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「……母上達が……○○姉様にそんなことを……」

「伯來殿に俺から報せるか」

「いや……それは私が。夕方に詳しい話を聞かせてくれ」


 辰玉は夏侯惇に頭を下げ、鍛錬に戻った。

 夏侯惇はそれを暫く眺めていたが、ふと空を見上げ、身を翻す。
 城を出た彼が歩いているのは、つい今し方通った、伯家への道である。途中の飯店で菓子を買い、彼は、三度伯家の壁の穴をくぐった。

 生け垣の影で○○が庭の掃除に戻ってくるのを気長に待っていると、彼女は脇腹と右足を庇いながら姿を現した。

 今度は彼女に見つかる意図を持って顔を出すと、○○は目が合うなり目を瞠り、困ったように微笑んだ。周囲の様子を探って生け垣の影に入ってきた。


「まだここにいたのね。辰玉ちゃんに似ては駄目よ」

「お見逃しいただいた礼に、これを」


 今度は夏侯惇が○○の手を取り、金を手渡す。その上に、飯店で買った菓子を載せた。


「あら」

「金はいただいた額のままお返しします」

「嫌だわ。私、また太ってしまうわ」

「……」


 夏侯惇は○○の手首を掴み、袖を捲り上げた。
 袖の下は、無惨なものだ。あまり長く見ていられるような状態ではなかった。肌の色が分からない程に痣が埋め尽くし、火傷痕も幾つか見受けられる。

 これが、伯家の姫君の腕だろうか。
 いいや、そんな筈がない。有り得ない。

 夏侯惇は○○を見上げ、問いかけた。


「○○殿。あなたはこれでよろしいのか」

「これでよろしいのか、とは?」

「母君と姉君にあのような非道な仕打ちを受けていて、辛くはないのか」

「辛くはないですよ。母上のお腹の中にね、新しい赤ちゃんがいるの。悪阻も酷いようだから、きっと待望の男の子。姉上は家事が少々苦手のようだから、私が、屋敷になかなか戻れない父の代わりに出来る限りのことをして差し上げないと」


 赤子が生まれるのが今から待ち遠しいと言わんばかりに、○○は笑う。
 この女性は、気が狂(たぶ)っているのか。ちらりと思う。

 夏侯惇は○○を見つめ、目を細めた。

 彼の心を読んだのか、○○は夏侯惇の頭を優しく撫でた。


「あなたはとても優しい子ね」


 でもその優しさはお嫁さんになる方に向けてあげてね。
 穏やかに言い聞かせてくる親友の異母姉。異母妹の友人だから、彼女は夏侯惇にも姉のように接してくるのだろう。

 そう思うと、胸の奥底でじわじわと首を擡(もた)げてくるものがある。


 不満、だ。


 夏侯惇は口を開いた。


「なら、俺があなたを娶ると言えば、あなたを気遣っても良いと?」

「え?」


 ○○は目を丸くした。
 ややあって、頬を赤く染めて口を手で覆った。

 その反応を見て、夏侯惇ははっと口を閉じた。
 な、何を言っているんだ、俺は!
 視線を逸らし、冷や汗を流す。


「まあ……辰玉ちゃんは、あなたのことを恋愛事にとても疎いと言っていたのに……」

「いや、○○殿……これ、は、」

「────○○!! ○○!!」


 庭に響いた声に○○がはっと顔を上げる。生け垣の影から顔を出し、慌てて夏侯惇に菓子と金を持たせ飛び出す。
 その時も、顔は少し赤いままだった。

 夏侯惇は声をかける間も無く、彼女を見送るしか無かった。

 それからすぐに怒鳴り散らす長女の声と謝罪する○○の声を聞き、苛立ちを覚える。
 伯來が婿探しを真摯に考えてやり、辰玉の尊敬する程の女性が、あんな二人の奴隷として潰されて欲しくない。

 やはり、このまま放ってはいけない。
 だが部外者の自分に何が出来るというのか────。


『なら、俺があなたを娶ると言えば、あなたを気遣っても良いと?』


 先程の自分の言葉を思い出す。
 自分でも分からない。
 俺が、○○殿を娶る────衝動的だったとしても、そんなことを、言うなどと。
 ○○は、恐らくは初めて言われたのだろう。夏侯惇もあんな恥ずかしい言葉、言うつもりは毛頭無かった。ただ彼女の状況をどうにかしたいと思っただけだったのだ。

 ○○は、今日初めて姿を見たばかりだ。それも、女性として魅力の衰えた弱々しい姿で……。

 ああ、けれど彼女からは、甘い、良い香りがした────。


「……ッ!!」


 鼻孔に蘇る匂いに我に返った夏侯惇は鼻を摘んだ。深呼吸を繰り返し、ゆっくりとかぶりを振る。自身を落ち着かせ、冷静さを取り戻そうとした。
 しかし、黙らせる目的で間近に迫って、夏侯惇の唇に指を当てた○○の顔が、油断するとぱっと浮かぶ。
 思えば親友以外に異性にあんなにも接近されたのは○○が初めてではないだろうか。
 あの発言は、その所為だろうか。


「……どうしたのだ、俺は!」


 ただ辰玉達の力になりたかっただけではないか!
 夏侯惇は呻くように、漏らした。

 暫くは悶々として、その場を離れられなかった。









 彼はこの数日後、伯來を通し○○に求婚する。
 辰玉からすでに○○の冷遇を聞いていた伯來は、○○が屋敷を離れ、自身も目をかけていた辰玉の戦友に嫁ぐことに、大層安堵したと言う。



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