▼紗羅様



 話すようになって、よく分かったことがある。

 こいつは――――○○・シェラーニ・ランドルアは、休み方をまっったく知らないのだ!

 真面目な堅物。つい最近たまたま目にした異国の高級鰹節の硬度にも勝るのではないかと本気で思う程だ。
 そんな○○の唯一の癒しであったのがルシアのバイオリンだったのだと思うと、申し訳ないやら、他に何か無かったのかよと叱りつけたくなるような……むず痒い思いである。
 彼女の学校生活は、はたから見ていて、冷や冷やとする。

 彼女がルナールの騎士家の出身であると知れた学園の生徒の、彼女に対する嫌がらせも見れたものではなかった。
 倉庫に閉じ込められ婦女暴行に至ろうとした時には、さすがに偶然を装って止めたが、気付いたこと自体、たまたまだった。次、助けられる保証は無い。

 やり返せよと言っても○○は己にその権利は無いと首を横に振るのみだ。
 ○○は真面目すぎて、全く関与していなかったルナールの所業を己の罪であると思い、ファザーンに於ける己の身分を過小評価しすぎている。

 騎士として実直なランドルア家前当主や、父の性格を色濃く受け継いだ○○を気に入って、マティアスも彼女の後ろ盾となったのだ。
 彼は同時に、そのひたむきさの危うさも危惧していたのだろう。

 ○○とバイオリンを聴かせる約束をしたその翌日に、ルシアに宛てられたマティアスからの手紙には、○○のことをフォローしてやるようにと頼む内容だった。手紙を受け取ったのがルシアだけなのは、学年が同じだからだ。
 それもあって、昼休みや朝の教室ではなるべく一緒にいて、話し相手になりつつ周囲の牽制をしているが、果たしてそれに効果があるのか怪しいところである。
 ファザーン王の弟君の友人――――その肩書きは、諸刃の剣だ。
 盾にもなるが、妬みの対象にもなる。
 婦女暴行を行おうとした貴族は、ファザーンの中流貴族の子息達であった。ルナールの騎士が何故自分よりも好待遇なのか、自分達には近付くことすら恐れ多いルシアと親しく出来るのか、気に食わなかったのだった。

 困ったことに、○○は与えられた言葉を全て鵜呑みにする。真否を判断する能力が欠如しているからだが、彼らの自分勝手な嫉妬を嫉妬と気付かず肯定し、自分に自信が持てないでいるものだから、始末に負えない。
 自分に自信を持てないまま、ただただ恩に報いようとする剰(あま)り、嫌がらせも己の罰だと受け入れ、溜め込むしかない。
 素性がバレる前も、彼女は全てを疑いもせず、ただただ溜め込んでいったのだろう。
 正直、この馬鹿! と怒鳴りたくなったことも少なくない。
 だが自分と○○の間に未だ寄り切れぬ距離があることから、躊躇ってきた。

 マティアスとて、○○を気に入らなければここまでの処置はしなかっただろう。
 ○○の人格故だ。真面目で純粋で、誰かが彼女に助言を与えてやらなければ上手く世渡りなど到底出来ぬ。が、その真っ直ぐさこそ、十分信頼に値する。
 ルシアとて、○○と裏切りはイコールで繋げられない。いや絶対無理だろこいつの頭じゃ、という結論に至るのだ。

 下手に下心を持つ貴族より、○○は人間が良く出来ている。
 出来ればずっとそのままでいて欲しいくらいだ。

 それが卑屈に埋もれてしまわぬよう、ルシアは考えた。

 そんな折、カレンダーが目に入ったのは、たまたまだった。

 年明けを間近に控え、学園はもうじき長期の休みに入る。ルシアも帰省しなければならない。
 勿論、○○もルナールに戻る。
 そこで、ルシアはとある提案を手紙に書き、マティアスに送った。

 返答はすぐにあった。
 答えは了承。しかも、ランドルア家の者達を招いて今後の対応についての話し合いという立派な口実を作っての、だ。
 さすがマティアス。話が分かる!

 これで○○の精神も少しは休めるだろうし、このうちに自信を持たせてやりたい。
 ルシア自身気付いていないが、彼はこの頃にはほぼ毎日のように○○を案じ、彼女の為に何か出来ないか思案するようになっていた。
 この変化の根底にどんな感情が根付いているのか、彼は自覚している。
 自覚し、気付かないフリをする。
 それは一種の自己防衛だろう。

 けれども過去の彼よりも、前を向けていた。



‡‡‡




 オストヴァイス城は、依然重苦しい威圧感を放ちながら聳(そび)える。
 特に懐かしさを覚えるような思い入れもない城に何とも思わないルシアは、それよりも隣の少女に嘆息を繰り返していた。

 ……ガチガチじゃねえか。

 隣には、○○・シェラーニ・ランドルア。女性の身体に合わせた騎士の衣装を身にまとい、その上から防寒用の外套を被った彼女は、青白い顔で城を見上げていた。
 外套の下の晴れ着姿は、最初こそルシアの目を惹いた。
 女性らしさを強調したランドルア家専属のテーラーに作らせた女騎士の正装は豪奢で、ふっくらとした腰のラインを辿り、括れにも沿って隠さない。学園内ではさらしを巻いて小さく見せていた豊満な胸の谷間がうっすらと見える首元を、ざっくりと襟を開いて露わにしている。更には薄かった化粧もしっかりと施され、紅珊瑚のイヤリングまでしている。
 元々整った造作をしているだけに、その変貌は生徒達の度肝を抜いた。

 ルシアやエリクと共にそのままオストヴァイス城へ向かうことになった○○に、前日にランドルア家から正装が送られた。
 ランドルア家次期当主として身形を整えなさいとの母からの指示を受け、彼女は寮からこの姿で現れた。
 あらゆる男が目を奪われたことは、言うまでもない。

 エリクもはしゃいで褒め、船の中彼女のスケッチをしようとしては逃げられていた。

 これで何人が惚れたか分からない――――そう思うと、胸が焼け付くようだった。
 けれど今では緊張の剰りに嘔吐を繰り返し顔面蒼白となった彼女に呆れている。


「……おーい……ランドルア。生きてるか?」

「あの……吐きそうです」

「さっき三度目だったろ!? まだ胃液残ってんのかよ!」

「いや……もしかすると内臓が」

「冗談だな? 冗談に受け取るからな?」


 彼女は至って真面目に言っているが敢えて強く言う。
 ○○は酷い病人顔でルシアを見、口を押さえた。

 ルシアは慌てて掻き分けられた雪の山へ彼女を連れていった。
 嘔吐するが、やはりもう吐く物は身体に残っていないらしい。


「ランドルア。部屋に着いたら一日休めるから、もう少し頑張れ。な?」

「はい……○○・シェラーニ・ランドルア、命を賭して使命を全う致します」

「だから何でお前そんなに大袈裟なんだよ……」


 手触りの良い背中をさすってやりながら、溜息を漏らす。
 船に乗り込むまでは、凛々しい女騎士だったんだがなぁ……。
 それも、男の目を惹くくらいの。

 折角晴れ着姿にばっちり決めたのに、体調不良で話し合いが翌日に延期になるとは。
 多分また私の所為だの何だの、ベッドの中で唸っているんだろう。
 そんな姿が、容易に想像出来る。

 ルシアの助けを借りて、マティアスに与えられた部屋に入った彼女は、ルシアの言葉に従い化粧を落とし、夜着に着替えて大人しくベッドに入った。
 中に入る訳にはいかないから、事情を聞いてマティアスに連れられて様子を見に来た彼女の母親ライシャが部屋に入り、娘の世話をした。今夜は同じ部屋に泊まるそうだ。

 これなら大丈夫だろう。
 ほっとしてマティアスと共に離れようとした時、ライシャに呼び止められた。

 何かと思えば、部屋の中に招かれ、面と向かってソファに座る。

 ライシャは○○とそっくりだった。
 ただ、幼い頃から病弱な身体らしく、娘のような力強い雰囲気は無い。簡単に折れてしまいそうな、儚い美しさを持っていた。
 病弱な割に、前当主も認める剣の腕前であることは、○○も誇りに思っていた。両親に剣を叩き込まれた幼少期が一番幸せだったと、彼女は笑って語っていた。家族の話になると、彼女は笑うことが多い。それだけ大事な存在なのだった。

 叱ると非常に恐ろしいとも聞いていたから、何か言われるのではないかと少しだけ身構えると、ライシャは微笑んで「取って食べたりはしませんよ、ルシア殿下」と茶化した。


「あ……いや……すんません」

「良いんですよ。ですが、わたくしはただ、○○に初めて友達が出来たと、手紙に書いてあった時には、とても驚きました。今まで剣術と勉強ばかりで友達なんて作れたことが無かった、不器用なあの子が……って」


 あの子は、母親も心配になるくらい、真面目すぎて前しか見えていない子なんですよ。
 分かるでしょう? 同意を求められるまでもなく、ルシアは深く頷いた。○○の真面目さは、親の心配の種でもあったらしい。


「疑うことが苦手な子だから、相手が少し心配だったのだけど……それがあなただと書いてあって、本当に安心しました。以降の手紙は、前とは違って嬉しそうで、楽しそうで、皆、心から喜んでおります。ルシア殿下さえよろしければ、どうかこのままあの子と仲良くしてやって下さいまし」


 深々と頭を下げられ、ルシアは慌てて腰を浮かせた。


「い、いや、良いか……んですって!」


 『良いから』と言い掛けて、半端な敬語に無理矢理戻す。
 今まで身分が身分だから、年上に敬語なんてあまり使わなくて良かったけれど、ランドルア家にはどうも敬語を使わなければと思ってしまう。きっと○○の側にいて、ランドルア家がどれだけ苦しい立場に立っているか分かっているからだろう。


「オレは……その、どうも、あいつが放っておけないって言うか……分かってると思うんですけど、ろくに息抜きが出来ない奴だから、」

「ええ。ですから、安心致しました」


 ライシャはゆっくりと頷き、笑みを深めた。
 ベッドの方を見、目を細めた。


「○○はもう少し、人付き合いについて学ばなければなりません。その為には、誰かに教えていただかなければ、気付きも出来ない子です。これから生きていくには、あまりに純粋すぎます」


 このままでは、○○の為にもならないと、母親は言う。
 ただ、やはり○○の美点であることも分かっているから、その声には微かな名残惜しさが滲んでいた。

 ルシアだってそう思うのだから、ライシャだってルシア以上に思っている筈だ。
 だが○○はルナール屈指の大貴族ランドルア家の次期当主。あのように人を疑うことが出来ない、純粋なままでは家を率いることは出来まい。


「マティアス陛下に、○○の夫となる方を見繕って下さるよう、お願いするつもりです」


 ルシアは強い衝撃を受けた。
 心臓が跳ね上がり、息を呑んだ。


「それは……また、どうして」

「ランドルア家はファザーンに絶対服従。その意志を示す為です」


 つまりは政略結婚。
 これは、○○の為でもある。
 一気に咽が渇いた。この部屋はこんなに寒かっただろうか。

 ソファに腰を沈めると、ライシャも「ルナールがあんな馬鹿げたことをしでかさなければ……」と悔しそうに呟いた。

 ランドルア家は当主は男であろうと女であろうと、自らの目で伴侶を選ぶ。身分にすら頓着はせず、皇帝からの指図は決して受け付けない。それが一族の慣習だった。
 長年忠誠を誓い国の守り神のようにも思われていた名家なればこそ許されていたことだ。

 が、しかし。
 ルナールはもう滅びた。
 ルナールと敵対してきたファザーンの下で、ファザーン王に逆らうことは許されない。
 それを形として示す為に、次期当主の伴侶をマティアスの判断に委ねたのだった。

 それは、ランドルア家を守る為に必要なこと。

 ルシアだって、それは分かる。
 何か目に見える形で忠誠が揺るがないことをファザーンの臣下にも示していかなければ、○○の未来も暗い。
 ○○とランドルア家の為を思うのなら、これも一つの手だ。
 マティアスの決めた男と、夫婦に――――それが、ランドルア家に示せる忠誠の証の一つ。

 分かっているのだが、どうにも、不快だった。
 焼け付くような感覚には覚えがある。
 初恋破れて分からない程鈍いつもりはない。

 ただ、それはまだ小さなもので、恋と言うにはあまりにささやかな感情だ。

 まだ育まなければそのうち消える感情だった。
 今のうちに諦めてしまえば良い。

 けれども――――。


「ん……」

「あら……○○。さっき眠ったのに……」

「あ、じゃあオレ、部屋に戻りますよ」

「そうですか? おばさんの話に付き合わせてしまって、申し訳ありません。では、また明日。○○をよろしくお願い致します」


 ルシアは曖昧に頷いて、廊下に出た。



‡‡‡




 一睡も出来なかった。
 ルシアは自室で長々と嘆息する。
 しかも、大変な事態にもなった。

 眠れなかったのは、○○の政略結婚が頭から離れなかったからだ。
 ルシアなりに相手を考えて、それがアルフレートだったり、もしくはマティアスの側妾だったり、臣下の息子だったり……可能性は探せば探す程無限に増えていく。

 その中で、自分が○○の隣に立てば――――なんて考えたこともある。
 今まで気付かないフリをしていた、小さな種火。
 前よりも大きく育ったら、取り上げて、大事にしようとしていた慕情。

 それを、ここで捨てることになろうとは。

 ……女々しすぎるだろオレ!
 沈みかけた思考を怒鳴って持ち直すのも、何度も繰り返した。

 ティアナの時よりはましだ。大事に大事に守ってきた想い程、大きくはない。
 だからここでセーブをかければ、彼女の結婚式でのような醜態を晒すまい。
 ○○の、結婚式でも――――などと想像しようとして、一瞬泣きそうになった。

 蓋をしなければ。
 ○○と自分の為に。

 そう、思っていたのだが。


――――何でオレが○○のエスコート役なんだよ!?


 誰か、心の中でのみ叫んだ自分を褒めて欲しい。
 ルシアは同席出来なかったマティアスとランドルア家の話し合いが持たれたその翌日の夜に舞踏会を開くと、マティアスが言った。
 唐突に聞かされたが、実は城内では前々からランドルア家の為にと準備を進めていたらしい。

 ○○はダンスも出来るようだぞ、と揶揄するように言われ、ルシアは咄嗟に断った。
 政略結婚の話だって持ち出して、自分である必要は無いのだと訴えた。

 だが、マティアスはより面白がって却下。すでにライシャにもそのように伝えてあると言った。ちなみに夫に先立たれたライシャは、マティアスが自らエスコートを申し出た。ここでも、良好な関係をアピールする目的があるのだろうし、ライシャに不満を持つ臣下達を牽制して守る為もあるだろう。

 ならば○○だって、ただ同級だからと言ってルシアにエスコートを任せて良い訳がない。

 そう思いつつ、舞踏会にあわせてドレスアップした○○の手を引いて、広間に入ったルシアは、何度も溜息をつこうとしては踏みとどまった。


「ルシア殿? 如何(いかが)なされましたか」

「いや……って、お前は大丈夫か? また吐くなよ」

「問題ありません。前以(まえもっ)て、いただいた薬を飲んで参りました」

「そうかよ」


 ランドルア家は、騎士でありながらに当主の女性らしさも尊重する。
 正装もそうだったが、今のドレスも、○○の女性の味を強調した艶やかなものだ。
 正装でもドレスでも、普段よりも大人びて見える。

 これで惚れない男がいるだろうか。
 いいや、いない。
 その証拠に、○○に視線が集中しているのが分かる。
 本人もさすがに気付いていて、やや居心地が悪そうだ。
 これは……さすがに踊るのは無理か?

 そう思い、ダンスが始まるのを見計らってバルコニーに連れ出した。

 マティアスがにやにやと見てきたが、徹底的に無視した。


「ほら、ここで喋ってれば、舞踏会も終わるだろ」

「お気遣いいただいて申し訳ありません、ルシア殿」

「オレは元々舞踏会には乗り気じゃなかったからな。いきなり言われたし」


 溜息混じりに言うと、○○も苦笑混じりに同意した。


「自分もです。ダンスはしっかりと学んでおりましたが、殿方といざ実践、となると……自信がありませぬ故。こういう場の空気を学ぶべきだと言われてはいるのですが、華やかすぎる場所は、性に合いません」


 学園の廊下でルシア殿のバイオリンを聴いていた方が、私には丁度良い。
 そう言われ、不覚にもどきりとする。

 ○○は確かにこういった煌びやかな場所は不釣り合いだ。
 姿ではない。性格がだ。
 舞踏会でも嘘と虚構は交錯する。
 見栄を張り、嘲弄する心中を隠して愛想を振りまく。
 だが、次期当主たる○○には、まだ早いとは言ってられない。
 この場には積極的に参加しなければならない。

 本当なら、この舞踏会もバルコニーに逃げてはならなかった。

 けれど、男達の視線を向けられ居たたまれない彼女を放ってはおけなかったのだった。
 広間から早く戻らないかとちらちら視線を寄越す貴族もいる。
 それらに背を向けて、二人は空を見上げた。


「どうする? このままいるか?」

「……そうします」

「寒いんなら何か持ってこさせるけど」

「いえ。この程度の寒さなら、大丈夫です」


 ○○は空を仰ぎ、遠い目をした。
 ルシアは彼女の横顔を見、目を細める。


「母に、婿選びは陛下に一任すると言われました」

「……へ、へえ。お前はそれで良いのか?」

「いえ。密かに猶予を与えると、仰って下さいました」


 猶予は学園を卒業するまで。それまでに自分で伴侶を決められなければ、マティアスが婿を選ぶ。
 そう、ライシャにも内密で言われたらしい。

 ……だからあんなににやにやしてやがったのか。
 これは多分○○ではなくルシアに向けたメッセージだ。今度は失恋してくれるなよ、と。
 ルシアは片手で顔を押さえ、溜息をついた。


「ルシア殿?」

「……で、卒業までにって、誰か宛があるのかよ?」

「宛、ですか」


 私は――――。
 言い止(さ)し、ルシアをじっと見つめてくる。
 ルシアも自然と視線を合わせ、暫し二人は沈黙する。

 ○○の瞳が揺れた。
 その奥に、微かな熱が揺らいでいるように見えるのは、ルシアの勝手な解釈だろうか。それが一種の欲望にも見えるのも――――。

 先に視線を逸らしたのは、○○であった。

 背を向け、明るい声でバルコニーの下を見下ろした。


「ファザーンはやはり、雪深いのですね」

「あ? ああ……昨日の夜は吹雪いてたからな。寒くなかったか?」

「はい。暖房設備がしっかりとしておりましたので。母も体調を崩さずに、舞踏会に出ることが出来ました」


 努めて他愛ない話をしようとしているのが分かる。
 ということは――――さっきのあの目に籠もった熱は。

 ……だと、良いんだけどな。
 こいつ、恋愛事には滅茶苦茶疎いだろうし、自覚があるのかも分からない。
 けれども幾らか軽くなった胸を一度だけ撫で、ルシアは○○を呼んだ。


「ランドルア家は次、カトライア行くんだろ? オレもついてってやるよ。ローゼレット城の案内してやる。時間があるなら、カトライアの街もな。ああ、それまでに日があるんならこっちの案内も出来るな」


 元々は、そのつもりでマティアスに手紙を出したのだ。
 少しでも彼女に溜まった毒が抜けるように。


「よろしいのですか?」

「ああ。何なら観光にお袋さん達も一緒に連れて来いよ」


 笑ってみせると、彼女は嬉しそうに相好を崩して謝辞を述べた。



‡‡‡




「人が悪いな」


 バルコニーの様子を眺めていると、アルフレートが呆れた様子で言った。

 彼もルシアと○○を微笑ましそうに見ている。


「何がだ?」


 マティアスは嘯(うそぶ)いた。


「○○殿の婿の件だ。お前は最初からルシアを推すつもりだろう」


 ○○の婿探しについて猶予を与えたことはアルフレートも知っている。マティアスとアルフレートとで、あの二人の様子を観察していたからだ。
 その結果として、マティアスは密やかに猶予を与えた。

 この猶予は、○○とマティアス、アルフレート、そして恐らくはルシアだけが知る秘密だ。

 誰もが○○の婿はマティアスが選ぶことと思い、彼女に手を出すまい。
 その間に二人が進展すればそれで良し。進展が無くともマティアスがルシアに定める。
 どちらに転んでもルシアであることは変わらない。

 人が悪い。アルフレートはもう一度言った。

 マティアスは何処吹く風だ。


「あれだけ甘ったるい雰囲気を醸(かも)しているんだ、くっつかない方がおかしいだろう」


 顎で示したバルコニーでは、丁度二人が見つめ合っている。
 確かに、一見では恋人のようにも思える。

 ルシアは芽生え始めている感情に気付いているだろうが、○○はどうだろう。マティアスには、無自覚でルシアに好意を向けているように思えてならなかった。
 あの見つめ合いも、○○の方は無意識かも知れない。


「これからは退屈しなさそうだぞ。学園内での二人の様子も、エリクに手紙で報告させることにした。ランドルア家の人間に対する無礼は、王を軽んじる行為と見なす、と臣下にも俺から伝えておく。そうすれば、邪魔な者はいなくなるだろう?」

「……楽しんでいるな?」

「面白いじゃないか」

「素直に喜んでやれば良いものを……」


 アルフレートは吐息を漏らし、バルコニーを見た。

 もう、あの甘い雰囲気は失せている。
 だが自然な笑顔で会話をする異母弟とランドルア家次期当主に、笑みがこぼれた。



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