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「そうなんですよー。なんで、○○のことお願いしますね、賈栩さん」
「ああ」
賈栩様ももう慣れたものだ。最初こそそこまでする必要が何処に? と不思議そうだったけれど、今では郭嘉の私に見せる異常さを知っていて、もう何も言わなくなった。
「○○も、良い子にしててよね」
「はいはい。それいつも言われてもう聞き飽きたわよ」
無視か。
私が、賈栩様がわざわざ常備してくれている席(むしろ)に座るのを確認し、郭嘉は「じゃあよろしくお願いしますねー」と片手を振って出ていった。
賈栩様は扉が閉まって暫くして、肩をすくめた。
「やれやれ……相変わらずの監視だね」
「ですよね。……一度目はともかく二度目は絶対バレないと思ったんですけど」
「ああ、あれで八つ当たりされた兵士が何人か死んだんだったか」
「……」
それを言われると、苦い。
一度目はそんなこと無かったから、二度目の逃亡で捕まった時には驚いた。
まさか私がまたいなくなったことを知った郭嘉が苛立って、たまたま通りかかった兵士を数人手に掛けたなんて。
弱者の私が逃げたくらいでそこまでする? と信じられなかったくらいだ。
私の命に比べれば、それなりだろうが強者に近い兵士の方が郭嘉の物差しでは重い筈。
なのに、ムカついていたところをすれ違ったからって、殺すとか……有り得ないでしょう。
彼の行動理由を知っているとは言え、さすがにそれは有り得ない。
そうやって私の罪悪感を煽るつもりなのかもしれないけれど、たかだか女一人にそんな行動に移せる思考が理解出来なかった。
「昔は、もう少しましだったんですけどね、あの人」
「聞いてみたところ、本当に『もう少し』だったけどね」
小さく笑い、賈栩様は私の頭を撫でた。
郭嘉の行動に慣れ始めた頃から、賈栩様はよく私の頭を撫でるようになった。郭嘉が勝手に助手にして連れ回す私にも慣れてきたからだろう。
賈栩様の性格上、一時なら私を側に置いても平気だと郭嘉が判断して、頻繁に私を預けるものだから、自然と郭嘉の次に会話の多い相手になっていた。最近じゃ、賈栩様が暇な時は碁を教えながら世間話をする。
今日は、そんな日だ。
早速高そうな碁盤を挟み、解説を受けながら碁を打つ。
「……そう言えば少し前の話になるが、郭嘉は○○を特別だと言っていた」
「賈栩様にはそう言ってるんですね。でもそれは、幼馴染みだからですよ。あと、同じ村の生き残りですし。一応、まだほんのちょっとはそういう感情が残ってるんだと思います。でなきゃ、私をこんな変な立場にしません。……あ、どうですか、ここ」
「残念」
「あ……うーわぁ……」
良いと思ったらヤバかった。
私は唇を歪め、唸った。
「賈栩様に教えていただいていますけど、さっぱり上手くなりませんね、私……」
「けれども、頭が悪い打ち方は、逆に相手が上手ければ上手い程戸惑わせるよ」
「嫌みですか? 嫌みですよね?」
「嫌だな。一つの手だと言っているんだよ」
ああこれは嫌みだ。確実に嫌みだ。
珍しく、心から楽しげな笑みを浮かべる賈栩様をじろりと睨めつけ、私は碁盤を見下ろす。
毎回毎回、ここはこう打つと良い、ここに置くと相手に攻め入る隙が生まれてしまう、といったことを分かりやすく解説してくれるのに、私はそれを次の対局に応用出来ない。
軍師のようにとまではいかないまでも、せめて夏候惇様――――でも多分無理だから夏侯淵様くらいには、攻め守りをちゃんと考えられるようになりたいものだ。
「頭の悪いフリをして、唐突に攻めを強くするのも良い」
「実際私頭悪いですよ」
「碁が強くなればの話だよ」
また頭を撫でられる。
自然上目遣いに見上げると、彼は鼻で笑って手を離した。
「ところで、○○は郭嘉にだけ、敬語ではないね」
「一応女官代わりの部下って扱いになるんだから、一時期は敬語にしましたよ。様付けもしましたし。でも酷く嫌がられたんですよ。何それ気持ち悪い頭悪いの丸分かりだって。確かに私は良いとこの出ではありませんから徹底的に敬語は使えませんけど、だからって上司に使わないのはおかしいでしょう。賈栩様や夏侯惇様には使ってるのに」
「きっと、郭嘉の言う『特別』を表したいんだろう」
特別――――特別ねえ。
私は唇を曲げた。
「でもですね賈栩様、郭嘉にとっての本当の特別は、私じゃないんですよ。郭嘉にはお姉さんがいたんですけどね。昔っから仲が良くって、郭嘉も私といない時はお姉さんにいつもべたべたべったりだったんですよ。ということは、一日の半分以上はお姉さんと一緒だったってことです。小さな頃なんて、お姉さんと一緒に寝てたんですよ」
「ほう、これは意外だ。じゃあ、あの女遊びは姉への執着の名残という訳かな?」
「だと思いますよ。少なくとも私は――――と、どうですかこれは!」
「惜しい」
「ぎゃっ!」
ぱちん、即座にやり返された。
頭を抱える私に、賈栩様はくつくつ咽の奥で笑う。
「けれど今はそれなりに頭の良い攻め方ではあったかな」
「今度は嫌みですね? 完っ全に嫌みですね!?」
「いいや? 本心だよ」
「これだから頭の良い人は嫌なんですよ! 本人にとって嫌みじゃなくてもこっちには嫌みに聞こえるんですから!」
両手を天に突き出して文句を垂れると、賈栩様は「郭嘉の部下に褒めてもらえるとは、光栄だ」などと宣(のたま)いやがった。
どうして曹操軍の軍師はこんななんだ。
「ああもう郭嘉死んじまえ!」
「俺ではなくて?」
いやいやいやそんなこと賈栩様に言ったら私死ぬでしょう。
郭嘉は私の憎まれ口くらいまるで聞かない。それが分かっているから気軽に言えるだけで、賈栩様は違う。どんな仕返しをされるか分かったものじゃない。……いや、縦社会に於いて底辺の身分である私がそんな口をされたらここから追い出されてしまうかも。
一瞬、それって楽な成り行きじゃないか、と思ってしまったが、郭嘉はそうなったとしても私を放しはしない気がする。
郭嘉のお姉さんは、本当によく出来た人だった。だからこそ郭嘉もべったりだった訳だし。
そんなお姉さんに花嫁修業で料理を学んでいたから、お姉さんの手作り料理に近いものを、私は作れる。
郭嘉が私を特別だと言うのは……いや、弱者の私を側に置きたがるのは、私が郭嘉のお姉さんと同じ味付けの料理を作れるからだろう。
つまり、郭嘉は、自分の姉との記憶を持ち、彼女から引き継いだものを持つ私に縋っているのだ。
だから狂気を滲ませてまで、揺るがない持論を歪めてまで、私を生かそうとしているのだ。
うん、やっぱりあいつは馬鹿だ。
私は一人頷いて、あっと我に返った。
「ああ、すみません、考え事をしちゃって―――‡」
……。
……。
……。
「なぁーっ!!」
碁盤を見下ろし、私は大音声を上げた。
さっきまで白黒の碁石がそれぞれの意図で置いてあった碁盤が、ぐちゃぐちゃだった。
「何するんですか!」猛抗議すると、賈栩様は少しばかり考え込むような仕種をして、私へと手を伸ばした。
手袋に包まれた手は私の物よりもとても大きくて――――。
私の首など、容易く掴んでしまえる。
「え゛」
「細いね」
「か、賈栩様!?」
何か気に障ることを言っただろうか。
私の首を指で撫でる賈栩様の指に口端がひきつった。
え、ちょっと……何ですかこれは。
賈栩様を見ていると、彼は何かを納得したようだ。今度は何だ。
彼は私の首を放し、今度は肩を掴んだ。
思いの外強い力で引き寄せられ、体勢を崩した私は目の前に迫った賈栩様の顔に目を剥いた。
鼻先が掠れたその瞬間碁盤に両手をついてその場で身体を止めた。
あと一瞬遅かったら――――口が、触れていたと思う。何にとは言わないけれど。というか恥ずかしくて言えない。
だけどこれだけ近いと、賈栩様の息が鼻にかかる。
郭嘉以外の異性とこんなに接近したのは初めてだ。
恋愛経験の無い私が、こんな状況に耐えられる訳がない。
「あ、あのー……賈栩様。これは、一体、何事で……?」
「……ああ、なるほど」
「一人で納得してないで教えてもらえませんか!?」
「いや、たった今、妬心というものを理解してね。このまま動いてみたらどうなるか試すかどうかを考えていた」
……。
……。
……。
……はい?
としん?
都心?
……妬心?
妬心とはつまり、嫉妬。
嫉妬というものを、賈栩様はたった今ご理解なさったと。うん、何でその年になって理解したんですか。
その対象が、私で、嫉妬のまま動くとどうなるのかを今度は考えてる、と。
え……私、今結構ヤバい状況じゃない?
後頭部に手を添えられ、賈栩様は少しだけ顔を傾ける。
唇を掠めた瞬間、私は――――。
「ぅうわぁああぁぁぁぁ!!」
悲鳴を上げて賈栩様を突き飛ばし、無意識に碁盤を投げつけて部屋から逃げ出した。もう一度言うけれど、碁盤を賈栩様に投げつけたのは完全に無意識です。
その後、奇声を聞きつけた夏侯惇様に回収され、賈栩様の奇想天外な行動を上手く説明出来ない私は郭嘉に引き渡され、長時間に渡る説教を受けた。
郭嘉にだって、賈栩様のことを言える訳がない。
いやだって、言ったら確実に自惚れだって馬鹿にされるじゃないか!
……いや、本当に自惚れで済めばそれはそれで良いんだけど。
明日も賈栩様の部屋で待機させられると説教の後に聞かされた私が青ざめたのは言うまでもない。
どうかからかわれただけでありますように。
心から、そう願った。
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