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未知なる武術に対し、興味が振り切ったらしい夏侯惇殿は、ある日突然あたしに直々に手合わせを申し込んできた。
道場の中、断る理由も無く、あたしは了承した。
そして――――まあ、容赦なく伸してしまった。夏侯淵殿に罵声を浴びせられ、そんな彼に、道場の空気を壊すなとお祖父さんの怒号が響いた。
それだけなら良いんだけど、この翌日から厄介な展開が始まった。
毎日毎日、夏侯惇殿が手合わせを申し込んできてそれはもうしつこい。
姉さんが待ったをかけて宥めてくれても、どうやらあたしに勝つことに執念を燃やしいているらしい。全く要らぬ執念だ。
それが、どうしてああいう感情に発展したのか、あたしには今でも解せない――――。
‡‡‡
――――嗚呼、この部屋は寒い。
新品の綺麗な調度品、煌びやかな装飾品、高価な化粧品、美しい仕立ての服……。
極上の物ばかりを集めたこの部屋は、とても騒がしい。
騒がしくて、寒くて寒くて不快でたまらない。
目を開けて覚醒してすぐに身震いした。
寒い……本当に、毎日が寒い。
どうしてここにいるのだったか――――楽しかった頃の夢を見た後、決まって思う現実逃避の為の疑問。
分からなければ分からないままでいれば良いのに。あたしの無駄に記憶力の良い頭は、すぐに答えを差し出してくる。
曹操が、自分をここに閉じ込めたのだと。
あたしだけじゃない。姉さんも別の似たような部屋に監禁されている。
どうしてこんな真似をするのか。
あたし達が混血だからだ。
曹操も混血だったらしいが、その混血という存在に、彼は異常に固執した。
あたしと、姉さんと、曹操は二人を一遍に手に入れようとした。側に置こうとした。
どちらが正妻なのか、妾なのか……判然としないし、それ以上にこちらの意志などお構い無しだ。
姉さんは張飛と良い仲だし、あたしだって――――好きな人がいる。
なのに、曹操は猫族から無理矢理連れ出して、こんな地獄のように冷たい部屋に押し込んだ。
あたし達を助けようとした人達は全て返り討ちに遭い、それからどうなったか分からない。
幸いなのは、あたしが舌を噛みきろうとしたばかりか姉さんまで毒の花を食らって数日昏睡状態になった為に、あたし達の部屋を訪れることは全く無いこと。
だが、それでも地獄なのは変わらない。
助かる宛は無い。
せめて想い合った姉さんだけは、助かって欲しいのに、守る為にと決めた武も何の役には立たない。
毎日毎日嘆く。
毎夜毎夜啜り泣く。
毎朝毎朝絶望する。
今朝も――――今日も、そんな日になるんだと、重い身体を起こした。
「……?」
けれど、今朝はどうも騒がしいような……。
立ち上がって窓の外を覗こうとした、その刹那である。
ずっと役目を果たさなかった扉が乱暴に開かれた。
見やって、顎を落とす。
そこにいたのは、曹操ではない。
いる筈のない――――ここに来れる筈のない人だった!
あたしは衝撃に耐えかねてふらりとよろめいた。寝台の柱に寄りかかって、大股に近付いてくる彼を凝視した。
彼の隻眼が、あたしをじっと捉えて放さない。
逞(たくま)しい腕が伸ばされ、あたしの肩を掴み強く引き寄せられた。
背中に伸ばされた手が一瞬痙攣(けいれん)し、力を込める。
嬉しいと言うよりも、困惑と恐怖が勝った。
これも夢、なのだろうか……。
期待して良いのか、分からない。
「か……夏侯惇、殿……?」
恐る恐る、確かめるように名前を呼ぶ。
夏侯惇殿はあたしの背中を叩いた。
「……痩せたな。見違える程に弱々しくなった」
「……ごめん。これは……夢?」
「夢の訳があるか。関羽と同じようなことを言うな」
姉さんも言ったんだ。
夏侯惇殿はあたしを放すと頬を撫でた。
彼の片方の目は、捕まったあたしを連れ出そうとした時に曹操(あるじ)に斬り付けられた。すぐに趙雲達の援護を受けて逃げ出せたけれど……やっぱり、見えなくなってしまったのか。
手を伸ばして眼帯に触れると、また抱き寄せられた。
「関羽はもう逃げ出している。出るぞ」
「え……?」
「曹操様は今、遠征のさなかにある。逃げるなら今だ」
手を引いて出ようとした彼に、脳裏で片目を斬られた場面が過ぎる。
咄嗟に足を踏ん張った。
夏侯惇殿が驚いたようにあたしを振り返る。
「……○○?」
「あ、いや……今は、姉さんだけを助けてあげてよ。二兎を追う者は一兎をも得ずって言うでしょう?」
いつの間にか想いを寄せていた夏侯惇殿が助けに来てくれている。
それは、とっても嬉しいことだ。
もし、あたしも連れて行こうとして、問題が起こったら?
今度こそ、夏侯惇殿は――――。
ぞくり、と背筋が冷える。
夏侯惇殿はそれを察したようだ。眼帯を押さえ、あたしを呼んだ。
「次は、あのような不覚は取らない。だから、来い」
「でも……!」
夏侯惇殿は舌を打った。焦りがあるのは、一刻を争う事態だからだろう。外の喧噪が一段と騒がしくなっている。
けれど、声は穏やかだ。あたしを諭すように優しく語りかけてくる。
「○○。関羽だけを助けて逃げたとしても、もう二度とお前を助けることは出来ない。この事態を知れば、すぐにでもお前を娶るだろう」
「そ、そんなの分からないじゃないか……」
「いや、あの方の乱心は、周辺の諸将にも伝わっている。これ幸いにと攻め込む者も現れるだろう。そんな情勢で俺達が再び忍び込める可能性は限り無く低い。今回の遠征とて、同胞に過剰に入れ込む曹操様が呉を相手に以前のように怜悧で賢明な判断が下せるかどうかも危うい。もはや、河北を制定なさったあの方のお姿は、何処にも見当たらない。負けて帰った時、お前に縋るかもしれない」
今や彼は、無惨に崩壊した妄執の徒だ。
あたし達が混血だと知られなければ、曹操はああはならなかった。
夏侯惇殿や夏侯淵殿だって……主に敵視され国を追われる事態にもならなかった。
未だに曹操を敬う夏侯惇殿の言葉に、罪悪感が内部からあたしの心を突き刺した。
「……ご、ごめんなさい……あたし達が、」
「違う。曹操様とお前を天秤にかけてお前を選んだのは俺自身だ。夏侯淵も同様に、自分で曹操様との決別を決めた」
長らく仕えた主の乱心。
あたしと姉さんが彼の視界をちらつく限り、彼は執念を捨てはしないだろう。
いや、姿を消したとしても執念深く大陸中を捜して回るかもしれない。草の根分けても、同胞を見つけ出そうとするかもしれない。
だから、二人は曹操のもとを離れようと決めた。
それは捧げた忠誠を裏切る不義の行為だ。
あたし達が、そんな事態を招いたのだ。
「……それこそ、違うよ。これはあたし達の所為なんだ……あたしが混血だって不用心に言わなければこんな事態にはならなかった」
そうだ。あたしが悪い。
だからあたしは責任を取らなければならない。
巻き込んだ姉さんや猫族や、夏侯惇殿達に。
断じるあたしに、夏侯惇殿はまた違うと、強く言い切った。
だけど――――と、また反論しようとして、口を塞がれた。
彼の手ではない。
彼の唇に、だ。
抱き竦められあたしは逃げることを許されず発言を禁じられた。
それは長く、熱かった。
どうしてこんな真似をする? 分からない。
あたしは夏侯惇殿が好きだ。
いつの間にか、ずっとずっと好きだった。
だけど夏侯惇殿は違う筈。
彼はあたしの気持ちを知らないし、あたしのことなど自分を負かし続ける混血の娘という認識でしかなかった。
ただ、あたしを黙らせる為に、こんな惨いことを……?
いや、女性が苦手な彼がそんな性格ではないことはもう分かっている。
じゃあ、どうして?
何が何だか分からなくてただただ頭が混乱した。
ようやっと離れたかと思えば、隻眼があたしを強く――――欲を瞳の奥に揺らめかせて見据える。脳が、見えない何かに鷲掴みにされたようだった。逃げられない。身体が動かない。
「……良いか。一度しか言わない」
「え?」
「俺が最も耐えられなかったのは、惚れた女が別の男のものにされることだ」
「――――」
――――え?
あたしは、目を剥いた。
それは、どういう意味だろう。
姉さんのこと?
それとも……。
駄目だ、勘違いしてしまいそう。
もっと別の意味があるかもしれないじゃないか。
呆けるあたしに夏侯惇殿は舌打ちし、身を屈めてあたしを抱え上げた。
突然の浮遊感に咄嗟に夏侯惇殿の首にしがみつく。
「か、夏侯惇殿……!」
「時間が無い。急ぐぞ」
「そんな……!」
今の言葉の意味も、よく分かっていないのに!
待ったをかけるあたしに、夏侯惇殿はまた唇で口を塞いでくる。あたしの抗議など聞かないと意志表示するように、あたしが口を開けば即座に塞いだ。
「意味が知りたいのなら、逃げた後で教えてやる」
そう言って、彼は廊下を駆け抜けた。
嗚呼、そんなことを言われたら。
助かりたいと思ってしまう。
この人に助けてもらえて嬉しいと、泣いてしまう。
……いや。
あたし、もう……泣いている――――……。
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