▼葵様



 私と郭嘉は、まあ腐れ縁だ。
 同じ年に同じ村の近所に生まれ、村の中では何をするにも一緒だった。

 ほぼ同じ環境で育った私と郭嘉がまるで違う持論を持ったのは、間違い無くあの出来事の所為。

 村が滅んだ日、私は父に連れられて近くの街で商売をしていた。
 戻ってきた時には腐臭漂う酷い有様で、絶望した。

 郭嘉も死んだものと、その時私は思っていた。
 一人ひとり丁寧に弔った時、彼の死体は見つからなかったけれど……そう考えた方が私にとっては気が楽だった。
 もし希望を持ってしまえば、それに縋ってしまいそうだったから。
 さすがに、郭嘉に鈍いし頭が悪いと馬鹿にされていた私でも、それがとても苦しいことだとは分かっていた。
 だから、この村で私と父は全て失ったのだと思うことで、自分の心を守った。

 それからはずっと必死だった。
 たまたまあの日は売り上げが好調で、数日は保った。
 だけど金はいつか無くなるものだ。
 商売道具も失った父は金が底を付き、父は辿り着いた街で私の為に身を粉にして働いた。血を吐いても、倒れても、年頃の私の未来を守る為だと笑って気丈に身体を酷使した。
 でも限界はすぐに訪れた。

 ろくに医者にかからず、身体を労らない結果に得たものは、決して治らぬ重い病。
 死を待つだけの父の看病をする頃には、私ももうそれなりにお金を稼げていた。頭は悪いけれど、仕事の丁寧さは誰にも負けないつもりだったから。
 父の看病と仕事と、無理矢理に両立させる私は、父と全く同じ生活を送っていた。
 このままではきっと、私も父と同じく――――そう、思っていた。

 それでも構わないかと、諦めていた。
 だって父も私も、精一杯生きたのだ。
 だから別に死んでも誰も何も恨みやしない。
 静かに、死を受け入れよう。

 だのに、だ。

 彼は、唐突に私の前に現れた。


『あれ、○○じゃん。久し振り〜』


 軽快な声に、ただただ驚いた。
 私の目の前に立ったのは、郭嘉。
 私とはまるで違う、高そうな服を着て、前よりもうんと綺麗になった幼馴染みが、意外そうな顔をして私を見ていた。

 すぐに、私は人違いだと否定した。
 何となく、私と知り合いだと彼の周囲に思わせてはいけないような気がしたのだ。郭嘉の未来の為に。
 制止する言葉を聞かず、その場から逃げた。

 郭嘉は生き延びていた。
 そして、私達と違って、今彼は恵まれた環境にいる。
 それはとても良いことだ。
 嬉しくて嬉しくて、今まで何処にいたのよ、こっちはお父さんも私も心配していたんだからと、怒鳴りつけてやりたかった。
 でも、それはいけないことだと思った。

 だから、私は、起き上がることも出来なくなった父にこのことは知らせなかった。

 だけど郭嘉という男は、昔からこちらの都合も気遣いも、気に食わなければ突っぱねる人間だった。
 それを私はすっかり忘れていたのだ。

 郭嘉は翌日、実に堂々と、いつもの笑みを浮かべて父と談笑していた。
 その時の脱力感は、きっと一生忘れられない。


『お帰りー、○○。昨日、他人のフリして逃げるなんて酷くなーい?』

『郭嘉……』

『○○。どうして黙っていたんだい。郭嘉君がこうして元気に生きていたのに。しかも、立派な姿じゃないか』


 父はとても嬉しそうで、郭嘉は――――違った。
 そこで、彼の変化を、私は知った。
 それがどうしてなのか、彼の話を聞いて納得した。

 郭嘉は村でのことを、覚えていた。
 郭嘉はたまたま山に遊びに行っていたらしい。
 村を襲ったのは盗賊。皆が全滅した後、こっそりと後を追いかけた彼は、盗賊が黄巾賊に襲われ、その黄巾賊が曹操軍に殺される様を見ていたという。
 彼は、それが世界の縮図だと言った。僕が見たものこそ、世界の在るべき――――元々の在りようなのだと。
 弱者は強者に殺される。それは絶対の掟。
 元々悪いのは、村の者達だ。
 そして盗賊も、黄巾賊も悪い。
 皆、弱いから。
 自信満々に言う。

 ああ、これだと思った。
 郭嘉は私達を強者に踏みにじられるだけの弱者だと、見下している。

 そりゃそうだ。
 彼は違うだろうが、私達は商売道具も無く、ただただ貪欲に生きていただけ。私達に強さの欠片も無い。
 彼は、再会した私達が蹂躙され散るだけの存在であると確認しにきたのだ。

 郭嘉は、変わった。

 少なくとも良い変化ではない。
 人間としての一線をも踏み越えているような気がした。
 だからこそ割り切れた。

 私達はあの日からもう別次元の生き物だ。
 互いを理解することは無い。
 彼の持論で言うなら強者は弱者を土台にする者。
 強者には強者の物差しがあり、弱者には弱者の物差しがある。
 その物差しは、決して同じ物にはならない。

 私の中で、郭嘉は二度死んだ。

 そしてそれから数日後に父も静かに息を引き取った。
 精一杯生きたよねと、私を守ってくれてありがとうと、私は悲しむのではなくただただ感謝して、父を看取った。
 郭嘉の酷薄な言葉が何度も何度も頭をよぎったけれど、気にしなかった。
 弱者にだって、心はある。馴れ合いがある。

 私は近所の人達の手を借りて父を弔った後、必死に働いた。喪失感は否めなかった。ぽっかりと穴が空いた胸を埋めようと、無心になって働いた。

 そんな私の姿を、郭嘉はずっと遠い場所から見ていた。
 声をかけようともせず、裕福な人々の往来の中からはみ出すことも無く、私を無表情に観察していた。
 彼は私とは違う、強者の層に立つ人間だ。無関係の赤の他人だ。
 弱者は強者に媚びを売って生き残ることもある。
 郭嘉は、きっとそれを待っているんだろう。多分、面白半分で。
 だから私はそうしない。
 弱者だって強者の思い通りには動かない。それぞれに個があるから。

 一生、彼とは会わない。
 お金が貯まったらこの街を出よう。
 そう思っていた。

 だのに――――。


 過剰労働が祟って病を罹患(りかん)した。


 数日間昏睡状態だった間に、私の周囲はがらりと様変わりしていた。
 粗末で寒い、父と暮らした家ではなく、話を聞いて想像を膨らませることしか出来なかった豪奢な部屋に、私はいた。

 寝台の横には、郭嘉。
 嗚呼、私は捕まったのだ。
 満足に動けない身体に不快感を覚えつつ、私は郭嘉を見上げた。

 その時の郭嘉は頗(すこぶ)る機嫌が悪かった。

 昏睡状態が続いていて声を出せない私に構うこと無く、彼は私に対する不満をこぼした。


『あのさぁ、○○。弱者って、見苦しい生き物だよね。強者に支配され殺されるだけの運命のくせに、強者に媚びを売って自分を生かそうとする。強者を利用するんだよ。本当、醜いったら無いよ。……まあ、殺す前提でそういう弱者を眺めてるのは楽しいけど』

『……』

『でも○○は弱者なのに全然そんなことしないよね。ねえ、何で? どうして僕に縋らなかったの? 強者のつもりなの?』

『……』

『ねえ、答えなよ。……って、ああそっか。昏睡状態だったから声が出せないのか。だけど自業自得じゃない?』

『……』

『あーあ……僕見たかったなあ、○○が醜く僕に縋り付いてくるところ』


 幼馴染みに対して悪趣味展開ですか。
 昔から実姉を除いて自分本位な性格であったけれど、残酷嗜好が組み合わさるとなんともおどろおどろしい人間になる。
 声が出せない私は、郭嘉を無視して目を伏せた。

 どうせ飽きればその辺に放り出されるだろう。それを願った。

 だけど、彼は腕の良い医者に私を見せ、病が治ると私に色んな物を買い与え、私を郭嘉の屋敷に住まわせた。
 郭嘉自身が気が済むまで私を着飾って、一緒に登城させて助手みたいな仕事をさせた。

 何をされても不要と拒んでも、彼は止めない。
 施しは受けないと頑なに拒絶する私を見る目に微かな狂気すら見えたこともある。
 それが何なのか分かるのにかなりの時間がかかったのは、やっぱり私が馬鹿だからなんだろう。


 でも、多分……こいつの方が馬鹿だ。




‡‡‡




 曹操軍の軍師として身を置く郭嘉は、女遊びが激しい。
 助手でしかない私が、郭嘉が手を付けた女性から何故か嫌がらせを受けることもあった。と言ってもそれは少し前までの話。簡単に郭嘉にバレてその女性が姿を消したりすることがほとんどで、最近は皆無と言って良い。

 私を拾ったのはひょっとすると女好きだからかと思ったが、弱者と蔑みつつ、郭嘉は私が望まないのに私の世話を焼いた。自分の選んだ服に着替えさせる時にも裸を見ないように気を遣ってくるし、私を娼婦のように扱うことなんて一度も無かった。
 依然拒み続けている私に愛想を尽かすことも無い。
 己の不可解な行動の理由を、彼はやはり気付いていなかった。

 私だけが、知っている。


「○○。そこの」

「これ?」

「そうそう。ありがとう」


 指示された竹簡を手渡す。
 こんなこと、女官にやらせれば良いだろうに、勘違いされて面倒臭いからと私を側に置いて使う。

 女官の代わりだからと言って、郭嘉は私が女官のように振る舞うのは嫌いらしい。拙い敬語で、様付けをしたら、露骨に嫌な顔をされてボロクソに言われた。こうすれば愛想を尽かされるかも知れないと暫く継続させたら本気で口を縫われようとして驚いた。

 でも一応、この場では私は郭嘉の部下、という括りにされている。私としては非常に不本意である。

 部下の割には私は単独行動を許されていない。郭嘉が外出する時には必ず私も同伴しなければならないし、私一人で済む用事でもしっかり私の前を歩く。
 どうしても郭嘉一人で動かなければならない時は決まって賈栩様に預けられた。
 何度、賈栩様や夏侯惇様に呆れられたか分からない。

 恋愛感情ではないのは確かだが、彼は私に妙な感情を向けすぎていると常々思う。
 勿論本人は気付いていないし、気付かせたらどうなるか私には想像も出来ないから何も言わない。
 夏候淵様が少し前に私達の関係を訊ねたらしいけれど、ただの上司と部下だと答えたらしい。……そんな訳があるか。上司は部下をあんな風に扱わない。

 ここまで私を妙に丁重に扱う理由を知っている私でも、この関係は異様だと分かる。
 決して男女の関係にならないのに、どうしてか無償の贈り物を繰り返して世話を焼く郭嘉と、一線を引いて拒絶するも郭嘉の下で従順に働く――――ように見える私。
 どうも、皆様の興味をよくよく引いているらしい。


「ああ、そうだ。今日は夕方まで賈栩さんのとこにいてね」

「分かった」


 ……こう言うが、こいつは賈栩様の部屋に入るまで絶対に付いてくる。賈栩様がちゃんといることを確認してから仕事に行く。
 過保護と言われてもいまいちピンと来ない。過保護と言うよりは、これは監視だ。
 強者からの施しを拒み続ける弱者の私が、目を離した隙に何処かへ逃げないか。
 逃亡の前科二犯だとさすがにこうなった。

 郭嘉を前に訪れた賈栩様の部屋。
 賈栩様は丁度手持ち無沙汰だったようで、嘘っぽいがにこやかに招き入れた。


「そろそろ来るだろうとは思っていたよ。曹操様との大事な話し合いなのだろう」

「そうなんですよー。なんで、○○のことお願いしますね、賈栩さん」

「ああ」


 賈栩様ももう慣れたものだ。最初こそそこまでする必要が何処に? と不思議そうだったけれど、今では郭嘉の私に見せる異常さを知っていて、もう何も言わなくなった。


「○○も、良い子にしててよね」

「はいはい。それいつも言われてもう聞き飽きたわよ」


 無視か。

 私が、賈栩様がわざわざ常備してくれている席(むしろ)に座るのを確認し、郭嘉は「じゃあよろしくお願いしますねー」と片手を振って出ていった。

 賈栩様は扉が閉まって暫くして、肩をすくめた。


「やれやれ……相変わらずの監視だね」

「ですよね。……一度目はともかく二度目は絶対バレないと思ったんですけど」

「ああ、あれで八つ当たりされた兵士が何人か死んだんだったか」

「……」


 それを言われると、苦い。
 一度目はそんなこと無かったから、二度目の逃亡で捕まった時には驚いた。
 まさか私がまたいなくなったことを知った郭嘉が苛立って、たまたま通りかかった兵士を数人手に掛けたなんて。
 弱者の私が逃げたくらいでそこまでする? と信じられなかったくらいだ。

 私の命に比べれば、それなりだろうが強者に近い兵士の方が郭嘉の物差しでは重い筈。

 なのに、ムカついていたところをすれ違ったからって、殺すとか……有り得ないでしょう。
 彼の行動理由を知っているとは言え、さすがにそれは有り得ない。

 そうやって私の罪悪感を煽るつもりなのかもしれないけれど、たかだか女一人にそんな行動に移せる思考が理解出来なかった。


「昔は、もう少しましだったんですけどね、あの人」

「聞いてみたところ、本当に『もう少し』だったけどね」


 小さく笑い、賈栩様は私の頭を撫でた。
 郭嘉の行動に慣れ始めた頃から、賈栩様はよく私の頭を撫でるようになった。郭嘉が勝手に助手にして連れ回す私にも慣れてきたからだろう。
 賈栩様の性格上、一時なら私を側に置いても平気だと郭嘉が判断して、頻繁に私を預けるものだから、自然と郭嘉の次に会話の多い相手になっていた。最近じゃ、賈栩様が暇な時は碁を教えながら世間話をする。

 今日は、そんな日だ。
 早速高そうな碁盤を挟み、解説を受けながら碁を打つ。


「……そう言えば少し前の話になるが、郭嘉は○○を特別だと言っていた」

「賈栩様にはそう言ってるんですね。でもそれは、幼馴染みだからですよ。あと、同じ村の生き残りですし。一応、まだほんのちょっとはそういう感情が残ってるんだと思います。でなきゃ、私をこんな変な立場にしません。……あ、どうですか、ここ」

「残念」

「あ……うーわぁ……」


 良いと思ったらヤバかった。
 私は唇を歪め、唸った。


「賈栩様に教えていただいていますけど、さっぱり上手くなりませんね、私……」

「けれども、頭が悪い打ち方は、逆に相手が上手ければ上手い程戸惑わせるよ」

「嫌みですか? 嫌みですよね?」

「嫌だな。一つの手だと言っているんだよ」


 ああこれは嫌みだ。確実に嫌みだ。
 珍しく、心から楽しげな笑みを浮かべる賈栩様をじろりと睨めつけ、私は碁盤を見下ろす。
 毎回毎回、ここはこう打つと良い、ここに置くと相手に攻め入る隙が生まれてしまう、といったことを分かりやすく解説してくれるのに、私はそれを次の対局に応用出来ない。
 軍師のようにとまではいかないまでも、せめて夏候惇様――――でも多分無理だから夏侯淵様くらいには、攻め守りをちゃんと考えられるようになりたいものだ。


「頭の悪いフリをして、唐突に攻めを強くするのも良い」

「実際私頭悪いですよ」

「碁が強くなればの話だよ」


 また頭を撫でられる。
 自然上目遣いに見上げると、彼は鼻で笑って手を離した。


「ところで、○○は郭嘉にだけ、敬語ではないね」

「一応女官代わりの部下って扱いになるんだから、一時期は敬語にしましたよ。様付けもしましたし。でも酷く嫌がられたんですよ。何それ気持ち悪い頭悪いの丸分かりだって。確かに私は良いとこの出ではありませんから徹底的に敬語は使えませんけど、だからって上司に使わないのはおかしいでしょう。賈栩様や夏侯惇様には使ってるのに」

「きっと、郭嘉の言う『特別』を表したいんだろう」


 特別――――特別ねえ。
 私は唇を曲げた。


「でもですね賈栩様、郭嘉にとっての本当の特別は、私じゃないんですよ。郭嘉にはお姉さんがいたんですけどね。昔っから仲が良くって、郭嘉も私といない時はお姉さんにいつもべたべたべったりだったんですよ。ということは、一日の半分以上はお姉さんと一緒だったってことです。小さな頃なんて、お姉さんと一緒に寝てたんですよ」

「ほう、これは意外だ。じゃあ、あの女遊びは姉への執着の名残という訳かな?」

「だと思いますよ。少なくとも私は――――と、どうですかこれは!」

「惜しい」

「ぎゃっ!」


 ぱちん、即座にやり返された。
 頭を抱える私に、賈栩様はくつくつ咽の奥で笑う。


「けれど今はそれなりに頭の良い攻め方ではあったかな」

「今度は嫌みですね? 完っ全に嫌みですね!?」

「いいや? 本心だよ」

「これだから頭の良い人は嫌なんですよ! 本人にとって嫌みじゃなくてもこっちには嫌みに聞こえるんですから!」


 両手を天に突き出して文句を垂れると、賈栩様は「郭嘉の部下に褒めてもらえるとは、光栄だ」などと宣(のたま)いやがった。
 どうして曹操軍の軍師はこんななんだ。


「ああもう郭嘉死んじまえ!」

「俺ではなくて?」


 いやいやいやそんなこと賈栩様に言ったら私死ぬでしょう。
 郭嘉は私の憎まれ口くらいまるで聞かない。それが分かっているから気軽に言えるだけで、賈栩様は違う。どんな仕返しをされるか分かったものじゃない。……いや、縦社会に於いて底辺の身分である私がそんな口をされたらここから追い出されてしまうかも。
 一瞬、それって楽な成り行きじゃないか、と思ってしまったが、郭嘉はそうなったとしても私を放しはしない気がする。

 郭嘉のお姉さんは、本当によく出来た人だった。だからこそ郭嘉もべったりだった訳だし。
 そんなお姉さんに花嫁修業で料理を学んでいたから、お姉さんの手作り料理に近いものを、私は作れる。
 郭嘉が私を特別だと言うのは……いや、弱者の私を側に置きたがるのは、私が郭嘉のお姉さんと同じ味付けの料理を作れるからだろう。

 つまり、郭嘉は、自分の姉との記憶を持ち、彼女から引き継いだものを持つ私に縋っているのだ。

 だから狂気を滲ませてまで、揺るがない持論を歪めてまで、私を生かそうとしているのだ。
 うん、やっぱりあいつは馬鹿だ。

 私は一人頷いて、あっと我に返った。


「ああ、すみません、考え事をしちゃって―――‡」


 ……。

 ……。

 ……。


「なぁーっ!!」


 碁盤を見下ろし、私は大音声を上げた。

 さっきまで白黒の碁石がそれぞれの意図で置いてあった碁盤が、ぐちゃぐちゃだった。
 「何するんですか!」猛抗議すると、賈栩様は少しばかり考え込むような仕種をして、私へと手を伸ばした。

 手袋に包まれた手は私の物よりもとても大きくて――――。

 私の首など、容易く掴んでしまえる。


「え゛」

「細いね」

「か、賈栩様!?」


 何か気に障ることを言っただろうか。
 私の首を指で撫でる賈栩様の指に口端がひきつった。
 え、ちょっと……何ですかこれは。

 賈栩様を見ていると、彼は何かを納得したようだ。今度は何だ。

 彼は私の首を放し、今度は肩を掴んだ。
 思いの外強い力で引き寄せられ、体勢を崩した私は目の前に迫った賈栩様の顔に目を剥いた。

 鼻先が掠れたその瞬間碁盤に両手をついてその場で身体を止めた。

 あと一瞬遅かったら――――口が、触れていたと思う。何にとは言わないけれど。というか恥ずかしくて言えない。
 だけどこれだけ近いと、賈栩様の息が鼻にかかる。

 郭嘉以外の異性とこんなに接近したのは初めてだ。
 恋愛経験の無い私が、こんな状況に耐えられる訳がない。


「あ、あのー……賈栩様。これは、一体、何事で……?」

「……ああ、なるほど」

「一人で納得してないで教えてもらえませんか!?」

「いや、たった今、妬心というものを理解してね。このまま動いてみたらどうなるか試すかどうかを考えていた」


 ……。

 ……。

 ……。

 ……はい?

 としん?
 都心?
 ……妬心?
 妬心とはつまり、嫉妬。

 嫉妬というものを、賈栩様はたった今ご理解なさったと。うん、何でその年になって理解したんですか。

 その対象が、私で、嫉妬のまま動くとどうなるのかを今度は考えてる、と。

 え……私、今結構ヤバい状況じゃない?
 後頭部に手を添えられ、賈栩様は少しだけ顔を傾ける。
 唇を掠めた瞬間、私は――――。


「ぅうわぁああぁぁぁぁ!!」


 悲鳴を上げて賈栩様を突き飛ばし、無意識に碁盤を投げつけて部屋から逃げ出した。もう一度言うけれど、碁盤を賈栩様に投げつけたのは完全に無意識です。

 その後、奇声を聞きつけた夏侯惇様に回収され、賈栩様の奇想天外な行動を上手く説明出来ない私は郭嘉に引き渡され、長時間に渡る説教を受けた。
 郭嘉にだって、賈栩様のことを言える訳がない。

 いやだって、言ったら確実に自惚れだって馬鹿にされるじゃないか!

 ……いや、本当に自惚れで済めばそれはそれで良いんだけど。
 明日も賈栩様の部屋で待機させられると説教の後に聞かされた私が青ざめたのは言うまでもない。

 どうかからかわれただけでありますように。
 心から、そう願った。



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