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 私と郭嘉は、まあ腐れ縁だ。
 同じ年に同じ村の近所に生まれ、村の中では何をするにも一緒だった。

 ほぼ同じ環境で育った私と郭嘉がまるで違う持論を持ったのは、間違い無くあの出来事の所為。

 村が滅んだ日、私は父に連れられて近くの街で商売をしていた。
 戻ってきた時には腐臭漂う酷い有様で、絶望した。

 郭嘉も死んだものと、その時私は思っていた。
 一人ひとり丁寧に弔った時、彼の死体は見つからなかったけれど……そう考えた方が私にとっては気が楽だった。
 もし希望を持ってしまえば、それに縋ってしまいそうだったから。
 さすがに、郭嘉に鈍いし頭が悪いと馬鹿にされていた私でも、それがとても苦しいことだとは分かっていた。
 だから、この村で私と父は全て失ったのだと思うことで、自分の心を守った。

 それからはずっと必死だった。
 たまたまあの日は売り上げが好調で、数日は保った。
 だけど金はいつか無くなるものだ。
 商売道具も失った父は金が底を付き、父は辿り着いた街で私の為に身を粉にして働いた。血を吐いても、倒れても、年頃の私の未来を守る為だと笑って気丈に身体を酷使した。
 でも限界はすぐに訪れた。

 ろくに医者にかからず、身体を労らない結果に得たものは、決して治らぬ重い病。
 死を待つだけの父の看病をする頃には、私ももうそれなりにお金を稼げていた。頭は悪いけれど、仕事の丁寧さは誰にも負けないつもりだったから。
 父の看病と仕事と、無理矢理に両立させる私は、父と全く同じ生活を送っていた。
 このままではきっと、私も父と同じく――――そう、思っていた。

 それでも構わないかと、諦めていた。
 だって父も私も、精一杯生きたのだ。
 だから別に死んでも誰も何も恨みやしない。
 静かに、死を受け入れよう。

 だのに、だ。

 彼は、唐突に私の前に現れた。


『あれ、○○じゃん。久し振り〜』


 軽快な声に、ただただ驚いた。
 私の目の前に立ったのは、郭嘉。
 私とはまるで違う、高そうな服を着て、前よりもうんと綺麗になった幼馴染みが、意外そうな顔をして私を見ていた。

 すぐに、私は人違いだと否定した。
 何となく、私と知り合いだと彼の周囲に思わせてはいけないような気がしたのだ。郭嘉の未来の為に。
 制止する言葉を聞かず、その場から逃げた。

 郭嘉は生き延びていた。
 そして、私達と違って、今彼は恵まれた環境にいる。
 それはとても良いことだ。
 嬉しくて嬉しくて、今まで何処にいたのよ、こっちはお父さんも私も心配していたんだからと、怒鳴りつけてやりたかった。
 でも、それはいけないことだと思った。

 だから、私は、起き上がることも出来なくなった父にこのことは知らせなかった。

 だけど郭嘉という男は、昔からこちらの都合も気遣いも、気に食わなければ突っぱねる人間だった。
 それを私はすっかり忘れていたのだ。

 郭嘉は翌日、実に堂々と、いつもの笑みを浮かべて父と談笑していた。
 その時の脱力感は、きっと一生忘れられない。


『お帰りー、○○。昨日、他人のフリして逃げるなんて酷くなーい?』

『郭嘉……』

『○○。どうして黙っていたんだい。郭嘉君がこうして元気に生きていたのに。しかも、立派な姿じゃないか』


 父はとても嬉しそうで、郭嘉は――――違った。
 そこで、彼の変化を、私は知った。
 それがどうしてなのか、彼の話を聞いて納得した。

 郭嘉は村でのことを、覚えていた。
 郭嘉はたまたま山に遊びに行っていたらしい。
 村を襲ったのは盗賊。皆が全滅した後、こっそりと後を追いかけた彼は、盗賊が黄巾賊に襲われ、その黄巾賊が曹操軍に殺される様を見ていたという。
 彼は、それが世界の縮図だと言った。僕が見たものこそ、世界の在るべき――――元々の在りようなのだと。
 弱者は強者に殺される。それは絶対の掟。
 元々悪いのは、村の者達だ。
 そして盗賊も、黄巾賊も悪い。
 皆、弱いから。
 自信満々に言う。

 ああ、これだと思った。
 郭嘉は私達を強者に踏みにじられるだけの弱者だと、見下している。

 そりゃそうだ。
 彼は違うだろうが、私達は商売道具も無く、ただただ貪欲に生きていただけ。私達に強さの欠片も無い。
 彼は、再会した私達が蹂躙され散るだけの存在であると確認しにきたのだ。

 郭嘉は、変わった。

 少なくとも良い変化ではない。
 人間としての一線をも踏み越えているような気がした。
 だからこそ割り切れた。

 私達はあの日からもう別次元の生き物だ。
 互いを理解することは無い。
 彼の持論で言うなら強者は弱者を土台にする者。
 強者には強者の物差しがあり、弱者には弱者の物差しがある。
 その物差しは、決して同じ物にはならない。

 私の中で、郭嘉は二度死んだ。

 そしてそれから数日後に父も静かに息を引き取った。
 精一杯生きたよねと、私を守ってくれてありがとうと、私は悲しむのではなくただただ感謝して、父を看取った。
 郭嘉の酷薄な言葉が何度も何度も頭をよぎったけれど、気にしなかった。
 弱者にだって、心はある。馴れ合いがある。

 私は近所の人達の手を借りて父を弔った後、必死に働いた。喪失感は否めなかった。ぽっかりと穴が空いた胸を埋めようと、無心になって働いた。

 そんな私の姿を、郭嘉はずっと遠い場所から見ていた。
 声をかけようともせず、裕福な人々の往来の中からはみ出すことも無く、私を無表情に観察していた。
 彼は私とは違う、強者の層に立つ人間だ。無関係の赤の他人だ。
 弱者は強者に媚びを売って生き残ることもある。
 郭嘉は、きっとそれを待っているんだろう。多分、面白半分で。
 だから私はそうしない。
 弱者だって強者の思い通りには動かない。それぞれに個があるから。

 一生、彼とは会わない。
 お金が貯まったらこの街を出よう。
 そう思っていた。

 だのに――――。


 過剰労働が祟って病を罹患(りかん)した。


 数日間昏睡状態だった間に、私の周囲はがらりと様変わりしていた。
 粗末で寒い、父と暮らした家ではなく、話を聞いて想像を膨らませることしか出来なかった豪奢な部屋に、私はいた。

 寝台の横には、郭嘉。
 嗚呼、私は捕まったのだ。
 満足に動けない身体に不快感を覚えつつ、私は郭嘉を見上げた。

 その時の郭嘉は頗(すこぶ)る機嫌が悪かった。

 昏睡状態が続いていて声を出せない私に構うこと無く、彼は私に対する不満をこぼした。


『あのさぁ、○○。弱者って、見苦しい生き物だよね。強者に支配され殺されるだけの運命のくせに、強者に媚びを売って自分を生かそうとする。強者を利用するんだよ。本当、醜いったら無いよ。……まあ、殺す前提でそういう弱者を眺めてるのは楽しいけど』

『……』

『でも○○は弱者なのに全然そんなことしないよね。ねえ、何で? どうして僕に縋らなかったの? 強者のつもりなの?』

『……』

『ねえ、答えなよ。……って、ああそっか。昏睡状態だったから声が出せないのか。だけど自業自得じゃない?』

『……』

『あーあ……僕見たかったなあ、○○が醜く僕に縋り付いてくるところ』


 幼馴染みに対して悪趣味展開ですか。
 昔から実姉を除いて自分本位な性格であったけれど、残酷嗜好が組み合わさるとなんともおどろおどろしい人間になる。
 声が出せない私は、郭嘉を無視して目を伏せた。

 どうせ飽きればその辺に放り出されるだろう。それを願った。

 だけど、彼は腕の良い医者に私を見せ、病が治ると私に色んな物を買い与え、私を郭嘉の屋敷に住まわせた。
 郭嘉自身が気が済むまで私を着飾って、一緒に登城させて助手みたいな仕事をさせた。

 何をされても不要と拒んでも、彼は止めない。
 施しは受けないと頑なに拒絶する私を見る目に微かな狂気すら見えたこともある。
 それが何なのか分かるのにかなりの時間がかかったのは、やっぱり私が馬鹿だからなんだろう。


 でも、多分……こいつの方が馬鹿だ。




‡‡‡




 曹操軍の軍師として身を置く郭嘉は、女遊びが激しい。
 助手でしかない私が、郭嘉が手を付けた女性から何故か嫌がらせを受けることもあった。と言ってもそれは少し前までの話。簡単に郭嘉にバレてその女性が姿を消したりすることがほとんどで、最近は皆無と言って良い。

 私を拾ったのはひょっとすると女好きだからかと思ったが、弱者と蔑みつつ、郭嘉は私が望まないのに私の世話を焼いた。自分の選んだ服に着替えさせる時にも裸を見ないように気を遣ってくるし、私を娼婦のように扱うことなんて一度も無かった。
 依然拒み続けている私に愛想を尽かすことも無い。
 己の不可解な行動の理由を、彼はやはり気付いていなかった。

 私だけが、知っている。


「○○。そこの」

「これ?」

「そうそう。ありがとう」


 指示された竹簡を手渡す。
 こんなこと、女官にやらせれば良いだろうに、勘違いされて面倒臭いからと私を側に置いて使う。

 女官の代わりだからと言って、郭嘉は私が女官のように振る舞うのは嫌いらしい。拙い敬語で、様付けをしたら、露骨に嫌な顔をされてボロクソに言われた。こうすれば愛想を尽かされるかも知れないと暫く継続させたら本気で口を縫われようとして驚いた。

 でも一応、この場では私は郭嘉の部下、という括りにされている。私としては非常に不本意である。

 部下の割には私は単独行動を許されていない。郭嘉が外出する時には必ず私も同伴しなければならないし、私一人で済む用事でもしっかり私の前を歩く。
 どうしても郭嘉一人で動かなければならない時は決まって賈栩様に預けられた。
 何度、賈栩様や夏侯惇様に呆れられたか分からない。

 恋愛感情ではないのは確かだが、彼は私に妙な感情を向けすぎていると常々思う。
 勿論本人は気付いていないし、気付かせたらどうなるか私には想像も出来ないから何も言わない。
 夏候淵様が少し前に私達の関係を訊ねたらしいけれど、ただの上司と部下だと答えたらしい。……そんな訳があるか。上司は部下をあんな風に扱わない。

 ここまで私を妙に丁重に扱う理由を知っている私でも、この関係は異様だと分かる。
 決して男女の関係にならないのに、どうしてか無償の贈り物を繰り返して世話を焼く郭嘉と、一線を引いて拒絶するも郭嘉の下で従順に働く――――ように見える私。
 どうも、皆様の興味をよくよく引いているらしい。


「ああ、そうだ。今日は夕方まで賈栩さんのとこにいてね」

「分かった」


 ……こう言うが、こいつは賈栩様の部屋に入るまで絶対に付いてくる。賈栩様がちゃんといることを確認してから仕事に行く。
 過保護と言われてもいまいちピンと来ない。過保護と言うよりは、これは監視だ。
 強者からの施しを拒み続ける弱者の私が、目を離した隙に何処かへ逃げないか。
 逃亡の前科二犯だとさすがにこうなった。

 郭嘉を前に訪れた賈栩様の部屋。
 賈栩様は丁度手持ち無沙汰だったようで、嘘っぽいがにこやかに招き入れた。


「そろそろ来るだろうとは思っていたよ。曹操様との大事な話し合いなのだろう」