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※注意!



 きっと、私の感覚は、きっと、その時だけ、きっと、麻痺していたんだろう。

 目の前に迫った赤色と、肌色と、白色と、黒色と、青色と、紫色と、黄色。


『今日はお母さん達の結婚記念日なんだから、二人でゆっくりしてきなよ』

『えー……○○が一緒なら行っても良いわよ』

『お父さんも、今年は○○も含めて三人で過ごしたいな。折角休みが重なったんだ。またいつこんな日が来るか分からない』



 それに、俺達の結婚記念日と言うだけではないだろう。
 そうよ。○○が私達の家族になってくれた大事な日なのよ。


 皆で、過ごさなくっちゃ。


 楽しい日だった。
 とても、とても楽しい日だった。
 明日には学校で幼なじみに何をしたか話して、それからすぐに授業の話や先生への恨み言を言ったり、最近彼氏が出来た幼なじみを茶化したり、新しくオープンしたクレープ屋さんに行こうかなんて話したりする筈だった。

 なのに────。

 目の前にあるひしゃげた物体は、物言わぬ。
 おかしいな。
 さっきまで、イルカって久し振りに見たわ、アシカって可愛いね、シャチってテレビで見ていたより迫力があるんだなって、笑っていたのに。
 毎日耳に触れるのが当たり前だった声が、聞こえない。

 ねえ、これは夢でしょう?
 痛いけれど、苦しいけれど、夢なのでしょう?

 目を伏せて眠れば、目覚めた時には私は日常に戻れるの。

 だって、有り得ないじゃない。
 目の前で、両親が潰れて真っ赤な物をまき散らせているなんて、有り得ない。

 大きなトラックに、乗り慣れた白色の軽自動車が潰されてしているなんて、有り得ない。

 有り得ない。

 有り得ない

 有り得ない。有り得ない。有り得ない。有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない────。



────暗転。



‡‡‡




 ○○は、竹簡を両手一杯に抱えとある部屋を訪れる。


「○○です」

『ああ』


 応えを待って扉を開ける。
 竹簡やら書簡やらの積まれた机の奥に、部屋の主がいる。視線は手にした竹簡に落とされたままだ。

 だが○○にとってはそれもいつものことである。
 机の前に座り、そっと竹簡の一つを差し出す。


「賈栩さん。郭嘉さんから、この竹簡に本日中に目を通しておいて欲しいと言伝を」

「分かった」


 賈栩は○○を一瞥し、眉間に皺を寄せた。


「……また、頼まれたのか」

「はい。皆さん、お忙しいようでしたから。勿論、私自身の仕事はもう済ませてあります」

「……」


 嘆息。
 手にした竹簡を机に置き、○○の差し出した竹簡も無造作に脇に放った。

 あ、と声を漏らすと、頭に彼の手が載る。手袋の感触が、少しごわごわしている。
 自然俯き加減になった○○が上目遣いに賈栩を見上げると、少しだけ呆れたような顔。○○でなければきっと常と変わらぬ無表情に見えるだろう。


「○○。一応は、俺専属の女官だったろう」

「ええ。ですが賈栩さん。賈栩さんは昔からほとんど仕事をくださらないので、すぐに終わってしまうんです。ですから、こうして色んな仕事をさせてもらっています。仕事が終われば自由に過ごして良いと賈栩さんが仰ったのですし」

「……そうだったかな」

「そうですよ」


 ○○は手を口元に添えて小さく笑声を漏らす。

 賈栩は一瞬視線を逸らし、ややあって吐息を漏らした。

 ○○には、自覚が無い。
 嫁ぐには丁度良い年頃である彼女の面立ちは年齢以上に大人びている。儚い影を帯びた顔はしかし頬がふっくらとして笑うとえくぼが可愛らしい。好奇心旺盛な性格故に何かに興味を持つと幼子のように目をきらきらと輝かせる。垣間見せる無邪気さは他人の庇護欲を煽る。
 だが、だからといって見目や頭脳が突出して良いという訳ではない。ごくごく普通の、地道な作業が好きな平凡な娘だ。

 決して無理はせず己に出来ることを精一杯────そんな真っ直ぐで健気な姿勢が、人を惹きつけるのだろうとは、以前の主人の義理の叔母の言葉だ。

 彼女の命令に従い、○○を側に置いて曹操軍に身を置いているが……平凡娘のお人好しに付け入る文官武官が多すぎて、正直辟易している賈栩であった。


「とにかく、あまり余所での仕事は受けずに、○○はゆっくりしていれば良い。曹操様も、依然そう言っていただろう」

「違いますよ。曹操様じゃなくて、夏侯惇将軍です」

「……そうだったかな」

「そうですよ。あ。さっきと同じやりとり」


 またくすくすと笑う。

 賈栩は目を細め眩しそうに彼女を見た。
 ぼそりと呟いた。


「……元に、戻りつつあるか」

「え? 今、何か仰いましたか」

「いいや。何でもないよ」

「そうですか。じゃあ私、この竹簡を運ばないといけないので。ちゃんと目をお通し下さいね」


 ○○は賈栩に笑いかけ、部屋を辞した。
 扉を閉めた瞬間、駆け出す。