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※二人の間に子供がいます。


 それは、とても小さな命だった。脆く、触り方を誤れば容易く壊れてしまう。
 無力で守られなければ生きていけないのだと一番分かっているのは、小さな命自身。だからこそ、彼らは――――母親の胎から生まれいでた赤子は、あらゆる生き物に愛される為、他者を魅了する可愛らしい容姿をしている。
 無邪気で愛くるしい姿に、大勢が目を惹きつけられ、あどけなく危なげな仕種が庇護欲を大いに駆り立てられる。

 そうやって、赤子は自ら守りを固める。言い方は悪いが、自分の可能な部分で他者を惹き込み、利用する。

 そのように思うと、赤子は生まれながらに、なんと賢い生き物だろう。
 愛くるしいかんばせ何も知らぬ筈の赤子なりの強い生きる意志を感じて、それが○○には愛おしく、また頼もしく感じられた。同時に、強い使命感が膨れ上がる。
 赤子は、親に、周りに、守られなければならない。でなければ生きていけない。
 その為にこんなにも可愛らしく、脆い身体で生まれいでるのだ。
 戦乱の世に産み落とした親として、自分は赤子を守るその筆頭に立たなければならない。一番に守ってあげられる存在でなければならない。

 嗚呼、親となると言うことは、こういうことなのか……。
 幸せだが、その分重大な責任が肩にのしかかる。
 ○○には初めてのことだった。

 だから、そこには大きな不安があった。
 我が子を見た時に生じた使命感と、己の親としての手腕は必ずしも比例しない。
 私は、未熟な母親。手探りも同然の状況で赤子を守り育て、導いてやらなければならない。

 ……そうだ。この子の父親は、傍にいないのだから、私は父親の役目も担わなければならない。

 嗚呼、私は二人分の重責を背負わなければならないのだわ。
 あの人はもうこの幽州には戻られない。戻ることを、許されていないのだと、公孫越様が仰っていた。
 あの人のことは誰もが触れてはならない禁忌となってしまった。
 だから……私が、頑張らなければ。

 もう昔のような弱い自分ではいられないのだ。
 強く在ろう。

 強く在ろう。

 強く、在ろう――――……。



‡‡‡




「――――大丈夫よ。大丈夫」


 すやすやと眠る赤子を大事に抱え、○○は大きく深呼吸した。
 木に寄りかかり、座り込む。
 漏れた言葉は吾子に向けたものなのか、はたまた己を励ますものであったのか。
 「大丈夫」を繰り返し、○○は空を仰いだ。
 日暮れが近い。そろそろ隠れて一夜を明かせる場所を探さねばなるまい。

 もう、幽州は出られた筈だ。
 後は追っ手を上手くかわして、影響の及ばぬ地域まで逃げおおせれば良い。
 食料はある。うんと節約すれば数日分は保つ。
 必ず、必ず、逃げなければ。
 父が、母が、兄が、義姉が、侍女達が、心を尽くして、危険を冒して逃がしてくれたのだ。絶対に、公孫越様にこの子を殺されてはならない。なるものですか!
 我が子を見下ろし、○○は唇を引き結び大きく頷く。

 事の発端は公孫越の懸念であった。
 生まれたばかりの○○の子、趙統が男児であるとして、後々叛意を持ち、父親に肩入れする人間と手を組むことを恐れて趙統を引き渡すように命が下ったのを、父があしらった為に叛意有りと見なされ母共々斬首された。
 すでに曹操という脅威に晒されていた彼は、些事であろうと見逃せない程に精神が追い詰められていたのだろう。○○の子は、その父親が原因だとして彼の八つ当たりの標的にされた。

 両親を殺されて、当然○○も、双子の兄乾誕(けんたん)夫婦も激怒した。
 されども理性的に物事を考え、表だって叛意を向けず、幽州からの離脱ということで、行動に移した。
 公孫越に対し、良い感情を持たぬ者達が、これに手を貸してくれた。
 曹操へ秘密裏に内通し公孫越を攻めさせ、自らはそのどさくさに紛れて公孫賛と親しかった商人にも手を借りて逃げた。

 まず逃げたのは義姉とその子供達。彼女らは無事、荊州の、協力者の親戚に保護されている。
 その次に、商人の家に匿われていた○○と乾誕だ。
 こちらは同時に、しかし方角はバラバラに逃げることとなった。
 乾誕は公孫越に媚びを売っていた者の追っ手をから○○と趙統を守る為囮となって目を引きつつ、遠回りして荊州へ。
 ○○は義姉と同じ道で荊州へ急ぐ。

 侍女達も勿論ついてきたがった。
 だが、今ではそれは難しい。さすがに人数が多すぎるのだ。
 だから彼女達は一旦協力者それぞれの家に散らばり、ほとぼりが冷めた頃に暇を取って○○のもとへ戻るということで、取り敢えずは宥めた。公孫越の疑惑の目が向けられようが、○○ら家族を罵ってでも無関係であり職を奪われた被害者であることを一貫して主張しろと、強く命令した。忠誠心をさらけ出して命を落とすことこそ、絶対にしてはならない罪と言えば、不承不承ながら受け入れてくれた。

 荊州への道は、遠い。
 更に言えば○○は外の世界には非常に不慣れだ。森を歩いたことすら無い。
 そんな状況でも、短期間で兄に叩き込まれた方角の見極めを賢明に駆使し、必死に南を目指す。

 急がなくても良い。金は沢山ある。食料が無ければ村で金を払って分けて貰えば良い。追っ手と、盗賊には見つからずに、南を目指せ。
 皆で絶対に生き残ろう――――。


「――――生き残りましょう……絶対に」


 私だって、死にたくない。
 この子をみすみす見殺しにするつもりもない。
 私は趙統と――――お兄様達と必ず生き残るの。
 必ず……必ず!

 だって、そうすれば……いつかあの人に再会出来るかもしれないから。

 あの人――――趙統の父親、趙雲。
 猫族と共に徐州へ救援に向かってより幽州に戻れぬまま、時だけが過ぎた。
 我が子の姿すら見ていない彼の安否も分からず、○○にはただただ無事を祈るしか無かった。

 その愛する夫に出逢えるのではないか――――そんな希望が、胸にあった。

 だから、何としても母と子揃って生き延びる。
 確固たる意志が、彼女の心を支えている。
 ○○は、一夜の隠れ家を探さんと足を踏み出した。

 我が子と共に生き残る為。
 そう思えば、如何(いか)に身体が汚れようと、傷つこうと、飢えようと構わなかった。
 自分がこんなに強いとは思わなかった。
 昔は人に会うのが恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなくて、外にも出たことが無かった自分が、今か弱い子供を抱え、頼る人間も無く、一人で赤子を守り生き延びようと決意している。
 きっと、過去の私が見たら、絶対びっくりするでしょうね。
 容易に想像が出来て少しだけおかしかった。

 けれど、笑い声は漏らさず、周囲の気配に気を配ることを忘れない。これも、予(あらかじ)め兄から教えられたことだった。

 周りをしっかり警戒し、ようやっと見つけたのは、大木の、蜘蛛の巣のように広がった太い根の下にぽっかりと空いたうろだ。男一人余裕で入るその場所は、蜂の巣も無く、獣の塒(ねぐら)になっている様子も無い。○○でも余裕で収まる広さだ。

 ○○は土臭いうろに収まり、一夜を明かした。

 日が昇った直後に発った。
 それからひたに歩き、時に趙統に乳を与え、時に下の世話をし、進んだ。

 途中立ち寄った村では気の良い村長夫妻が○○に同情し、高貴な生まれであることを隠せるようにと娘のお下がりと食料をくれたばかりか、荊州までの道を教えてくれた。
 そのお陰で、危険な目にも遭わず、半月を要して何とか義姉とその子供達が避難している新野に無事に至ることが出来た。

 毎日城門に立って待ってくれていた甥達が抱きついてきた時門番がいるにも関わらず大泣きし、それが我が子にも移って、門番と甥達に宥められるという恥ずかしい失態を犯してしまった。けれどそれぐらい、○○は嬉しかったのだ。

 暖かい家屋に入ってすぐ、○○は倒れた。慣れないことを強いた疲労が、その時になって一気に体調に現れたのだ。
 高熱を出し、寝台から起き上がれない日が数日続いた。
 義姉が代わりに赤子の面倒を見、○○の看病もしてくれた。

 甥達は変わらずに城門で父親を待ち、日が暮れると落胆した様子で家に戻ってくる。
 そうした日々を、○○達は数日繰り返した。

 ○○は回復後、趙統を連れて城門に立つこともあったが、昼前には義姉に連れ戻されて休まされてしまう。

 数ヶ月経っても、乾誕はなかなか新野に現れなかった。
 皆で一心に、兄の無事を願う。
 兄が元気でこの新野に現れてくれれば良い――――それだけだった。

 けれども。
 兄がようやっとこちらに合流してくれた時、○○は、自分がかつて無い大泣きをしようとは、夢にも思わなかった。



 兄の隣に、いつか逢えないかと願っていたその人が、いた――――……。