▼時計様



 幽谷は相当、関羽が苦手らしい。
 劉備とは種類の異なる過保護が発揮されているだけなのだが、幽谷は対人の距離感が上手く掴めない嫌いがあり、他者からの押しに非常に弱かった。その所為で関羽の押しに対して逃げるようになったのだった。

 こればかりは関羽に非があると言わざるを得ない。幽谷が怯えているのだとは、彼女もちゃんと分かっている筈なのだ。

 趙雲は、自分にぴったりとくっついて周囲を警戒する狐狸一族の娘に苦笑を禁じ得なかった。
 また関羽に追いかけ回された彼女は、より強い警戒心から、いつも逃げ場所に選ぶ周泰ではなく、趙雲のところまで逃げてきた。趙雲の服を掴んできょろきょろと忙しなく周りを見渡す幽谷の顔は、やや青ざめていた。


「また関羽か?」

「……、……はい」


 返答に詰まるのは、関羽への罪悪感からか。
 趙雲は幽谷の頭を撫でてやった。

 と、遠くで関羽が幽谷を呼ぶ。

 途端彼女はびくりと身体を震わせる。先程までよりも入念に、目を凝らして周囲を見渡し始めた。眉間に皺が寄っている。

 これはまた……筋金入りだ。

 しかし、服ではなく腕を掴んできた幽谷に、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、見た目に似合わぬ子供じみた行動が、可愛らしいとすら思える。
 外見年齢ならば、幽谷は自分とさほど変わらないだろう。普段の佇まいも、凛然として研ぎ澄まされた刃のような清廉な美しさを備えている。
 されど今に限っては、年齢がぐんと下がっていた。怯えが普段の姿を壊している。

 だから、猫族の老人達は幽谷を微笑ましい目で見ているのだろう。自分の今の印象とは少し類は違うようだが、彼らの気持ちも分かる。


「関羽はお前のことを心配しているんだ。そう怯えないでやってくれ」

「……それは、分かっています」


 だが、怯んでしまうのは仕方がないのだ。
 苦笑を浮かべてばかりいると、また関羽の声。今度は近いよりも近い。
 幽谷は周囲の様子に気を付けながら、趙雲から離れた。強ばった顔から、また逃げるつもりなのだと分かった。

 案の定、彼女は拱手(きょうしゅ)して小走りに隊列の中に紛れていった。
 いつになれば関羽と上手く行くのやら。
 趙雲は一人、肩をすくめた。



‡‡‡




 幽谷がまた関羽から逃げたらしい。
 野営していたところ、見回りの為に食事を摂らなかった幽谷を関羽が心配し、握り飯を作ったは良いが帰ってきたところに大声で駆け寄ってしまったが為に幽谷は怯んで逃げてしまったのだという。挨拶はちゃんとしたらしいが、ここまで行くと、近いうち関羽に接触を禁じさせるべき事態にまで悪化するかもしれない。

 趙雲は落ち込む関羽を宥めてから、幽谷を捜した。周泰と恒浪牙は、幽谷はちゃんと自分の役割を分かっているのですぐに戻るから心配は無いと言っていた。
 趙雲がそこまでしなくても良いのだろうが、食事をしないままと言うのは少々心配だ。

 関羽の作った握り飯を持って、趙雲は野営地を離れた。
 幽谷のことだ、関羽が追いかけると分かっていても万が一の事態に備えて野営地から離れてはいまい。彼女は自分の与えられた役目には忠実だ。それこそ、そんじょそこらの武将とは比べるべくもない。

 趙雲の予想通り、彼女は野営地に程近い断崖にいた。一頭の雌鹿を撫でながら、微笑んでいる。
 今まで笑ったことなど無いのではなかろうか。彼女の柔らかな微笑につかの間魅とれて動きを止めた。けれども幽谷がこちらに気が付いて腰を上げると、鹿は軽快に跳躍して右手に広がる森林の奥へと闇に溶け込むように消えていった。

 それに見送り、幽谷は趙雲に向き直る。


「また逃げたそうだな」


 視線が逸らされる。ややあって、小さな謝罪。

 趙雲は苦笑して彼女へと近付いた。関羽から貰い受けた握り飯を差し出した。

 幽谷はそれに視線を落とし、きょとんと不思議そうな顔で趙雲を見上げた。


「あの……これは?」

「関羽が渡したかった物だ。彼女も、驚かせてしまったことを反省しているよ」

「……」


 幽谷は恐る恐ると言った体で握り飯を受け取り、じっと見下ろした。躊躇うように瞳を揺らし口を薄く開く。その口から声が漏れるまで、少し時間がかかった。


「ありがとうございますと、……関羽殿にお伝え下さいまし」

「……自分で言いに行こうとはしないんだな」


 幽谷は露骨に顔を逸らす。相当な苦手意識だ。

 せめて猫族が落ち着ける場所に着くまでには改善して欲しいものだが、彼女の人付き合いの不得手から来る押しに弱い性格はどうしようもない。それに、まだ自分は幽谷という人物を知っている訳ではない。無理に短所を矯正させようとして苦痛を与えたくはなかった。
 長い目で見てやろうと、趙雲は幽谷の頭を撫でてやった。


「戻る前に食べてやってくれ。それだけでもあいつは喜ぶ。それに、お前はまだ食事を取っていなかっただろう」

「……そうします」


 幽谷は大事そうに握り飯を持ち、辺りを見渡す。手頃な岩を見つけて腰掛けた。細い太腿の上に載せ握り飯に口を付ける。

 趙雲はその側に立って、彼女の食事を眺めた。関羽に幽谷の言葉を伝える為に戻っても良かったが、幽谷の側を離れ難く思う自分がいた。

 暫くして、幽谷が趙雲を見上げる。


「どうかされましたか」

「いや、気にしないでくれ」


 幽谷は怪訝そうに首を傾ける。青い隻眼が瞬きを繰り返した。

 趙雲はその目を見、手を伸ばす。一言断って左目を隠す眼帯を指で軽く撫でた。
 眼帯の下には赤い瞳がある。そのことを趙雲は知っている。この瞳が右に劣らず惹き付ける光を宿していることも。
 恐らくは周泰も同じなのだろう。四凶二人と旅を共にするとはなかなか奇異なる縁だ。

 四凶であることを隠す為とはいえ、幽谷の二つの色違いの瞳が揃わないのは勿体ないと、趙雲は思う。
 この眼帯だけでも幽谷自身の魅力を殺いでいる。四凶だなどとは関係ない。凛々しさも幼い可愛げもある幽谷はとても魅力のある女性であった。


「……趙雲殿?」

「ああ、すまない。眼帯で片目を隠しているのが勿体ないと思ってな」


 幽谷は趙雲を見つめ、


「母――――いえ、我らが長にも同じようなことを言われました」

「そうなのか?」

「あの方は、私の目を気に入って下さっているので。珠にも勝ると、仰いました」


 珠も勝る――――確かに、過言でなくその通りだ。
 つかの間にしか見ていない趙雲でも世のどんな宝石にも勝ると、手放しで同意出来る。


「俺もそう思う」


 笑顔で言うと、幽谷は一瞬だけ表情を弛めた。
 嬉しかったのだろう。ほんの瞬きの間に浮かんだ微笑は、鹿に向けられたものと同じくらいに柔らかく。
 趙雲はまた、魅とれて動きを止めた。

 すぐに無表情に戻ってしまったのが何とも惜しい。
 もっと見たい、湧き上がる欲望に趙雲は息を呑む。

 けれど同時に、既知感めいたものが彼の中に芽生えた。
 昔、何処かで、誰かに、これと似たような感情を抱いたような気がする。

 思い出せない。

 記憶を手繰ろうとすると、その手から逃げるようにそれは失せ、何事も無かったかのように胸中は元の通りに凪(な)いだ。
 今の既知感はただの思い過ごし……気の所為、だったのだろうか。
 胸を押さえると、幽谷の呼ばれる。


「胸が何か」

「あ……いや、何でもない。気にしないで、食べていてくれて良い」

「はあ……」


 訝る幽谷に笑いかけて誤魔化して趙雲は胸から手を離した。

 きっと今のは気の所為だろう――――そう、自身を納得させて。
 だって、彼女らとは会ったことが無いのだから。

 趙雲は一人頷き、黙々と握り飯を頬張る幽谷を見下ろした。



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