▼葵様



 彼女を目の前に見た時、賈栩は興味が湧いた。他者に関心の無い彼が、だ。初めてのことやもしれぬ。

 その女が夏侯惇が執拗に狙う狐狸一族の女であることは一目で分かった。
 女性にしては高身長のすらりとした体躯、その肌理(きめ)細かいなめらかな肌を惜しみ無く際疾(きわど)い部分まで曝す装束は珍しいし、人間の物とは違う、こめかみから存在を主張するように突き出した獣の耳が明らかに人でないことを如実に表す。

 凛とした顔に感情は無く、成功に作られた等身大の人形のようだった。

 その彼女に、賈栩は自分でも不思議なくらいに関心を寄せた。
 今城内は騒々しい。私室の中でそれを無関心に聞き流していたが、どうやらこの女が騒動の元らしかった。部屋を出た直後にかち合ったので賈栩は丸腰。いや、元々軍師である賈栩は武術を会得してはいない。仮に戦えたとしても、狐狸一族の女に敵うとも思えなかった。

 こちらが動きを見せたその瞬間にも、彼女は攻撃を仕掛けるだろう。ただ佇んでいるだけであっても、それくらいの察しは付いた。
 では、このまま彼女を見逃すのか。

 ……それは、とても惜しい気がした。
 賈栩は顎を撫で、兵士達の足音が響く東へ続く廊下を見やった。
 暫し考え、背を向ける。


「入ると良い。隠れる場所くらいはある」


 扉を開けて狐狸一族の女に中を示して見せる。
 女は当然猜疑の眼差しを向けてきた。その感情の初めて映った青い瞳を見返し、賈栩は肩をすくめる。


「夏侯惇に捕まりたいと言うのなら、止めはしないよ」

「……」


 女は一瞬東へ視線を向けた。警戒する鋭い視線の中に、今度はほんの僅かな怯えを見せる。
 ああ、狐狸一族も人間らしい感情は持ち合わせているのか。

 何故だろう。別の感情も見てみたい。そう、心の片隅で思う。
 こんなことは初めてだ。相手がお伽噺の存在だった筈の、神の一族だからだろうか。
 姿を改めて眺め回していると女は小さく「失礼します」と断って中に入った。

 それ程迷わなかった彼女に賈栩は少し面食らいながらも扉を閉める。声が少し近くなったのに、無言で長櫃(ながひつ)を指差した。
 女はそれで賈栩の指示を察したようだ。警戒をしながらも長櫃の中に身体を潜ませた。

 長櫃の締めてやり、賈栩は今までいた場所に座す。書簡を手に取り読み進める。

 それから暫くして、兵士達は慌ただしく賈栩の部屋の近くまで至る。扉の前で立ち止まって声をかけた。

 書簡から目を離さぬままに応(いら)えを返すと、扉が静かに開かれる。


「賈栩様。こちらに獣の耳を持った女が来ませんでしたか」

「獣の耳……十三支でも侵入したのかい」

「いいえ。狐狸一族の女です。どうやらこちらの動向を探りに侵入したようです。夏侯惇様が気付かなければ機密を持ち出されるところでした」

「ああ、だからこんなにも騒々しいのか。……だが、残念だがこの通りずっと部屋の中にいたのでね」


 書簡を見せつけると、兵士は疑う素振りも無く頷き部屋を足早に辞した。
 足音が遠退いても長櫃の蓋は動かない。

 それからまた暫くして、ようやっと女は長櫃から出てきた。乱れた衣服を軽く撫でつけて整えながら賈栩をじっと凝視する。


「……」

「おや、感謝の言葉は無いのかな。俺はあんたの恩人になると思うのだけれど」


 女は隻眼を細める。


「……感謝はしています。ですがあなたは曹操の配下。疑うのは当然です」


 今度ははっきりと、見た目に似合う凛として静かな声が鼓膜を震わせた。
 清廉な水を思わせる声質だ――――と思い、己の思考に疑問を抱く。
 随分と情緒的な感想だ。まさか、そんなことを思う日が来ようとは。
 一体どうしたのかと己自身に僅かな戸惑いを抱きつつ、賈栩は女に歩み寄った。正面に立って、改めてその姿を眺め回す。

 手を伸ばせば女は眉間に皺を寄せて一歩後退した。が、踵が長櫃に当たってそれ以上は退がれない。
 賈栩はその隙に耳に触れた。

 瞬間、びくびくと耳が痙攣し彼女は首をすくめる。どうやら耳は敏感のようだ。


「人間の皮膚から徐々に体毛が生え、獣の耳の感触に変わっている……中も獣の構造なのか――――」

「ん……っ」


 中を指先でつ、と撫でた瞬間女が目を瞑って掠れた声を漏らす。鳥肌が立っていた。


「ああ、これは失礼。人間の頭部に獣の耳が生えているというのは本当に不思議でね。十三支は毛髪と耳の毛は一緒になっているようだが、狐狸一族は肌から直接生えている。それも、人間の耳に該当する場所だ」

「……っ、あの、あまり耳の中を揉まないでいただきたいのですが」


 ただ感触を確かめていただけだったのだが、手を掴んで少し乱暴に剥がされる。
 興味の対象にしか見られていないと分かったのだろう。さっきよりも困惑の色が濃い。瞳がゆらゆらと揺れている。敵である賈栩への対処に困っている様子だった。


「あなたは……何を考えているんです? 予想とは違うことばかりをするので、あなたの思考が推し量れません」


 賈栩はふむ、と女を見下ろした。


「何を、と問われてもこちらも答えようが無い。……ただ、狐狸一族だからだろうが、珍しく興味を持ってはいるね。あんたを知りたい」

「……はあ」


 解せぬ、とでも言いたげに顔を歪める。調子を崩されているのだ、段々と表情が現れてくる。それが、賈栩には面白く感じられた。

 じっと見つめていると、女の表情は感情の色を濃くしていく。


「……敵、ですよね」

「ああ。敵だね」


 困惑を極めて確認までしてきた。
 賈栩は小さく笑った。


「こうして曹操様の城にいるのだから、俺は歴とした曹操軍の人間だよ。と言っても、この間までは曹操様の敵だったのだけれどね」

「……はあ……は?」

「寝返ったのさ」


 もっと困惑すればどうなるのか。
 興味本位で揺さぶってみる。
 女は首を傾けた。


「元々敵対していたのに……今は曹操の配下に?」

「狐狸一族のお嬢さんには、受け入れ難いことかな?」

「いえ、そういう訳ではないのですが……あの、その『狐狸一族のお嬢さん』と言うのは止めて下さい」

「だが俺はあんたの名前を知らない」

「……、……幽谷です」

「俺は賈栩。よろしく、幽谷」


 ぐにゃり、ぐにゃり。
 理解し難い事態に幽谷の顔は歪んでいく。人間らしく、困惑に歪む。


「名前を呼んで欲しかったのではなく……」

「ただ、外部を通りかかった人間に気付かれたくないから、だろう? 心配しなくても暫くは来ないさ」

「……」


 彼女は本当に面白い。
 けれどもどうして彼女にこんなにも関心があるのか自分でも分からない。
 神の一族だからだろうか。それとも、別の理由があるのか――――。
 思案に没頭しかけた意識を引き戻したのは幽谷の怪訝そうな声だ。


「賈栩殿……何か」

「いや、どうしてあんたにこんなにも興味が湧くのか気になっただけさ」

「はあ……」


 幽谷は賈栩を見つめ、


「私にはあなたのことは理解出来そうにありません」


 あなたは訳が分からない。
 はっきりと断じた。

 賈栩は深いに思うことも無く苦笑を滲ませる。


「別にあんたがどう思うと気にはしないよ。ただ、俺があんたを知りたいだけだ」

「……私を知りたいと言われましても、敵に情報を与えることはしませ――――」


――――その時である。
 兵士達が、またこちらに戻ってきた。

 しつこい……いや、それは兵士ではなく夏侯惇か。
 夏侯惇が賈栩の部屋を訪れるのも可能性がない訳ではない。これではおちおち会話も出来やしないではないか。
 賈栩は肩をすくめ、窓に歩み寄った。

 下を見下ろし、特にしつこく追いかけ回すだろう夏侯惇の姿が周囲に無いことを確認、幽谷に窓から逃げるように無言で指示した。

 幽谷は依然困惑顔だ。賈栩がすんなりと自分を逃がすのがどうしても解せないのだろう。

 だが賈栩もまた、分からない。ただただ強い興味を抱いた彼女を夏侯惇にみすみす渡すのがほんの少し不快に感じただけだ。
 どうして、こんな風に思うのだろうか。
 また思案に耽(ふけ)りそうになったのを、目の前をよぎった影にまた引き戻す。

 幽谷だ。

 窓の桟に足をかけ、軽々と飛び降りる。
 賈栩に何の言葉も無く――――。


――――否。


 彼女は着地するなり賈栩を見上げ、複雑そうな顔で拱手(きょうしゅ)した。
 そのまま、走り去る。幽谷の姿に気付いた兵士達が大勢で追尾する。それでも、彼女の健脚は急速に彼らを引き離していく。

 賈栩は窓に腰掛け、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。

 その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。



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