▼みかん様
※短編俺主賈栩夢続編。


 どうも、最近の俺はおかしい気がする。

 気がすると言うのは、元々の自分が常識外れである自覚があるが故のことだ。昔から俺は見た目と趣味が全く噛み合っていない。元から俺個人はおかしいのだから、俺にとっていつもと違う状態でもおかしい気がする、と言うしかないのだ。
 ……なんて、そんなどうでも良いことは脇に置いておこう。

 とにかく、最近俺の日常に異変が起こっているのだ。

 夫である賈栩殿の側にいると、心臓が早鐘を打って息苦しい。
 それは多分、賈栩殿に口付けられてからだと思う。
 辛うじて持っていなくもない……と希望として思っていたい女の部分を賈栩殿に見られて触られてから、側にいるだけで否応無しに感触を思い出して恥ずかしくなって平生(へいぜい)の自分でいられなくなってしまう。

 側にいるだけでそうなのだ、賈栩殿と面と向かって話すとなると狼狽(うろた)えてまともな問答が出来ず、極まるとその場から逃げ出してしまう。

 今となっては、蓮々が賈栩殿を遠ざけてくれるのが有り難い。まさか、二人の不仲に安堵する日が来ようとは、夢にも思わなかった。あんなに仲良くなって欲しいと思っていたのに。
 賈栩殿を徹底的に俺から離す蓮々のお陰か、賈栩殿との接触は、極端に減った。
 前までは頻繁に過ごしていた賈栩殿がいない自室を寒く思うが、それ以上にこの空間の中で二人きりになるなんて考えるだけで恥ずかしくて全身から火を噴きそうだ。

 夫婦として、身体を重ねるのは当たり前のこと。女は嫁いだならば夫の子供を産まなければならない。それは分かっている。
 でも、この燃え上がりそうな羞恥心は想像以上に耐え難い。

 俺はどうなってしまったのか。
 自分のことなのに何も分からなくて、だけど誰かに訊ねるのも恥ずかしい。
 一人悶々と沈思(ちんし)する日々が続いた。

 そんな中、ある日関羽と共に出掛けていたところ、雨に降られて贔屓の店から慌てて帰っていた俺は唐突に呼び止められた。


「○○」

「……え?」

「○○」


 雨音が混じっていたが、俺は驚いて足を止めた。
 聞き覚えのある女性の声だった。俺の記憶が正しいなら、それはここで聞ける筈のない人のもの。もう、一生関わることは無いだろうと思っていた人のもの。
 同行してくれていた関羽が、周囲を見渡した俺を不審に思って首を傾げる。


「どうしたの? ○○」

「今、呼ばれたんだ」

「呼ばれたって……誰に?」

「うん……でも、気の所為なのかな。今の声、大姉上(おおあねうえ)だったように思うんだ」


 もう一度、雨でしとどに濡れた街中を見回してみる。
 だけど、雨中の道に俺達以外の人影は一つも無い。

 今度は俺が首を傾げた。


「やっぱり、気の所為だったみたいだ」

「そう。じゃあ――――」


 関羽はそこで、言葉を切った。右に向き直り目を細めた彼女は僅かに腰を落として、


「そこにいるのは誰?」


 民家の影を睨んで低く誰何(すいか)した。

 応(いら)えが返るまで、さほど時間はかからなかった。
 影からぬらっと姿を現したのは、関羽よりも小柄な女性だ。雨除けに外套を頭から被っているけれど、この雨だ、外套の意味は無く全身がぐっしょりと濡れている。
 顔は外套に隠されていて見えない。
 だが、俺には肌にぴったりと張り付いた袖から覗いた右手の甲を見た瞬間彼女が何者か確信した。

 途端に、俺は関羽の脇を通過して彼女に駆け寄った。


「大姉上!」

「○○、大姉上って……!?」


 関羽の驚いた顔に、俺は大きく頷いた。
 大姉上の右手の甲には痣がある。両親はこの大きな痣を男の目に触れることを厭(いと)ったが、俺はこの痣がいつか見た鳳凰の彫刻に見えて誰が何と言おうと尊く思っていた。

 それを説明すると、大姉上が小さく笑う。


「本当に、おかしい子。こんな醜い痣を瑞獣だと言うのだもの」


 大姉上は外套を脱ぎ、びっしょりと濡れたかんばせを雨下に晒した。

 俺は軽く驚いた。
 大姉上は嫁ぐまで俺と良く遊んでくれた。両親同様俺の見た目と振る舞いに困ってはいたけれど、家族の中では一番、俺を妹として接してくれていたように思う。
 頭が良くて、とても優しい性格が魅力の大姉上は、母に似てとても美しい人だった。
 評判を聞いた名士や武将など、彼女を妻にと求める声がひっきりなしだった。父が篩(ふるい)にかけて未来有望であると選んだ、曹操軍の武将の嫡子は、大姉上が妻になることに大層喜んだと蓮々から聞いた。

 でも、あの頃の美貌が、今はくすんで見えるのだ。
 草臥(くたび)れた影が落ちたかんばせは力が無く、かつての活力も欠片も感じない。
 雨で周囲が暗い所為だろうか?
 こんな所にまで来た疲労がそうさせているのだろうか?
 俺は大姉上の顔に恐る恐る手を伸ばし、頬に触れた。
 瞬間、肌の冷たさにぞっとした。


「かっ、関羽、早く帰ろう! 急いで大姉上を温かい場所にお連れしないと!」

「え? あ、ええ! 分かったわ。……あの、大丈夫ですか? 歩けますか?」

「はい。これでも、昔は○○と庭を走り回ったりしていましたので、体力には自信がありますのよ」


 大姉上は、ふんわりと笑って首を傾けた。



‡‡‡




「まあ、十三支の方がこんなに沢山。妹がお世話になっているようで、皆様にご迷惑をおかけしておりませんか?」

「あ、いえ……むしろ○○にお世話になっていることが多くて……」


 回復を待つこと四日。
 大広間にて、深々と頭を下げ合う大姉上と関羽の周りを、猫族が取り囲み物珍しそうに眺める。
 俺と大姉上が血の繋がった姉妹だと思えないんだろう。意外そうな眼差しが俺と大姉上を行ったり来たりしている。気付いた蓮々が睨みを利かせているが、見た目が剰りに違いすぎるのだからこればかりは仕方がない。

 ほんわかとした物腰の大姉上は、やはり明るい場所に出ても窶(やつ)れた顔をしている。
 俺達と出会ったあの日、衣服を着替え、身体を温めている間、大姉上の顔色を関羽が気遣って医者を呼ぼうとしてくれたのだけれど、やんわりと断られてしまった。だからこの四日間、大姉上は医者にかからずに過ごしている。本当にもう身体は大丈夫なのか、心配だ。


「……ああ、そうでした。わたくし、燐西(りんせい)と申します。初めまして」

「あ、わたしは関羽です。初めまして」

「○○のお姉さんだって聞いてたけど、何か思ってたのと違う……」


 蘇双が思わず呟いたのに、大姉上は笑みを深めた。


「そうでしょう? でもわたくし、お恥ずかしながら裁縫も料理も妹に負けているんですよ。いいえ。わたくしだけでなく、他の妹達も、お母様だって○○には敵わないと思うわ」

「あ、それ分かる。○○の料理は関羽のより滅茶苦茶美味かった」

「え? いや、そんなことは……」

「……確かに。○○の料理は美味しかったわ……悔しいくらいに」


 むっと唇を尖らせ関羽が顔を背ける。


「まあ、まあ。それは良うございましたわぁ。○○の料理は、わたくしも大好きですの。この子の良さが分かる方々に囲まれていて、安心致しました」

「そうだ。なあ、あんた。○○の旦那見たことねえよな?」


 張飛の言葉に大姉上が即座に反応した。ゆったりと何度も頷き、期待の目で彼を見返した。


「ええ。そうなんですのぉ。わたくしが最初に嫁いでいったので、妹達の旦那様を拝見したことが無いんです。賈栩様と仰る方だったと記憶しておりますが、こちらにいらっしゃるのでしょうか。でしたら是非ともお会いしたいわぁ。○○のことを、生の末まで幸せにしてあげて下さいって、お願いしたいです」

「賈栩はそこにいるぜ。無愛想だけど、あれで結構○○と上手くやれてるよ」


 張飛が示したのは、腕を組み壁際に寄りかかっている賈栩殿。彼は猫族からも距離を取って事の様子を傍観している。蓮々が睨みを利かせている所為だろう。
 大姉上は嬉しそうに両手を合わせ、何故か俺の手を引いて賈栩殿の方へ近付いた。

 蓮々が青ざめて大姉上を引き留めるが「あら、でも夫婦なのでしょう?」といつもの調子で問われ、彼はうっと言葉を詰まらせる。
 蓮々は昔から、いまいち波長が合わないのか、家族一鷹揚でまったりとした大姉上にはとても弱い、ように思う。俺の気の所為かもしれないけど。

 だが、蓮々がここで食い下がってくれたらと、俺は思わずにはいられない。
 一歩一歩近付くにつれて心臓が早鐘を打ち始める。体温が上昇していく。
 止めてくれと思うけれど、それを大姉上には恥ずかしくて言えない。

 とうとう賈栩殿の前に立った大姉上は、俺を賈栩殿の隣に並ばせて一歩身を退いた。微笑ましそうに俺達を見比べ、大きく頷いた。


「賈栩様なら、この子が女の子に見えますわね。良かったわぁ」

「お、大姉上」

「いまいち自分に自信が持てない子ですけど、本当に良い子なんですよ。わたくしよりももっと女らしいんです。ですからどうか、末永くよろしくお願い致しますね」

「……」


 賈栩殿は、無言だ。
 無表情に大姉上を見つめている。
 その目に不穏なモノが感じられて、俺は恥ずかしさも失せて不安に顔を覗き込んだ。


「か、賈栩殿……?」

「燐西殿。一つ訊いても?」

「はい」

「あなたは何故、わざわざお一人で江陵まで?」

「それは、○○とあなたを殺せと曹操様がお命じになったからですわ」


 ……。

 ……ん?

 俺達は聞き逃してしまった。

 あまりにさらっと言うものだからすんなりと頭の中に滑り込んで抜けていった言葉に固まった俺は、微かに引っかかった記憶を手繰って、かなり遅れて仰天した。


「お、俺を殺しに!?」

「ええ。あ、でも安心してね。わたくしにその意思は無いから……と言っても説得力は無いかしら。ああそうだわ。ここで裸になって持ち物を全て調べていただけたら納得して――――」

「まま待ってくれ大姉上!」

「そこまでしなくて良いですから!! 本っ当に大丈夫ですから!!」


 襟に手をかけた大姉上を、俺が前から手を押さえつけ、関羽が後ろから説得する。
 大姉上は本気だ。いつも通りの笑みで本気で言っていた。
 俺は賈栩殿を振り返って首をぶんぶん左右に振った。

 賈栩殿は困ったような笑みを浮かべて肩をすくめ、大姉上に頭を下げてその場を辞してしまった。謝罪も弁解も無く、だ。
 ということは、まだ……大姉上を疑っているんだろうか。
 俺は大姉上を見下ろし、問いかけた。


「大姉上。今の話は本当なんですか?」


 大姉上は笑顔で頷いた。


「ええ。本当よ。わたくしに従うつもりがないのも本当。賈栩様には信じてもらえなかったみたいだけれど」

「お、俺、賈栩殿に話してきます!」


 大姉上は、とても良い人だ。
 彼女を疑って欲しくない。賈栩殿には特にそう思う。

 賈栩殿は、私室にいるかもしれないと当たりをつけて彼を捜した。
 だが彼は私室ではなく、その途中に通過する中庭で、一人柱に寄りかかって思案していた。
 「賈栩殿!」俺は駆け寄った。

 彼は少しばかり驚いたようだ。
 俺を凝視して柱から離れた。

 俺は賈栩殿の前に立ち、


「誓って言う。大姉上はとても良い人だ。あなたが疑っているようなことは絶対に無い」

「誓うとは、何に?」

「何にって……」

「俺は猫族の捕虜であり、○○は俺を裏切らせない為の人質。そんな○○が、ここで何に誓える?」


 俺は、言葉を詰まらせた。
 賈栩殿の言う通りだった。
 猫族は皆、俺達に身内のように優しく接してくれるから忘れがちだが、そもそも賈栩殿は曹操軍の軍師。俺も元は人質にする為に連れ去られようとしていた。……俺の見てくれでちょっとした問題が発生したけれども。

 諸葛亮殿や、呉の周瑜殿にとっては、俺達は――――特に賈栩殿は気の許せる相手ではないのだ。軍師同士馴れ合っているように見えても、水面下では警戒されている。
 それを今賈栩殿の言葉によって思い出して、ばつが悪くなった。彼は俺の脳天気さに呆れているかもしれないと思うと、胸がきゅっと締まるような息苦しさを覚えた。


「すまない。賈栩殿。でも本当に、大姉上は俺を家族の誰よりも可愛がってくれた人なんだ。だから、賈栩殿に大姉上へ疑念を持っていて欲しくない」

「……」


 賈栩殿は俺を見下ろした後、小さく吐息を漏らした。
 また呆れられたのかと俯くと頭に突然重みを感じた。
 それがゆっくりと左右に動いたものだから、顔を上げるとそれが賈栩殿の手だと分かる。
 頭を撫でられている……らしい。


「賈栩殿……?」

「言っておくが、俺が疑っているのはそのことではないよ」

「え?」

「あくまで俺の印象に過ぎないが……燐西殿は、別の意図があってここに来ているのではないかな」


 別の意図?


「そ、それってどういう……」

「いや……あくまで俺の見解だから、本当のことかもしれない」


 賈栩殿は一瞬作り笑いをして、俺から離れ私室の方へ歩いていった。

 俺は彼の後ろ姿を見送り、肩を落とした。
 別の意図って、何だ?
 大姉上が俺を殺す人だと疑っていたのではないと分かったけれど、別に引っかかる問題が生まれてしまった。

 賈栩殿に見えて、俺に見えなかったもの。
 俺は賈栩殿の言葉を反芻(はんすう)し、可能性のあるものを考えた。でも、さして賢くもない俺みたいなのが考えつくものなんて、下らないものばかりだ。

 俺は嘆息した。

 と、


「○○様」

「あ……蓮々」


 追いかけてきた蓮々は俺に歩み寄り、ちらりと賈栩殿を一瞥して目を細めた。


「蓮々。今の話、聞いてたか?」


 蓮々は頷いた。
 「極めて忌々しいことですが」本当に忌々しそうに前置きして、


「あの無男と同じことを、この蓮々も思いました」

「蓮々も? 大姉上はどうしてここに来たんだ? 俺には、どうして分からないんだ……」

「それは○○様がお優しいからですわ。こちら側の人間だからこそ見えただけでございますれば、○○様にはお分かりにならない方が良いのです」


 蓮々の声は優しい。


「どうしても知りたいのならば……わたくしがお手伝い致しましょう」

「え?」



‡‡‡




 蔡剛は○○を趙雲と共に外に待機させ、燐西にあてがわれた客室を訪れた。

 二人には何を聞いても蔡剛が話を終えて出てくるまで入ってこないように言ってある。男と○○を一緒にするのは大いに不安だが、ここで関羽をあてがえば簡単に言いつけを破るに決まっているから、○○を異性として意識する心配が無く、こちらの言う通りにしてくれる趙雲を選んだのだ。

 蔡剛は声をかけずに扉を開け「邪魔するぜ」

 燐西は軽く驚いた顔でつかの間固まり、草臥(くたび)れた顔に苦笑を浮かべた。


「あら、蓮々。それとも蔡剛様とお呼びした方がよろしいかしら」


 揶揄(やゆ)するように笑う。

 蔡剛は舌打ちした。
 こいつは、嫁いでも何も変わっちゃいねえ。
 いつまで経っても恐ろしい女だ。


「好きに呼びゃあ良い。それよりも、何故お前がここに来た。旦那はどうした」

「離縁されました」

「あ? 離縁《された》?」


 意外な言葉であった。
 軽く虚を突かれた蔡剛に、燐西はまた笑う。その眼差しだけが暗い翳(かげ)りを帯びる。


「子供が産まれなかったの。一人も。妊娠すらしなかったわ」

「……それだけか?」

「ええ。それだけ。離縁は随分と前だったけれど、家に帰らなかったのはわたくし、後妻の侍女になってたからなの」

「は?」

「だから、後妻の侍女に」


 ……。
 蔡剛は目を半分に据わらせた。


「馬鹿かお前は」

「ふふふ。馬鹿なのはお家の方よ。わたくしがいなければあの人の将来の昇進は有り得ないことなのに」


 笑顔ではっきりと断じる。


「もし後妻の侍女なんかに助言を乞うて出世していたなんて知られたら、死ぬ程恥ずかしくって、とてもとても曹操軍の中どころか街中だって歩けないわよねえ……」


 これは彼女の冗談でも過信でもなく、蔡剛から見てもそう思う当然の流れだ。

 燐西は、女にしては賢過ぎる恐ろしい女だ。
 蔡剛の正体をすぐに見抜き、独自の情報網で蔡剛という男のことを突き止めた上で、○○の側に置いて良いと許したのだった。
 もし許可が下らなければ、燐西はどんな手を行使してでも蔡剛を追い出していた筈だ。ややもすると、命も無かったやもしれぬ。

 燐西の知謀は己の父親すら傀儡にする。
 父親が曹操に一目置かれるようになったのは、燐西が十になった頃。
 それから見る見る曹操軍の中で立場を確立していく彼の背後には、いつも恐ろしい知性を備えた娘がいつも先の先の先――――何処までかも分からない遠い未来を、綿密な情報をもとに何百通りも予測して、控えていたのだ。

 嫁いだ後でもそれは変わらなかった。むしろ、自覚無い傀儡がもう一人、夫が増えた。

 そんな燐西が、賈栩のことを知らぬなど、よくもまあ言ったものである。
 ○○の嫁ぎ先を調べて吟味し、決定したのも燐西だと、蔡剛は決めつけている。恐らくは間違っていない。

 ……まあ、それが私利私欲の為に振るわれていないだけ、まだましか。
 燐西の智は、家の――――主に妹達の為に振るわれる。

 父親の地位を築いたのも、そもそも妹の将来を考えてのこと。○○だけでなく、他の妹達の縁談も、燐西が相手を先祖から隅々まで調べ尽くして吟味して決めてやったのだ。
 あの家は、燐西が幼少時から今に至るまでずっと、妹達の将来の為だけに影で操っていた。

 賈栩に○○を嫁がせたのも何か考えがあってのことだろう。
 何に於いても彼女の判断が間違ったことが無いのが腹立たしい。まさかこうなることを予想していたのでは――――と思うと苛立ちが増す。


「で、何であんな嘘を言った? お前の才覚に全く気付いていない曹操がお前に命令なんぞするか」

「そうねえ、意外とお馬鹿さんだものねえ。曹操は」

「指示そのものが嘘なのか?」

「いいえ。それがねぇ、後妻に嘘をつかれて追い出されたのよ。曹操様が旦那様に賈栩夫婦を殺してこいとお命じになられてしまった。でも十三支は恐ろしい。だからあなたが先に行って旦那様の手助けをしてくれないかしらって。後妻はずっとわたくしにつまらない嫉妬をしてたからそのまま死んでしまえって思ったのでしょうねぇ。わたくしももう、何もかもがどうでも良くなってしまったから、一人旅に出ようって一人でここまで来てみたの。楽しかったわぁ」

「……良くもまあ一人で江陵まで来れたもんだな」

「ええ。自分でも驚いてるの。わたくし、こんなに強かったんだなあって」


 ……白々しい。
 蔡剛は後頭部を掻く。
 燐西には、彼女が物心ついた時から、決して誰にも明かさぬ特殊な間諜集団がついている。彼らのお陰で燐西は細かい情報を漏らさず得られるのだ。
 間諜集団は武勇にも優れていると推測される。
 故に、旅路も安全であった筈だ。

 ここでも徹底的に隠すつもりか。生きているうちは手放さないらしい。
 こいつが諸葛亮もしくは周瑜と手を組んだら、最凶だな。
 心中でえずく。

 しかし、彼女がなおも煙に巻こうとしていることに、蔡剛は気付いている。
 彼女が触れられて欲しくないのは、何だ?


「燐西。他に何も隠してねえだろうな」

「あら、どうして?」

「○○様が心配してらっしゃる」

「まあ、嬉しい。妹が良い子に育ってくれて本当に嬉しい」


 空とぼける。
 蔡剛は舌打ちし、追求を強めようとした。
 されど、次の瞬間には口を噤(つぐ)む。

 口だけで語った燐西に、蔡剛は眉間に皺を寄せた。
 出るのは、また舌打ちだ。



‡‡‡




『○○。それにもう一人の方も、いつまでもそこにいないで中にお入りなさいな』


 部屋の中から聞こえた大姉上の声に、俺は趙雲殿と顔を見合わせた。
 俺達の存在に、大姉上は気付いていたらしい。

 やむなく恐る恐る部屋の扉を開けて中を覗き込むと、苦虫を噛み潰したような顔をした蓮々の責めるような視線を受けつつ大姉上はいつもの笑みで俺達を手招きする。


「……す、すみません、大姉上」

「良いのよ。だってわたくしのことを心配してくれたのでしょう? 姉としてとても嬉しいわ」


 笑顔に、安堵する。

 大姉上は蓮々四人分のお茶と菓子を頼み、俺達に座るよう促した。
 しかし、趙雲殿は姉妹水入らずで話すと良いと、やんわりと辞退。

 残念がった大姉上は、それからややあってたまたま部屋の前を通りかかった関羽を見つけてちょっと強引に招き入れた。

 蓮々は呆れた様子で大姉上と俺に一礼し、足早に退室する。


「さあさ。二人共。ここでの話を聞かせて下さいな」

「え?」

「わたくし、楽しみにしていたのよ。○○が賈栩様に嫁いでからどんな生活をしていたのか、十三支……ではなくて、猫族でしたわね。猫族の方々との生活がどんな風なのか、久し振りにあなたの口から聞くのを。それに出来れば他の方からの口からも聞きたかったわ」

「しかし大姉上……大姉上は、お嫌では?」


 大姉上は「どうして?」首を傾げた。

 外で盗み聞いたことが言い辛くて俺が口ごもると、大姉上は自分で答えに行き着いたらしい。納得した様子で頷き、小さく笑った。


「わたくしが後妻の侍女にされたことに遠慮しているの? そんな必要は無いのよ。姉が妹の幸せを妬むなんてあるものですか」


 だから遠慮無く話しなさいと、両手を広げた。
 そう言われても、困る。
 大姉上に語るようなことは……無い、よな。
 ここでの生活は、少なくとも俺の周りは穏やかだ。
 曹操軍とは、だいぶ前に江陵に迫った主力軍を呉軍と共に撃退してから今まで膠着状態が続いていて、目立った動きが無いらしい――――って、そんな話は、どうでも良いか。俺の近況でもないし……。
 でもそれ以外には、蓮々と賈栩殿の日に日に悪化していっているのが否めない仲の悪さくらいだ。
 腕を組んで話せそうな話題を考えていた俺は、自分自身に不意打ちを受けた。

 突如として、賈栩殿に押し倒された時のことが思い出されたのだ。
 反射的に羞恥が湧き出してきて、体温が急上昇、思わず俯いた。

 俺の突然の異変に関羽と大姉上は驚いたのもつかの間、すぐに笑声を漏らした。


「良かったわぁ。○○が女の子になってくれて。賈栩様はそんなに魅力的な方なのね」

「ええ。賈栩は自分のこと、人間の感覚が分からないって言っているけど、最近は全然そんなこと無いんです。特に○○のことになると」

「まあ、相思相愛なのね。予想以上に良い関係で安心しました」


 ……。

 ……え?


「……相思相愛?」

「「違うの?」」


 顔上げた瞬間に、二人同時に同じ言葉を返され俺はたじろいだ。


「え? え?」

「あら、自覚が無いみたい」

「ねえ○○。あなた、賈栩のことどう思ってる?」

「どう? どうって……」


 俺は口を噤んだ。
 いや、話すのは止めておこう。
 恥ずかしい。

 俺はどうにか誤魔化そうとした。

 が、関羽はともかく大姉上は一筋縄ではいかない。

 結局口で負けてしまって、最近の俺の賈栩殿といた時のおかしな身体の不調を話す羽目になった。
 本当に恥ずかしくてたまらないことは濁しても許されたけれど、話を進めれば進める程二人が何故か昂揚していくのが目に見えて分かる。どうしてそうなる。どうしてこの二人は俺の話にこうも喜んでいるんだろう……。
 おかしいのか? なんて思ったけれど、二人の反応は俺をからかっているようなそれではない。

 話を終えて何を言われるのかと身構えていると、心底嬉しそうな関羽に頭を撫でられた。


「それは賈栩のことを意識しているのよ」

「い、意識……」

「旦那様のこと、好きなのね。愛している……と言ったら○○は恥ずかしがっちゃうかしら」


 虚を突かれた。
 俺は頓狂な声を上げた後、何も言えなくなってしまった。
 俺が賈栩殿のことを、好き、と? 今二人はそう言ったか?
 いやまさか。
 さすがにそれは……。


「あら、無いとは言い切れないんじゃなくて?」

「え?」

「口に出していたわよ、○○」


 関羽に言われ、咄嗟に口を手で塞ぐ。
 大姉上が微笑ましそうに笑った。


「だって、賈栩様を異性だと認識することがあったのだもの。初めてでしょうから、ころっと来ちゃったのねえ。良かったわぁ。ねえ関羽ちゃん」

「ええ。……え、か、関羽ちゃん?」

「あら、女の子よね? それとも関羽君?」

「あ、いえ……ちゃん付けで良いんですけど……」

「じゃあ、関羽ちゃんでよろしいのね。それで、賈栩様にはちゃんと気持ちを伝えたのかしら」

「き、気持ちを伝える?」

「好きですって、ちゃんと言わないと」


 何だか誘導されているような気がしてならない。
 俺はここで歯止めをかけようと言葉を返した。


「いやまだそうと決まった訳ではないのでは……」

「ならあなたにはそれが何なのか分かるの?」

「それは……」

「分からないからずっと悩んでいたのよね? ○○は、昔から人に相談するというのが苦手な子だったもの」


 俺は頭を押さえた。
 いや……どうなんだ?
 俺は賈栩殿のこと、異性として認識しているんだろうか。
 でも、考えてみたって自分のことを把握していない俺がどうして分かるだろう。

 俺よりも大姉上の方が、俺のことを理解してくれていた。昔からそうだった。
 なら、やっぱり俺は……。


「……好き、なんだろうか。賈栩殿のこと」

「わたくしは恋をしている女の子を何人か見てきたけれど、その子達と今の○○、とてもよく似ていてよ」

「……そう、なんですか……」


 俺は、賈栩殿のことが、好き。
 心の中で呟いた瞬間、胸が空いたような感覚がした。つかえていたモノが落ちてすっきりとした感じだ。
 納得とも言える感覚に俺は一度深呼吸した。何度も心の中で同じ言葉を繰り返し、自分の感覚を観察する。

 俺は馬鹿だからかなりの時間がかかっただろうに、その間大姉上も関羽も、声をかけたりはしなかった。俺が最後に自分で理解して納得するのを待ってくれているのだと、思う。


「……うん。多分、好きだと思う。賈栩殿のこと」

「そう。じゃあ、伝えなければね。賈栩様も同じ気持ちでしょうから」

「そうなんですか?」

「でなければ自分から名ばかりの妻に迫ったりはしないわ。あの手の殿方は」


 断じる大姉上にも頭を撫でられた。
 大姉上の言う通りであれば良いのだけれど……。


「言ってみれば、分かるわよ。賈栩って○○のことになると結構分かりやすいから。○○でも分かると思うわ」


 関羽は自信ありげに言う。
 彼女に頷き返すも、俺は別の部分で釈然としないものを感じていた。

 結局、賈栩殿と蓮々が言っていた、大姉上の『別の意図』というのが、分からないまま俺と賈栩殿の話に変わってしまったからだ。
 大姉上は何を思ってここに来たんだろう。
 探るように大姉上を見つめると、彼女は笑顔で首を傾けた。


「なあに?」

「あ、いえ……じゃなくて、あの……賈栩殿や蓮々が、大姉上は別の意図があってここに来られたと。それが一体、どういうことなのかな、と……」


 大姉上は納得した風情で盛んに頷いた。


「だから蓮々だけであなたは部屋の外にいたのね。面と向かって訊ねてくれれば良いのに」

「す、すみません……」


 確かにそうだけど、訊きづらかった。
 俺は視線を逸らした。

 大姉上は少しだけ考える素振りを見せ、


「わたくし、殺して欲しかったの」


 俺は固まった。


「――――なんて言ったら、面白いかしら?」

「……え? あ……ああ、冗談、だったんですね」

「ふふふ……姉が、夫が敵方の捕虜になった妹を心配しない理由がありますか」


 安堵した俺に、大姉上はずっと優しい笑みを浮かべていた。



‡‡‡




 大姉上は、近くの村で静かに暮らすのだと言って、雨の日からたった七日間滞在しただけで城を発ってしまった。念の為に趙雲殿が護衛をしてくれるそうだから、道中は安心だろう。
 彼女は家のあれこれが煩わしくなったそうだ。だから世俗を離れ、自分の好きなように気ままに暮らしたいのだそう。

 別れ際、大姉上が賈栩殿に何か耳打ちしていたのが気になったので賈栩殿に訊ねてみたけれど、ただ妹が殺されるような辞退には絶対にするなとキツく釘を刺されただけだと言われた。猫族に遠慮したのだろうか。

 趙雲殿を先頭に城を離れていく大姉上は、ふと足を止めて振り返った。
 俺を見て笑ったような気がした。
 そしてその笑みが、俺を促しているようにも――――。

 俺はそこで、また全身が熱くなる。
 でも、大姉上は滞在中ずっと俺の心が定まるまで相談に乗ってくれた。その度に大丈夫だと言ってくれた。
 だから、言わないと駄目、だ。

 見送りが済んで猫族が城の中に戻っていく中、俺は小声で賈栩殿を呼んだ。


「あの……賈栩殿」

「何か?」

「あーっと……その……」


 賈栩殿が、無表情に俺を見下ろしてくる。無表情だけど、不思議そうだ。

 俺は視線を一時さまよわせ、地面に落とした。
 そしてようやっと、


「……そのぅ……二人で話が出来ないだろうか。ちょっと、俺から話がしたいんだ」

「ここで出来ないのかい?」

「……出来れば、人に聞かれたくないので」


 賈栩殿は口元に手を添え、暫し思案した。


「先約が終わってからで良いのなら」

「それで構わない。突然のことだし……」

「なら……なるべく早く終わらせて来よう。そちらの部屋に行けば?」

「あ、ああ。すまない、賈栩殿」


 賈栩殿は俺の頭を撫でて、城の中へ入っていった。

 賈栩殿が去れば、俺一人が城門に残る。蓮々は何故かこの場に姿を現さなかった。

 いや、彼女はいない方が良かったかもしれない。蓮々は賈栩殿ととにかく仲が悪い。だから話が思うように進まない可能性がある。

 言うと決めたからには、覚悟も決めなければならない。
 俺は両手に拳を握り、大きく深呼吸を繰り返した。



‡‡‡




 燐西は、秘密裏に手土産を二つ用意していた。

 まず、彼女が大事に隠してきた間諜集団に於ける全ての権限を妹の夫賈栩に譲渡した。忠実なる間諜達は、主の命令に従順だった。逆らわずに、賈栩への忠誠を誓った。○○の夫であり、燐西が認めた男だということもあったのかもしれない。

 そして、燐西が裏で見出し父親を介して曹操軍に組み込んだ武将達が、恩人を追って江陵へ逃れてきた。
 幾十の彼らは錚々(そうそう)たる顔触れで、曹操軍でも屈指の武将さえも含まれていた。
 皆、燐西に才能を拾い上げられたことを深く感謝し、彼女の為に彼女が身を寄せた猫族のもとに馳せ参じたのだった。
 これも見越して、彼女は嫁いだ家を追い出される前に彼らへ働きかけていたのだろう。
 この武将の中には燐西と○○の間の姉妹の夫も含まれている。彼らはちゃんと嫁や子供も連れて来ていた。

 これが彼女の妹達への最後の施しなのだ。燐西という女の引き際なのだ。
 己の才が人中を逸脱していることを自覚していた彼女は、妹達の将来安泰を見届けた後、自らは世俗を去るつもりであった。

 その為に、自分の身体の不調すら放置している。
 治る病を放置して、命を縮めている。


「――――俺に医者のあてを訊ねるとは、余程心配のようだね」


 こつ……足音が無人の廊下に響いた。

 蔡剛は目を伏せ、忌々しそうに唇を歪める。


「……諸葛亮に借りを作れば○○様の枷になると思ったまでのことだ。猫族が燐西に恩を売れば、猫族の窮地に引き出される可能性がある。あいつは頭は化け物並だが、深窓で微笑むのが仕事の女だ。自分の頭が異常であり、無闇矢鱈と人の世で行使するべきものではないと理解している。あの女は、身の丈を考えず自分の思いだけで突っ走る関羽(ばか)なんぞとは、まるで違う」

「なるほど……あんたにとって関羽は、愚者か」

「ああ。愚者だ。守りたいという思いだけで戦場に立つ奴など、俺みてえな化け物に簡単に斬り刻まれる」


 蔡剛のような凶人が、何処にいないとも限らない。
 いや、絶対に存在する。

 蔡剛のように無機質に大量の殺戮(さつりく)を遂行する者。
 殺人に堪らない快楽を覚え、快楽を求めて戦場を望む者。
 復讐の言う名の傷で渇く胸を満たす為に狂刃を振り回す者。

 奴らは、戦いのさなか仲間は愚か自分を守ろうという意思すら持っていない。むしろ自分の肉を使って刃を受け止め迎撃することすら厭(いと)わぬ。
 そんな存在に、関羽や猫族が敵うものか。かの臥龍、諸葛亮ですら、その手の思考回路は予測が難しい。ただただ衝動のままに動くのだから。そこに人間らしい心は存在しないのだ。
 蔡剛は断じる。

 燐西が自分達と同じ側だったなら――――ぞっとしない話だ。
 妹達という枷があればこそ、彼女は人外の知能を彼女らの為だけに振るい、世俗からの引き際を定められたのだ。

 けれどだからこそ、○○も、他の妹達も、長女を心から慕う。

 彼女が孤独に死ぬことを、妹達は許さない。


「間諜集団の最年長の男に、医者を燐西殿のもとへ連れて行かせた。これで良いのかい」

「ああ。思い通り死なせてはやらねえよ。○○様が泣く」

「それに、かの凶将もひとかたならず悲しむだろうからね」


 ぎろりと睨めつけると賈栩は肩をすくめて両手を挙げた。


「○○様以外に、心が動く訳ねえよ」

「そうかい。それは残念だ」

「言 っ と く が。俺は一生お前を認めねえからな」

「別に構わない。俺があんたに遠慮する理由が無い」

「……」

「……」


 蔡剛はこめかみをひくひく痙攣させる。
 やはりこいつとはソリが合わねえ。こいつ殺してえ。
 懐の匕首に手を伸ばしそうになるのを堪え、蔡剛は背を向ける。賈栩とはもうこれ以上一緒にいたくない。うっかり殺しそうになる。

 それは賈栩も同じだったようだ。
 蔡剛とは逆の方向へ歩き出す。


「そちらの用は終わったなら俺は失礼するよ。この後○○に呼ばれているんでね」


 蔡剛は足を止めた。


「……あ゛あ?」

「言っておくが、彼女の方から二人で話をしたいと誘われた」


 だから邪魔をするな。
 言外にそう言われ蔡剛は今度こそ匕首を抜いた。


「上等だてめえここでぶっ殺してやる!!」

「断る。先程燐西殿にご助言いただいたばかりでね。殺される訳にはいかないんだ」


 その声は、微かな響きでしかないが、楽しげだ。
 明らかに馬鹿にされていると分かる彼の態度は蔡剛の神経を逆撫でする。

 ややあって、蔡剛の怒号が城中に響き渡り、猫族総動員で蔡剛の暴走を押さえ込む事態と発展する。

 その隙に、賈栩はまんまと○○の部屋に約束通り訪れるのである。
 彼女が何を言うつもりなのかある程度の予想がついていながら、恐らくは緊張に落ち着かない状態であろう彼女を気遣って何も知らぬフリをする。


『あの子、ようやっと自覚したみたいだから、分かっていても無理に急かしたり迫ったりしないで、自分であなたに告げるまで、気付かないフリをして待ってあげて下さいな。それ程お待たせしない筈ですから』


 それ程待たされないと言われたが、待つ程の時間すら無かった。

 賈栩は自覚していなかった。
 我知らず期待感が滲み出ていたのだろう。
 うっすらと、微笑が浮かんでいた。

 幸い、蔡剛は猫族が拘束してくれる。密かに張飛にそう頼んでおいた。
 この間に、話を済ませてしまおう。

 知らず早足に、賈栩は廊下を行く――――……。



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