▼時計屋様
※二人の間に子供がいます。


 それは、とても小さな命だった。脆く、触り方を誤れば容易く壊れてしまう。
 無力で守られなければ生きていけないのだと一番分かっているのは、小さな命自身。だからこそ、彼らは――――母親の胎から生まれいでた赤子は、あらゆる生き物に愛される為、他者を魅了する可愛らしい容姿をしている。
 無邪気で愛くるしい姿に、大勢が目を惹きつけられ、あどけなく危なげな仕種が庇護欲を大いに駆り立てられる。

 そうやって、赤子は自ら守りを固める。言い方は悪いが、自分の可能な部分で他者を惹き込み、利用する。

 そのように思うと、赤子は生まれながらに、なんと賢い生き物だろう。
 愛くるしいかんばせ何も知らぬ筈の赤子なりの強い生きる意志を感じて、それが○○には愛おしく、また頼もしく感じられた。同時に、強い使命感が膨れ上がる。
 赤子は、親に、周りに、守られなければならない。でなければ生きていけない。
 その為にこんなにも可愛らしく、脆い身体で生まれいでるのだ。
 戦乱の世に産み落とした親として、自分は赤子を守るその筆頭に立たなければならない。一番に守ってあげられる存在でなければならない。

 嗚呼、親となると言うことは、こういうことなのか……。
 幸せだが、その分重大な責任が肩にのしかかる。
 ○○には初めてのことだった。

 だから、そこには大きな不安があった。
 我が子を見た時に生じた使命感と、己の親としての手腕は必ずしも比例しない。
 私は、未熟な母親。手探りも同然の状況で赤子を守り育て、導いてやらなければならない。

 ……そうだ。この子の父親は、傍にいないのだから、私は父親の役目も担わなければならない。

 嗚呼、私は二人分の重責を背負わなければならないのだわ。
 あの人はもうこの幽州には戻られない。戻ることを、許されていないのだと、公孫越様が仰っていた。
 あの人のことは誰もが触れてはならない禁忌となってしまった。
 だから……私が、頑張らなければ。

 もう昔のような弱い自分ではいられないのだ。
 強く在ろう。

 強く在ろう。

 強く、在ろう――――……。



‡‡‡




「――――大丈夫よ。大丈夫」


 すやすやと眠る赤子を大事に抱え、○○は大きく深呼吸した。
 木に寄りかかり、座り込む。
 漏れた言葉は吾子に向けたものなのか、はたまた己を励ますものであったのか。
 「大丈夫」を繰り返し、○○は空を仰いだ。
 日暮れが近い。そろそろ隠れて一夜を明かせる場所を探さねばなるまい。

 もう、幽州は出られた筈だ。
 後は追っ手を上手くかわして、影響の及ばぬ地域まで逃げおおせれば良い。
 食料はある。うんと節約すれば数日分は保つ。
 必ず、必ず、逃げなければ。
 父が、母が、兄が、義姉が、侍女達が、心を尽くして、危険を冒して逃がしてくれたのだ。絶対に、公孫越様にこの子を殺されてはならない。なるものですか!
 我が子を見下ろし、○○は唇を引き結び大きく頷く。

 事の発端は公孫越の懸念であった。
 生まれたばかりの○○の子、趙統が男児であるとして、後々叛意を持ち、父親に肩入れする人間と手を組むことを恐れて趙統を引き渡すように命が下ったのを、父があしらった為に叛意有りと見なされ母共々斬首された。
 すでに曹操という脅威に晒されていた彼は、些事であろうと見逃せない程に精神が追い詰められていたのだろう。○○の子は、その父親が原因だとして彼の八つ当たりの標的にされた。

 両親を殺されて、当然○○も、双子の兄乾誕(けんたん)夫婦も激怒した。
 されども理性的に物事を考え、表だって叛意を向けず、幽州からの離脱ということで、行動に移した。
 公孫越に対し、良い感情を持たぬ者達が、これに手を貸してくれた。
 曹操へ秘密裏に内通し公孫越を攻めさせ、自らはそのどさくさに紛れて公孫賛と親しかった商人にも手を借りて逃げた。

 まず逃げたのは義姉とその子供達。彼女らは無事、荊州の、協力者の親戚に保護されている。
 その次に、商人の家に匿われていた○○と乾誕だ。
 こちらは同時に、しかし方角はバラバラに逃げることとなった。
 乾誕は公孫越に媚びを売っていた者の追っ手をから○○と趙統を守る為囮となって目を引きつつ、遠回りして荊州へ。
 ○○は義姉と同じ道で荊州へ急ぐ。

 侍女達も勿論ついてきたがった。
 だが、今ではそれは難しい。さすがに人数が多すぎるのだ。
 だから彼女達は一旦協力者それぞれの家に散らばり、ほとぼりが冷めた頃に暇を取って○○のもとへ戻るということで、取り敢えずは宥めた。公孫越の疑惑の目が向けられようが、○○ら家族を罵ってでも無関係であり職を奪われた被害者であることを一貫して主張しろと、強く命令した。忠誠心をさらけ出して命を落とすことこそ、絶対にしてはならない罪と言えば、不承不承ながら受け入れてくれた。

 荊州への道は、遠い。
 更に言えば○○は外の世界には非常に不慣れだ。森を歩いたことすら無い。
 そんな状況でも、短期間で兄に叩き込まれた方角の見極めを賢明に駆使し、必死に南を目指す。

 急がなくても良い。金は沢山ある。食料が無ければ村で金を払って分けて貰えば良い。追っ手と、盗賊には見つからずに、南を目指せ。
 皆で絶対に生き残ろう――――。


「――――生き残りましょう……絶対に」


 私だって、死にたくない。
 この子をみすみす見殺しにするつもりもない。
 私は趙統と――――お兄様達と必ず生き残るの。
 必ず……必ず!

 だって、そうすれば……いつかあの人に再会出来るかもしれないから。

 あの人――――趙統の父親、趙雲。
 猫族と共に徐州へ救援に向かってより幽州に戻れぬまま、時だけが過ぎた。
 我が子の姿すら見ていない彼の安否も分からず、○○にはただただ無事を祈るしか無かった。

 その愛する夫に出逢えるのではないか――――そんな希望が、胸にあった。

 だから、何としても母と子揃って生き延びる。
 確固たる意志が、彼女の心を支えている。
 ○○は、一夜の隠れ家を探さんと足を踏み出した。

 我が子と共に生き残る為。
 そう思えば、如何(いか)に身体が汚れようと、傷つこうと、飢えようと構わなかった。
 自分がこんなに強いとは思わなかった。
 昔は人に会うのが恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなくて、外にも出たことが無かった自分が、今か弱い子供を抱え、頼る人間も無く、一人で赤子を守り生き延びようと決意している。
 きっと、過去の私が見たら、絶対びっくりするでしょうね。
 容易に想像が出来て少しだけおかしかった。

 けれど、笑い声は漏らさず、周囲の気配に気を配ることを忘れない。これも、予(あらかじ)め兄から教えられたことだった。

 周りをしっかり警戒し、ようやっと見つけたのは、大木の、蜘蛛の巣のように広がった太い根の下にぽっかりと空いたうろだ。男一人余裕で入るその場所は、蜂の巣も無く、獣の塒(ねぐら)になっている様子も無い。○○でも余裕で収まる広さだ。

 ○○は土臭いうろに収まり、一夜を明かした。

 日が昇った直後に発った。
 それからひたに歩き、時に趙統に乳を与え、時に下の世話をし、進んだ。

 途中立ち寄った村では気の良い村長夫妻が○○に同情し、高貴な生まれであることを隠せるようにと娘のお下がりと食料をくれたばかりか、荊州までの道を教えてくれた。
 そのお陰で、危険な目にも遭わず、半月を要して何とか義姉とその子供達が避難している新野に無事に至ることが出来た。

 毎日城門に立って待ってくれていた甥達が抱きついてきた時門番がいるにも関わらず大泣きし、それが我が子にも移って、門番と甥達に宥められるという恥ずかしい失態を犯してしまった。けれどそれぐらい、○○は嬉しかったのだ。

 暖かい家屋に入ってすぐ、○○は倒れた。慣れないことを強いた疲労が、その時になって一気に体調に現れたのだ。
 高熱を出し、寝台から起き上がれない日が数日続いた。
 義姉が代わりに赤子の面倒を見、○○の看病もしてくれた。

 甥達は変わらずに城門で父親を待ち、日が暮れると落胆した様子で家に戻ってくる。
 そうした日々を、○○達は数日繰り返した。

 ○○は回復後、趙統を連れて城門に立つこともあったが、昼前には義姉に連れ戻されて休まされてしまう。

 数ヶ月経っても、乾誕はなかなか新野に現れなかった。
 皆で一心に、兄の無事を願う。
 兄が元気でこの新野に現れてくれれば良い――――それだけだった。

 けれども。
 兄がようやっとこちらに合流してくれた時、○○は、自分がかつて無い大泣きをしようとは、夢にも思わなかった。



 兄の隣に、いつか逢えないかと願っていたその人が、いた――――……。



‡‡‡




 赤ん坊の泣き声よりももっともっと醜い声で泣いた。
 また城門で年甲斐もなくわんわん泣いて、やっぱり我が子もわんわん泣いて、父親と再会を果たした甥達もわんわん泣いて――――兄も義姉も、新野に到着したばかりの猫族も、相当困り果てていた。

 ただ、彼は……彼だけは、○○と我が子を抱き締めて、背中を撫でていてくれた。無理に宥めようとはせずに思う存分泣かせてくれた。


「取り敢えず、お前達……大人数の前だからな?」

「良いじゃないか。お前も、同じくらい喜んでいるのだから」

「お前達程じゃない」


 乾誕は○○の頭を撫で、妻と笑みを交わす。末子を抱き上げた。


「ひとまず、趙雲。お前はそのまま○○達を連れて猫族と行け。俺達も、後からそっちに行く。挨拶やら荷物やら何やらあるからな」

「良いのか。一日くらいは、身体を休めた方が……」

「多分、あれこれするうちに一日は経ってる。夜眠れればそれで十分さ」


 肩をすくめ、彼は家族と共に城門の奥へ。
 ○○も手伝おうとして、趙雲に腕を掴まれた。


「折角の家族の時間だ」


 ……なるほど、そういうことか。
 乾誕は気を利かせてお互いの家族の時間を作ってくれたのだ。
 涙も止まった○○は趙雲に目尻をそっと拭われ、はっと我が子を趙雲に差し出した。


「あなたの子供です。名は趙統と、お父様が名付けて下さいました」

「ああ」


 趙雲は微笑み、趙統をそっと受け取った。
 すると、興味本位からか数人の若い猫族が脇から覗き込んでくる。「小さ……」そんな感想が聞こえた。

 趙雲が軽く揺すると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった赤子の顔は、ふにゃりと笑みを浮かべる。高い笑声が上がった。
 趙雲の笑みが一層深まっていく。
 彼は一旦○○の腕に趙統を戻すと、またそっと抱き締めた。


「……ありがとう。○○」

「はい」


 生きていて、良かった。
 ○○は心から、そう思った。



‡‡‡




 猫族は博望坡に居を構えた。
 猫族からの厚意で、○○と趙雲は広めの家屋を与えられ、懐かしい、夫婦としての暮らしを取り戻す。
 兄夫婦も、その隣に、わざわざ新しい家を建ててくれた。今では甥達は猫族の子供達と一緒に遊んで怪我を作ってくる毎日だ。

 ○○は、外の子供達の歓声を聞きながら、趙雲が我が子を抱いてあやしている姿を見て、改めて生きていると実感出来た。
 私は生きている。趙統と生き延びて、ここにいる。
 そして愛した人が、目の前にいる。目の前でようやっと我が子を抱いている。
 趙統も、父親を本能的に分かっているのだろう。逞(たくま)しい腕の中ですやすやと眠っている。

 きっとこの先、これ程の幸せは無いだろう。
 幸せを噛み締めていると、また泣いてしまいそうだった。

 涙腺が熱くなりかけて、慌てて目頭を揉む。

 妻の様子に気が付いた趙雲が、趙統を揺り籠に寝かせて○○を呼ぶ。
 近付くと、腰に腕を回され立ったまま、座った趙雲に抱き寄せられた。自然趙雲の額が鳩尾に当たる。


「あなた……?」

「……幽州に戻れなくなってから、ずっと、妊娠したばかりだったお前のことが気がかりだった」


 勿論、乾誕や両親のことは気にならなかったワケではない。趙雲はそう付け加えた。
 それは、○○も考えるまでもなく分かることだった。

 両親も兄も、○○より公孫越との駆け引きには長けている。だから、彼らよりも○○が心配されるのは当たり前のことだった。
 だからこそ、趙雲にとっては、両親が公孫越に斬首されたことは、衝撃的だっただろう。


「だからこそ、義理の父母の無事を願わなかったことが悔やまれる」

「いえ……両親も、命を捨てるつもりで、趙統を守って下さったのだと思います。ですから、私は両親の死を無駄にしないように、生き延びて、こうしてあなたに再び出逢えることが出来て……本当にようございました」

「ああ……本当に、良かった」


 良かった――――心底からの呟きが、繰り返される。
 嗚呼、幸せだと、○○はまた思う。
 きっとこれはこれからも何度も何度も思うのだろう。噛み締めるのだろう。
 良かった……本当に。

 また、目頭が熱くなった。
 すると、趙雲は立ち上がって○○を抱き締める。優しく、頭を撫でてくれた。

 その感触は、ずっとずっと欲しかったものだ。
 だから、とても嬉しい。


「趙雲様、どうかこれからはずっと、お傍に置いて下さいまし」


 もう二度と、離れたくはないのです。
 昔の自分なら、決して言えなかった素直な願いだ。
 さらりとこぼれてしまうのは、昔と変わっているというのもあるし、それだけ淋しく心細かったのだ。
 だから、もう二度とあんな気持ちを味わいたくないし、趙統にも、味わわせたくない。

 趙統は男の子だ。だから母親だけではなく、父親の力が必要になる場面が必ず来る。その時に趙雲がいなければ……○○に父親の代わりが出来るとは思えない。

 そんな、母親としての不安も、趙雲には伝わったのだろう。
 趙雲の腕に力が更にこもる。


「二度と、放さない」


 自分が望んだ大切な家族を二度も放せる筈がない。
 その力強い答えに、自分が思う以上に、深い安堵を得た。

 大丈夫。
 もう、大丈夫。
 今の私なら、大丈夫。
 ○○の奥深く、穏やかに、優しく語りかけてくるモノがある。
 それは○○の知らない○○を把握している存在だ――――そう思うのは、さすがに都合が良いだろうか。

 でもそんな風に思えばこそ、○○は信じることが出来た。無駄な疑いを持つことはしなかった。
 家族の、幸せな未来を。

 だから、噛み締める。
 夫の温もりを、幸せの一つの証であると。

 小さな、笑い声が聞こえる。
 それは揺り籠の中の、趙統のもの。
 覗き込んだ彼もまた、とても嬉しそうに、幸せそうに笑っている――――……。



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