▼2



‡‡‡




 それから傷が癒えるまで、○○は村の者達と共に甲斐甲斐しく曹操達を看病した。曹操も夏侯惇よりも早くに回復し、夏侯惇を見舞うようになった。とはいえ、あまり長くは起きていられない。
 一番状態の酷かった夏侯惇は、数日高熱に浮かされた。その間の記憶は朧々としているが、○○に身体を拭かれたような気がする。……いや、そうだ。汗をかかなかった筈がない。

 意識している異性に身体を拭かれるなど……穴があったら入りたい。

 羞恥に悶々と過ごす夏侯惇に気付きもせず、○○はてきぱきと良く動いた。戦禍に傷ついた人間達を束ねているだけあって、非常に面倒見が良い。

 高熱に悩まされた夏侯惇も熱が治まれば幾分か楽になった。
 日中は上体を起こして○○と他愛ない話を交わすようになった。
 ○○が会話に応じるのは、夏侯惇の精神の安定を図る為だろう。勝利を信じていた筈の大戦で大敗を喫し、その屈辱も今なお鮮明に残る夏侯惇の心が弱まれば、身体も罹患(りかん)しやすくなる。夏侯惇の胸の内に深く沈み込んだ大量の鉛を一つずつ掬い上げてやるように、小さな笑いをもたらした。

 その内、否が応にも夏侯惇は感じざるを得ない。
 胸中にひた隠しにする慕情が、事ある毎に自ら固めた箱の中から出てこようとする。

 彼女に惹かれている。
 彼女のことを、誰よりも知っていたい。
 彼女を独占したい。
 そんな卑しい感情で救われている筈の心が汚れていく。

 恩人である○○になんという無礼なことか。


「……だったのですが、どうも風習が違っていたようで、むしろ彼がしてしまったことは不吉な仕種であったみたいです。幸い、余所との仲介を担う方がそれを心得ていらっしゃって、殺されることは無く、無事に村民と交流を図れたそうです」

「そうか。お前は、何処まで旅をしてきた」

「さあ。ただ気の向くままにさまよっていたという感覚ですから。旅という概念はございませんでした」


 何故旅に出たのかは、彼女は語らない。いや、旅をしてきた以外の過去を一切語らない。
 何故、誰に指を切り落とされたのか、何故顔を見られただけであんなにも怯えていたのか。
 惹かれる男として○○の全てを知りたいけれど、彼女の作る防壁は分厚い。夏侯惇が軍を構成する武将であるから、壁もより強固なのだろう。
 それ以上近付けぬ仲に物足りなさを感じながら、どうしようも出来ぬその方面に疎い自分が憎らしい。


「そう言えば、そちらの賈栩殿も、恐らくは見たことがございます。董卓殿配下であった頃のことではございますが」

「……ああ、そう言えば、あいつはそうだったな」

「それから李カク殿から段ワイ殿、張繍(ちょうしゅう)殿の下におられたと、偶さかに聞いてはおりましたが、今は曹操軍に身を置かれているとは思いませなんだ」


 『偶さか』……か。
 本当に偶さかに聞いた情報だったのか。
 いつから戦禍の被害者達を連れていたのか分からなかったが、彼らを守る為○○は世の情勢を把握していた筈だ。賈栩一人のみならず、乱世であるが故に名の知れた人物であるなら、その全ての動向が気にかかる。
 上手く戦を回避して逃れなければ殺される。ただの移民よりももっと脆弱なのだ。全員を助けながら安住の地を探そうと言うのなら、それなりの頭脳と、それを支える情報が多く必要になる。
 ○○の尽きぬ話もその一部だと思えば納得も出来た。

 しかし夏侯惇はそれを脅威には感じられなかった。全て己の抱える弱き民の為であって、野心も悪心も何も持っていないと、一見して分かるからだ。

 ○○は大事なものにはその身を削ってまで尽くす。
 その大事なものに自分も含まれれば良いのにと思ってしまう。


「そろそろ、曹操殿や兵士の方々の様子を診て参ります」

「ああ。分かっ────」


────言いさし、気付く。

 了承を示しておきながらその右手は○○の腕を長い袖の上から掴んでいた。がっちりと。


「あの……」

「……! すまない!」


 夏侯惇は即座に手を放した。今のは完全に無意識だった。
 驚いて仰視してくる○○から逃げるように赤面して顔を逸らす。

 ややあって、ふふっと小さな笑声。

 ○○が小首を傾けて、面の上から口元に手を添えて笑っている。


「なっ」

「申し訳ございません。子供みたいで、可愛らしくて」

「かわっ……なぁ!?」

「では、すぐに戻ります故、一旦失礼致します」


 おかしそうに笑い○○は洞窟の出口へと歩いていく。
 夏侯惇は羞恥を振り払うように激しくかぶりを振り、上体を倒した。

 何をしているんだ俺は!!
 心の中で怒鳴りつけ、拳を地面に叩きつけた。丁度小石があって非常に痛かった。

 当て所の無い苛立ちを抱え、頭を抱える。

 洞窟を出た彼女の耳の赤さを、彼は知らない。
 知らぬまま────○○が秘密裏に手紙を送り、数日後に夏侯淵達が迎えに来るのである。

 ○○はすぐに少ない食糧を纏め、曹操らに与えた。


「……お前達には世話になった」


 ○○が送るのだからと挙って現れた村人達を見渡し、曹操は静かに言う。
 夏侯惇は夏侯淵に肩を借りながら、○○の動向を窺う。

 けれども○○は拒む言葉は無く静かに頭を下げるのみである。
 このまま立ち去って欲しい。そういうことだ。

 勿論、束ねている女が十三支であろうと戦禍で乱に身を置く将を恨む弱き民から恩を受けておいて、曹操がこのまま報いもせずに終えるなどはしない。それも、九死に一生を得たのだ。


「このまま、お前達も来い。我が領地にお前達の要望に合わせた村を作り、今まで通り援助をしよう」

「有り難う存じます。ですが、今はそのお言葉を胸に留め置くこととします。私の一存では決められませぬ。それに、村の者達も、長旅に耐えられる者は多くはありませぬ」

「そうか。では何かあれば私を頼れ。このまま受けた恩義を返せぬままにしておくつもりはない。お前や、お前からの使者が現れた場合、如何なる状況であろうと速やかに私のもとへ案内(あない)するよう言っておく。もし、無礼な振る舞いをしたとあれば身分を問わず直ちに処罰すると約束しよう」


 ○○はまたも無言で頭を下げた。
 曹操は謝辞をかけると、身を翻した。
 颯爽と歩き出しもう己の支配地でなくなった土地を出ようと急ぐ。

 夏侯惇も、夏侯淵に支えられながら曹操に続こうとした。

 が、


「夏侯惇殿」

「……!」


 ○○に呼び止められ、胸が一気に温度を上げた。
 夏侯淵がすげなく拒絶しようとしたのを遮り、「何だ」と肩越しに振り返る。


「道中、お気を付けて。今までご支援いただき、ありがとうございましたと、曹操殿にお伝え下さいまし」

「分かった。……お前達も、息災でな」


 一瞬、○○の雰囲気が変わる。笑ったのだろう。面に隠されて顔が見えないのが、本当に口惜しい。

 夏侯惇はみたび頭を下げた○○に我も会釈で返し、今度こそ歩き出した。



 いつかまた出会えれば────そう願いながら、荊州を出る。



.