▼露乃様



 妻を大切にしすぎる夏侯淵は……はっきり言って、異常だ。
 それは夏侯淵の素行を知る誰もが思うことである。

 いや、女遊びに過ぎる夏侯淵が落ち着いたことは、喜ぶべきことではあるのだ。

 ただたった一人の女性の為にあまりに豹変した夏侯淵に対し、戸惑いの方が大きかった。
 一体どんな個性の強い女性なのか、楽しみにしていた人間も少なくない。

 が、鍛錬場に姿を現した夏侯淵の妻は病弱で細かい気遣いの出来るだけの、普通の姫君だ。確かに見目は悪くないが……どうも、夏侯淵を劇的に変える程の魅力を感じない。

 きっと、夏侯淵の本能的な部分が彼女の何かに強く惹きつけられたのだろう。
 面白がっていた者達は一様に落胆し、無理矢理にそう結論づけた。

 何にせよ、女遊びが早い時期に収まって良かったと、夏侯惇だけは胸を撫で下ろしている。夏候淵の勉強にも付き合って協力してくれるし、何よりこれで女慣れする為に連れ出されることも無いと、安堵もあった。

 だが、夏候淵を放っておかない人間は、まだ残っていたようで。


「――――でさ、夏侯淵さん。最近どうなの? 奥さんの身体。ここ暫く体調が優れなかったんでしょ?」

「は?」


 わざわざ茶に誘って、にこやかな笑みを浮かべて問いかける郭嘉に、夏侯淵は露骨に嫌そうな顔をした。嫌な予感はしていた。なのに、口車に乗って……。
 何でお前がそんなことを知ってるんだ、キツい眼光に臆面も無く郭嘉はとろけるような微笑みを向ける。


「風邪を引いて寝込んでいたんでしょ? 侍女さんの顔が好みだったから薬差し入れしてあげたんだけど、ちゃんと効いたかなーって」


 侍女から聞いた――――訳がないか。
 ○○から姉のように慕われるお付きの侍女も、妹のように守り可愛がってきた○○にはとんと甘く、彼女の為ならと周りには用心深い。
 過去の自分はさておき、好色そのものを擬人化したような郭嘉に、警戒心を抱かない筈がない。

 ……そこで、ふと、思い出す。
 そう言えばあの侍女は、粉末の薬を余所の家に譲っていたような――――。
 あれが郭嘉の差し入れだったかもしれない。否、十中八九そうだ。

 夏侯淵は郭嘉を横目に睨んだ。
 薬云々の前に、どうして○○の体調不良を知っていたのかが、夏侯淵にとっては問題だった。それを訊ねたのだが、彼は答えない。
 得体の知れない情報源を多々持つ彼のこと、夏侯淵が過敏になって探りを入れても無駄であろう。身内であろうと、情報元を安易に明かすような男ではない。

 「もう熱は下がってる」突っ慳貪に答えた。


「言っておくが、侍女は多分お前から貰った薬など、近所にやってしまったぞ」

「ええ、ひっどいなぁ……奥さんから侍女さんに言っといてよ」

「ふざけるな。あいつは男に興味は無いらしいぞ。死ぬまでオレ達夫婦を支えると言って聞かない」


 それは、本当のことである。
 目に入れても痛くない程に可愛がっていた○○の傍を離れるくらいなら死んだ方がまし。だが死ぬのならばせめて、○○と夏侯淵が、自分がいなくても大丈夫だと思えるようになってからだと言って譲らない。
 だから郭嘉に靡くことは絶対に有り得ない。

 はっきりと言い切ると、郭嘉は唇を尖らせた。


「えー」

「だから諦めることだな。あいつの忠誠心は、オレや兄者の、曹操様に対する忠誠に匹敵するだろう」


 とはいえ、これは贔屓目もあるかもしれない。
 とりつく島も無い夏侯淵を恨めしそうに見ていた郭嘉は、しかしふとにんまりと口角を歪めた。


「で、子供は出来そうなの?」

「……」

「あ、まだなんだ」

「まだ何も言っていないだろう!」

「顔を見れば分かりますって、そんなこと」


 言外に分かりやすいと言われ、夏侯淵は舌を打つ。

 郭嘉は目を細め、彼の様子を眺める。
 これは、見ていて、とても面白い。
 このまま傍観するよりちょっと茶々を入れてどのような波紋が生まれるのか試してみたいと、好奇心が疼(うず)いた。


「ま、病弱だって言うんならそれが無いのは仕方がないし……でもさすがに口付けくらいはしちゃってるんでしょ? 何たって夫婦なんだしー……」


 ……。

 ……。

 ……反応が無い。
 郭嘉は、まさか、と顎を落とした。さすがにこれは、信じられない。

 たっぷりと沈黙を置き、郭嘉は問いかけた。


「すみません、そちら、夏侯淵さんであってます?」

「どういう意味だ!!」

「だって僕の知っている夏侯淵さんとは、まるで違んですもん」


 《あの》夏侯淵なのに。
 ……《あの》夏侯淵なのに!
 なん……って面白いんだ!
 こみ上げる笑いを咽元で堪え、郭嘉は顔を真っ赤にして言い訳らしき言葉をぶつぶつ呟く夏侯淵を眺める。

 夏侯淵が病弱な妻を娶ってだいぶ経つ。
 それなのに、子作りならまだしも、郭嘉なら一夜限りの女にすら簡単に出来る口付けもしていないなんて、夏侯淵にしては奥手すぎる。
 それだけ臆病になっていると思うと、夏侯淵が如何に妻に本気か分かる。が、彼らしくない。全く彼らしくない。嗚呼、笑いがまた出そうになって困る。

 これは、もっと楽しもう――――ではなく、夫婦円満になれるよう協力してやろう。

 郭嘉はにんまりと、愉しげに笑った。



‡‡‡




 ○○は、体調が良い時は鍛錬場に顔を出すようになった。
 兵士達と共に汗水垂らす夏侯淵の雄姿をとても嬉しそうに飽きもせずに見つめ、侍女と談笑して鍛錬が終わる頃には夏侯淵に送られて屋敷に帰る。
 数はそれ程多くないし、鍛錬の邪魔もしない彼女らを、曹操も夏侯惇も、特に咎めはしない。ただ、とんと奥手な夏侯淵に異様なものを見るような目を向ける時はある。過去の素行は取り消せぬ故、それは無理からぬことである。

 空の雲行きが怪しいと体調も良くないことが多い○○が、今日に限っては珍しく調子が良かったらしく、鍛錬場に現れた。

 妻の観覧にいち早く気付いた夏侯淵は分かりやすいくらいに鍛錬に身が入る。兵士達が彼の変化で彼女の到来を察知した。

 ○○は喜々として夏侯淵だけを見つめた。
 侍女は主を冷やかす不届き者がいないか、にこやかに目を光らせる。
 この侍女、すでに郭嘉の存在に気付いている。だから、さり気なく郭嘉の死角になる場所へ○○を連れて行った。本当に、しっかりした侍女である。加えて非常に見目が良いから、落として遊んでみたくなる。

 だが郭嘉の本日の目的は夏侯淵夫妻である。遊び――――ではなく、円満家庭になる為のちょっとした助力だ。
 鍛錬に区切りをつけて早速○○に駆け寄る夏侯淵にこっそり、素早く接近し、後ろから○○の側を通りかかるフリをした。またさり気なく侍女が○○の身体を引くのも計算済み。それに従い夏侯淵が警戒を抱くのも。


「こんにちは、お姉さん。この間あげた薬、効いたでしょ?」

「申し訳ありません。症状が一致しませんでしたので、他の方にお譲り致しました」

「そっかー、それはごめんね? じゃあまた今度ゆっくりお茶でもどう?」

「主の側を離れる訳には参りませんので」


 やはりとりつく島もない。にこりもしない。向けられるのは濃密な嫌悪のみだ。
 しかし、郭嘉は今はそれでも構わない。

 侍女狙いだと一瞬警戒を弛めた夏侯淵に肩をすくめて見せ、すれ違いざま――――。


「あー、足が滑っちゃったー」

「どわぁぁ!?」

「なっ!?」

「きゃっ!」


 足を引っかけてやった。さすがにこちらの脛が痛かった。

 だが、面白いくらいに、郭嘉の計画通りに物事は進んだ。
 武人のくせに軍師の足に呆気なく引っかかって夏侯淵は前に倒れる。
 そこにいるのは○○だ。

 彼女も夫を支えようと前に踏み出すも、小柄で病弱な彼女が男を受け止められる筈もない。侍女が後ろを追いかけて背中を支えてやった。

 まさかここまで綺麗に計画にぴったりはまってくれるとは!
 郭嘉は、見事なまでに思い通りの結果になって思わず噴き出した。


 倒れ込んだ夏侯淵は、○○と唇を触れ合わせている。倒れなくて済んでいるのは、夏侯淵が踏ん張っているのと、侍女が○○の背中を支えているからだ。

 夏侯淵は即座に離れた。


「――――っな、わ、わ悪い!! ○○!」

「いいえ。夏侯淵様。大丈夫でしたか?」

「いや、オレは……っ!」


 狼狽えている。
 夏侯淵がたかだか事故の口付けでとっても狼狽えている!
 それに比べて○○はとっても冷静に、夏侯淵の怪我の心配をしているではないか!
 夏侯淵は顔が真っ赤になって謝罪を繰り返す。
 ○○は心配そうに夫の顔を覗き込んでいる。

 郭嘉は侍女の非難の眼光を受け流し、笑い声を上げた。

 おろおろする○○に歩み寄り、侍女の静かな牽制に逆らわずある程度距離を保って揶揄(やゆ)した。


「事故とは言え、口付けしてしちゃいましたね」

「え……あ、まあ……本当に。言われてみれば……」


 郭嘉に指摘されて、ようやっと理解したようだ。あれ程しっかり重ねていて、何故気付かなかったのか疑問だが。
 ○○は唇を押さえ、ほんのり頬を赤らめた。
 けれど、それでも夏侯淵のように狼狽したりはしないのだ。これは、ちょっと意外である。


「あれ、もしかしてご不満?」

「いいえ。ちっとも。……ただ、とても驚きました」

「驚いた? 一体何に?」


 問いかけると、○○はふにゃりと、甘ったるくとろけるような笑みを浮かべるのだ。


「殿方の唇は、とても熱いのですね。私、初めて知りました」


 それは、とても嬉しげで、恥ずかしそうで、愛おしそうで。

 彼女の自然な笑顔を見て郭嘉はなるほど、と思った。
 夏侯淵が惚れたのは、きっとこの笑顔かもしれない。
 確かにこの子のこの笑顔は、可愛い。魅力がある。郭嘉も、そう思えてしまう。

 そしてこれを己の手で壊してしまうことの怖さも、ほんの少しは理解出来そうな気が、しないでもない。まあ、気がするかもしれないだけで自分が実際にそんな感情を抱くことは、一生無いのだろうけれど。


「そっか。おめでとう。少しは夫婦らしくなったんじゃないかな」

「そうであると嬉しいです。ありがとうございます。……あ、そちらは、大丈夫でしたか?」

「ああ、大丈夫大丈夫……」


 郭嘉がちょっかいを出したことを恨みも咎めもせず、○○は本当に嬉しそうに礼まで言う。というかこの様子では、あんなにあからさまなのに、本当に郭嘉の足が滑っての事故だと信じ込んでしまったかもしれない。
 こんな……危険なくらいに純真な子、見たこと無い。
 これは、侍女も夏侯淵も大事にしたがる筈だ。

 純粋さで己を殺してしまうかもしれない、○○はそんな娘だ。


「……苦労するんじゃない?」

「いい加減、奥様から離れて下さいませんこと?」

「えー、この距離でも駄目なんだ」


 侍女に何とはなしに問いかけると、にっこりと刺々しい拒絶をいただいた。

 更に。


「郭嘉ぁぁ……っ!!」

「あ、やっばい。それじゃ、奥さん、お幸せに! ついでに旦那様も宥めておいてね!」

「はい、ご機嫌よう」

「逃がすか! 待て郭嘉!!」


 旦那様も宥めておいてねって言ったのに!
 夏侯淵は○○を侍女に任せ、逃げ出した郭嘉を剣を抜いて追いかけた。

 呆れた風情で見守る夏侯惇に助けを求めてみたが、自業自得だとばっさりだった。


 結局この後、○○が体調を崩して助かったのだけれど。



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