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『これ、美味しいからあなたに食べて欲しい』
そう言って、彼女は俺に菓子を差し出した。‡‡‡
蔡剛は苛立った。
不覚をとって自分よりも弱いガキに気絶させられたこともそうだが、この世で最も憎い男の妻と勘違いされたばかりか、この世で最も愛した女性を傷つけられたことに、だ。
賈栩や十三支が○○を迎えに行くのだって、気に食わなかった。あんな男よりも自分が行きたかった。
けれども周りは皆蔡剛を見た目通りに受け取り、ここに残しておいた方が安全だと勝手に判断した。何とも憎らしいことだった。
○○に笑顔を向ける者達全てが気に食わない。
特に賈栩が一番憎々しい。
○○は、あの日から蔡剛の全てだった。
だから彼女には安全な場所で、幸せに生きていて欲しい。その為なら何だってする。彼女が死ぬことあらば、我が命も絶つ覚悟だ。
そんなかけがえのない存在を、賈栩に渡したくなかった。
あいつに、昔の俺に近いものを感じたから。
人間らしい感覚を持っていない。ただ知識としてあるだけで決してそのように心は動かない。
よしや、○○の影響で彼に人らしい感覚が芽生えたとしよう。
だが、それだけではないか。
何処かでその成長が止まらないとどうして断言出来る?
俺は知っている。
人間としての感覚を持たない欠陥品が、何かの拍子にそれを得始めたとしても、また何かの拍子に簡単に失ってしまうのだ。
人間にとって当たり前のことが、俺達のような欠陥品にはこと馴染みにくい。人間の感覚を取り戻すのではない。本来無いものを無理矢理取り込まなければならないのだ。
蔡剛は、賈栩よりも酷い欠陥品だった。
けれどもそんな蔡剛でも、今、《人としての感覚》を持っている。
最初のきっかけは、一人の娘。
二番目のきっかけは、○○。
最初に芽生えた感覚は一度失われ、○○によって再び、急速に花開いた。
蔡剛自身、運が良かったとしか言いようが無い。
だからこそ、賈栩に自分と同じようなことが起こるとは思えない。
賈栩が○○に惹かれているのは事実だ。
表情を作れる賈栩が完全な無だった蔡剛よりましであったとしても、その変化が止まらずに続くと、誰に断言出来る?
仮に断言する者がいても、ただの夢想に過ぎないと、蔡剛は嘲笑うだろう────。
……じゃり、と下方から聞こえた音に意識は急浮上する。
思考を邪魔された蔡剛は舌を打ち、伏せていた目をゆっくりと開いた。
彼がいるのは、屋根の上だ。その下は愛しい主人の部屋になっている。
下方にいる人物は、蔡剛に悟らせる為わざと音を立てた。
蔡剛は忌々しそうに顔を歪め屋根から軽々と飛び降りた。
「○○様は就寝中だ。そうじゃなくても近付けさせねえがな」
賈栩は肩をすくめた。蔡剛をじっと見据え、
「凶神、蔡剛」
ぼそりと呟いた。
蔡剛は目を細めた。
凶神────懐かしい響きである。
よもや、今になってその名を懐かしむことがあろうとは思いも寄らなかった。
誰が、いつからそう呼ぶようになったのかは分からない。当時、興味を持つような状態ではなかった。
ただ与えられた仕事を確実にこなしていくだけ。過去の蔡剛は、ただ当主の指示通りに動く傀儡に過ぎなかった。
「俺がまだ成人もしていない時代、人々に、人中の怪神とまで言わしめたあんたが生きていて、たった一人の女性に尽くしていると知ったら、当時辛酸を嘗めさせられた諸侯はどう思うだろうね」
蔡剛の態度は素っ気無い。
彼は、己の手が殺めた者達など覚えていない。今更懺悔をすることも無い。ただ自分より弱かったから死んだのだ。今でもそう思う。
「知ったことじゃねえよ。凶神はとうの昔に死んだ。蔡家と共にな」
「……そうかい。それは、残念なことだ。健在なら来る戦の第一の戦力として用いたかったのだが」
「見え透いた嘘は止めろ。ただ単に俺みたいなのを○○様の側に置いておくのが嫌なだけだろ。……まあ、あの諸葛亮も周瑜も、俺のことを察して劉備の側に寄らせたがらねえしな」
だが、そんなことはどうでも良い。
誰がどうしようと、俺は○○様の側で、○○様ただ一人を愛し、守り続ける。
もうそれ以外に俺には何も無い。
《あの日》から、そうなってしまったのだから。
蔡剛は一瞬遠い目をし、静かに首を横に振った。
「一つ教えろ」賈栩を睨み、問いかけた。
「お前、何故嘘をついた」
「嘘? ……さて、嘘などついたかな」
「蓮々は俺の妹じゃない。九番目の娘だ」
「初めて知ったね、そんなことは」
「……」
嘘だ。
苦笑を浮かべてみせる賈栩を睨めつけ舌を打つ。
「同情か。てめえが」
「まさか」
嘯(うそぶ)く彼は、きっと蔡剛が、蔡剛の武を受け継ぐ子を残さんとした実父の指示に従い数多の女を孕ませ、また指示通りに弱い男児や女児を容赦無く殺していったのも知っているだろう。
……けれど、蓮々が生き残った理由は、きっと彼も知らぬ。
元気良く泣き叫んで産まれたあの娘を殺さなかった理由を知っているのは《今の》蔡剛だけ。
『とうさま。とうさまが笑えないのなら、わたしがずっととなりで笑ってさしあげますね。そうしたら、いつかわたしの笑顔がうつってくれると、蓮々はねがいます』 蔡剛は己の両手を見下ろし、○○の寝室の方を見た。目を伏せてつかの間思案し、賈栩を一瞥、再び屋根の上へのぼった。
賈栩は無言で見送った。何がしたくて、蔡剛と話をしに現れたのか、全く分からない。
けれど、更に分からないのは、
「こちらも、一つ」
「あ?」
「あんた、今幾つだ」
「……まあ! 女に年齢を訊ねるなんてなんって無礼なお方! やはりあなたは○○様に相応しくありませんわ!!」
こいつは、一体何がしたいんだ。
‡‡‡
時を遡る。
私室にて、○○は居たたまれなさに慣れつつある我が身を不思議がっていた。
気まずいのに慣れてしまうのはどういうことか、心がたまらないのに慣れてしまうなんて、思いも寄らなかった。
ちら、と刺繍の手を止めて視線だけを動かす。
賈栩がいる。
呉からの書簡を読んでいるという彼が○○の私室にいるのは、今日が初めてではない。
○○がここに半ば強引に住まうことになったその日から、彼は何を思ったのか知らないが、○○にあてがわれた部屋で一日の大半を過ごすようになった。その理由を、関羽は自覚したからなんて言っていたが、何のことだか○○にはさっぱりだ。
仕事も当然のように無言で持ち込んで処理をするから、蓮々が殺気立っていつ襲いかかるか分からない。○○が気を利かせて彼の気を逸らそうとすると賈栩が話しかけてきたり隣に腰掛けてきたりするので、余計に悪化してしまう。どうしたら二人が仲良くなるのか……毎日頭を悩ませる。
今日もまた、衝突しそうだったのを関定と趙雲が、○○に何か菓子を買ってやろうと蓮々を引きずって城を出ていった。今頃、二人は大丈夫だろうかと気が気でない。
無事の帰還を祈りつつも、賈栩と蓮々の衝突が回避出来た現状にひとまずは安堵した。
が、そのあとすぐに、隣人とも呼べる程に慣れ親しんでしまった気まずさがやってきた。
賈栩は蓮々がいない時は基本的に仕事に集中していて無言だ。
○○も、邪魔になりたくないから話しかけることもあまり無い。
こちらも刺繍に専念しようと、唇を引き結んで手先に視線を落とした。関羽にと布地から拘(こだわ)って作った服に施す刺繍は、もう少しで完成だ。関羽が喜んでくれれば嬉しい。
今日中に完成させてしまおうといそいそと無心で針を忙しなく動かしていたから、賈栩の唐突な行動には非常に驚いた。
「……○○」
「へっ?」
今日も無言で過ごすのだろうと思っていた賈栩が、名前を呼んだのである。
何故か蓮々がいる時に限られた現象が起こった。これこそ、何故だ、と思う。
「え、あ……何か? あ、咽が渇いたとか、」
「先程君の侍女に最高に濃いお茶をいただいた」
「……す、すまない。あの子は、とても良い子なんだが……そのう……あなたに対しては少々、ろ、露骨、というか……」
駄目だ、良い言葉が見つからない。
蓮々が良い子なのは確かだ。だから○○を今までずっと助けてくれた。胸を張って言える。
言える、のだが……。
さすがの○○も、蓮々は賈栩に対して過剰であると言わざるを得ない。
乾いた笑声を漏らし気まずさから視線を逸らす○○を、賈栩は暫し凝視した。
それから蓮々の淹れた異様に色の濃い茶を見、
「あれが侍女になった経緯を訊いても?」
「経緯? ……経緯と言っても、蓮々が町中で俺に話しかけて、屋敷の方に仕えたいと悲痛な顔で訴えてきたのを俺が受け入れただけだ」
「……訴えられてすぐに?」
「ええ」
頷くと小さく溜息をつかれた。視線が呆れているように思えるのは何故だ。
「怪しいとは思わなかったのかい」
「いいや、全く」
「……」
「だ、だって、ずっと捜していた人に雰囲気が似ていたんだ。だからせめて、この子を助けてあげられるならと……」
言い訳すると今度はその『ずっと捜していた人』について問いかけられた。
○○は促されるままに、記憶を手繰る。
その男を見たのは、○○がまだ男のように振る舞いもしていない幼い頃だ。
路傍(ろぼう)にて力無く座り込んだその男は臭かったし、蠅に集(たか)られていた。どのくらい身体を洗っていないか分からない。
真っ黒な髪はぼさぼさに伸び放題。髭も同様で首から下になるともう髭か髪か区別が付かなかった。
伸びた爪も幾つか割れてたり剥がれていたりした。
服も靴もぼろぼろで、一見死んでいるのではないか不安を抱く程に微動だにしなかった。
けれども、彼を見た○○は生きていると思い、母の手から離れて男に近付いた。
前に立つと、男は顔を上げた。感情を失った寂しく冷たい双眼が○○を見据える。
悲しい気持ちになった。
この人、寂しそう。とても辛そう。
彼の顔に、目に、感情なんて無い。だけど何か大切なものを失って何も出来なくなっているのだと、そう思った。
何とかしてこの男の人を笑わせてあげたい。この瞳に感情を取り戻させてやりたい。子供なりに、強く思った。
だから、
『これ、美味しいからあなたに食べて欲しい』 ○○は、手にしていた菓子を手に握らせた。
美味しい物を食べれば簡単に幸せな気分になれる。子供なりに必死に考えた、下らない案だった。
男が口にする様を見届ける暇も無く、すぐに母に引き剥がされキツく怒られながら帰ったけれど、翌日目を盗んで食べ物を持って彼を見つけた場所に向かった。
だがそこにはもう男はおらず。
それから暫く、○○は男を捜して屋敷を抜け出して町中を歩いて回った。すぐに連れ戻されたけれど、諦めなかった。
蓮々が現れたのは、三年後のこと。
姉への結婚祝いの衣装を作ろうと一人町中を歩いていたところ、彼女────じゃなかった、彼は泣きそうな顔で話しかけてきた。
話を聞けば良家の姫であったが、両親に先立たれ跡取りも無く落ちぶれたと言う。貴人に奉公したくても宛が無い。高貴な人と見てお仕えしたいと切に訴えてきた。
その時、○○の脳裏にあの時の男の姿が蘇る。
性別も年齢も違う悲痛な姫君と重なって見えた。
似ているのだ。
彼と、姫君の、喪失感に満ちみちたとても寂しげな雰囲気が。
あれから何処を捜しても全く見つからない男と良く似た雰囲気の蓮々に、今度こそは、と○○は二つ返事で受け入れた。
以来、蓮々とはずっと一緒にいる。
それを語ると、賈栩はぼそりと呟いた。
「……本当に、それでいて全く気が付いていないのか」
「え?」
「いや、何も。その男なら、生きているだろうさ」
○○は目を瞠った。
ややあって、嬉しくなった。
「賈栩殿は優しいんだな。ありがとう。俺も、そうであれば良いと願っているよ」
「……」
賈栩は一瞬目を細め、視線を書簡に落とす。
○○は、さっきよりも穏やかな気持ちになって、刺繍を再開する。
時折、賈栩は些細な気遣いを見せることがある。すると、気まずい思いをしているこちらも少しだけ気が楽になるのだった。
話して良かったかも。
ほっとして、○○は我知らず、思ったことを声も無く呟いた。
こんな俺にとても優しくしてくれる蓮々と賈栩殿が、仲良くなってくれれば良いのに。
それが、賈栩の耳にも届いているとは、彼女自身思いも寄らなかった。
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