺の見解だから、本当のことかもしれない」


 賈栩殿は一瞬作り笑いをして、俺から離れ私室の方へ歩いていった。

 俺は彼の後ろ姿を見送り、肩を落とした。
 別の意図って、何だ?
 大姉上が俺を殺す人だと疑っていたのではないと分かったけれど、別に引っかかる問題が生まれてしまった。

 賈栩殿に見えて、俺に見えなかったもの。
 俺は賈栩殿の言葉を反芻(はんすう)し、可能性のあるものを考えた。でも、さして賢くもない俺みたいなのが考えつくものなんて、下らないものばかりだ。

 俺は嘆息した。

 と、


「○○様」

「あ……蓮々」


 追いかけてきた蓮々は俺に歩み寄り、ちらりと賈栩殿を一瞥して目を細めた。


「蓮々。今の話、聞いてたか?」


 蓮々は頷いた。
 「極めて忌々しいことですが」本当に忌々しそうに前置きして、


「あの無男と同じことを、この蓮々も思いました」

「蓮々も? 大姉上はどうしてここに来たんだ? 俺には、どうして分からないんだ……」

「それは○○様がお優しいからですわ。こちら側の人間だからこそ見えただけでございますれば、○○様にはお分かりにならない方が良いのです」


 蓮々の声は優しい。


「どうしても知りたいのならば……わたくしがお手伝い致しましょう」

「え?」



‡‡‡




 蔡剛は○○を趙雲と共に外に待機させ、燐西にあてがわれた客室を訪れた。

 二人には何を聞いても蔡剛が話を終えて出てくるまで入ってこないように言ってある。男と○○を一緒にするのは大いに不安だが、ここで関羽をあてがえば簡単に言いつけを破るに決まっているから、○○を異性として意識する心配が無く、こちらの言う通りにしてくれる趙雲を選んだのだ。

 蔡剛は声をかけずに扉を開け「邪魔するぜ」

 燐西は軽く驚いた顔でつかの間固まり、草臥(くたび)れた顔に苦笑を浮かべた。


「あら、蓮々。それとも蔡剛様とお呼びした方がよろしいかしら」


 揶揄(やゆ)するように笑う。

 蔡剛は舌打ちした。
 こいつは、嫁いでも何も変わっちゃいねえ。
 いつまで経っても恐ろしい女だ。


「好きに呼びゃあ良い。それよりも、何故お前がここに来た。旦那はどうした」

「離縁されました」

「あ? 離縁《された》?」


 意外な言葉であった。
 軽く虚を突かれた蔡剛に、燐西はまた笑う。その眼差しだけが暗い翳(かげ)りを帯びる。


「子供が産まれなかったの。一人も。妊娠すらしなかったわ」

「……それだけか?」

「ええ。それだけ。離縁は随分と前だったけれど、家に帰らなかったのはわたくし、後妻の侍女になってたからなの」

「は?」

「だから、後妻の侍女に」


 ……。
 蔡剛は目を半分に据わらせた。


「馬鹿かお前は」

「ふふふ。馬鹿なのはお家の方よ。わたくしがいなければあの人の将来の昇進は有り得ないことなのに」


 笑顔ではっきりと断じる。


「もし後妻の侍女なんかに助言を乞うて出世していたなんて知られたら、死ぬ程恥ずかしくって、とてもとても曹操軍の中どころか街中だって歩けないわよねえ……」


 これは彼女の冗談でも過信でもなく、蔡剛から見てもそう思う当然の流れだ。

 燐西は、女にしては賢過ぎる恐ろしい女だ。
 蔡剛の正体をすぐに見抜き、独自の情報網で蔡剛という男のことを突き止めた上で、○○の側に置いて良いと許したのだった。
 もし許可が下らなければ、燐西はどんな手を行使してでも蔡剛を追い出していた筈だ。ややもすると、命も無かったやもしれぬ。

 燐西の知謀は己の父親すら傀儡にする。
 父親が曹操に一目置かれるようになったのは、燐西が十になった頃。
 それから見る見る曹操軍の中で立場を確立していく彼の背後には、いつも恐ろしい知性を備えた娘がいつも先の先の先――――何処までかも分からない遠い未来を、綿密な情報をもとに何百通りも予測して、控えていたのだ。

 嫁いだ後でもそれは変わらなかった。むしろ、自覚無い傀儡がもう一人、夫が増えた。

 そんな燐西が、賈栩のことを知らぬなど、よくもまあ言ったものである。
 ○○の嫁ぎ先を調べて吟味し、決定したのも燐西だと、蔡剛は決めつけている。恐らくは間違っていない。

 ……まあ、それが私利私欲の為に振るわれていないだけ、まだましか。
 燐西の智は、家の――――主に妹達の為に振るわれる。

 父親の地位を築いたのも、そもそも妹の将来を考えてのこと。○○だけでなく、他の妹達の縁談も、燐西が相手を先祖から隅々まで調べ尽くして吟味して決めてやったのだ。
 あの家は、燐西が幼少時から今に至るまでずっと、妹達の将来の為だけに影で操っていた。

 賈栩に○○を嫁がせたのも何か考えがあってのことだろう。
 何に於いても彼女の判断が間違ったことが無いのが腹立たしい。まさかこうなることを予想していたのでは――――と思うと苛立ちが増す。


「で、何であんな嘘を言った? お前の才覚に全く気付いていない曹操がお前に命令なんぞするか」

「そうねえ、意外とお馬鹿さんだものねえ。曹操は」

「指示そのものが嘘なのか?」

「いいえ。それがねぇ、後妻に嘘をつかれて追い出されたのよ。曹操様が旦那様に賈栩夫婦を殺してこいとお命じになられてしまった。でも十三支は恐ろしい。だからあなたが先に行って旦那様の手助けをしてくれないかしらって。後妻はずっとわたくしにつまらない嫉妬をしてたからそのまま死んでしまえって思ったのでしょうねぇ。わたくしももう、何もかもがどうでも良くなってしまったから、一人旅に出ようって一人でここまで来てみたの。楽しかったわぁ」

「……良くもまあ一人で江陵まで来れたもんだな」

「ええ。自分でも驚いてるの。わたくし、こんなに強かったんだなあって」


 ……白々しい。
 蔡剛は後頭部を掻く。
 燐西には、彼女が物心ついた時から、決して誰にも明かさぬ特殊な間諜集団がついている。彼らのお陰で燐西は細かい情報を漏らさず得られるのだ。
 間諜集団は武勇にも優れていると推測される。
 故に、旅路も安全であった筈だ。

 ここでも徹底的に隠すつもりか。生きているうちは手放さないらしい。
 こいつが諸葛亮もしくは周瑜と手を組んだら、最凶だな。
 心中でえずく。

 しかし、彼女がなおも煙に巻こうとしていることに、蔡剛は気付いている。
 彼女が触れられて欲しくないのは、何だ?


「燐西。他に何も隠してねえだろうな」

「あら、どうして?」

「○○様が心配してらっしゃる」

「まあ、嬉しい。妹が良い子に育ってくれて本当に嬉しい」


 空とぼける。
 蔡剛は舌打ちし、追求を強めようとした。
 されど、次の瞬間には口を噤(つぐ)む。

 口だけで語った燐西に、蔡剛は眉間に皺を寄せた。
 出るのは、また舌打ちだ。



‡‡‡




『○○。それにもう一人の方も、いつまでもそこにいないで中にお入りなさいな』


 部屋の中から聞こえた大姉上の声に、俺は趙雲殿と顔を見合わせた。
 俺達の存在に、大姉上は気付いていたらしい。

 やむなく恐る恐る部屋の扉を開けて中を覗き込むと、苦虫を噛み潰したような顔をした蓮々の責めるような視線を受けつつ大姉上はいつもの笑みで俺達を手招きする。


「……す、すみません、大姉上」

「良いのよ。だってわたくしのことを心配してくれたのでしょう? 姉としてとても嬉しいわ」


 笑顔に、安堵する。

 大姉上は蓮々四人分のお茶と菓子を頼み、俺達に座るよう促した。
 しかし、趙雲殿は姉妹水入らずで話すと良いと、やんわりと辞退。

 残念がった大姉上は、それからややあってたまたま部屋の前を通りかかった関羽を見つけてちょっと強引に招き入れた。

 蓮々は呆れた様子で大姉上と俺に一礼し、足早に退室する。


「さあさ。二人共。ここでの話を聞かせて下さいな」

「え?」

「わたくし、楽しみにしていたのよ。○○が賈栩様に嫁いでからどんな生活をしていたのか、十三支……ではなくて、猫族でしたわね。猫族の方々との生活がどんな風なのか、久し振りにあなたの口から聞くのを。それに出来れば他の方からの口からも聞きたかったわ」

「しかし大姉上……大姉上は、お嫌では?」


 大姉上は「どうして?」首を傾げた。

 外で盗み聞いたことが言い辛くて俺が口ごもると、大姉上は自分で答えに行き着いたらしい。納得した様子で頷き、小さく笑った。


「わたくしが後妻の侍女にされたことに遠慮しているの? そんな必要は無いのよ。姉が妹の幸せを妬むなんてあるものですか」


 だから遠慮無く話しなさいと、両手を広げた。
 そう言われても、困る。
 大姉上に語るようなことは……無い、よな。
 ここでの生活は、少なくとも俺の周りは穏やかだ。
 曹操軍とは、だいぶ前に江陵に迫った主力軍を呉軍と共に撃退してから今まで膠着状態が続いていて、目立った動きが無いらしい――――って、そんな話は、どうでも良いか。俺の近況でもないし……。
 でもそれ以外には、蓮々と賈栩殿の日に日に悪化していっているのが否めない仲の悪さくらいだ。