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※注意!


 後に曹操最大の敗戦として史書に記される赤壁の戦い。
 敗軍の将となり満身創痍の曹操を守りつつ、夏侯惇は烏林に後退、呉の都督周瑜らの追撃に負け潰走(かいそう)した。

 共に敗走した兵士も、そのほとんどが疫病乃至(ないし)は飢えによって死に、今は数人の、顔色の頗(すこぶ)る悪い兵士も足取りが覚束ない。
 夏侯惇も、数日飲まず食わず、曹操の看病と追撃への警戒から心身共に疲弊しきっている。
 意識が朦朧とし、歩いている場所が分からなくなることもある。一瞬だけ記憶が飛ぶことも珍しくない。

 それでも、途中で追っ手を分散する為に別れた夏侯淵達がいち早く北へ戻り、自分達を捜していることを信じ、北へ北へ僅かでも進んだ。

────しかし。

 山の中、小川の畔で休もうと膝をついた直後の記憶が無い。



‡‡‡




 夢を見ていた。
 決して良いものではない。むしろ地獄の様相である。
 夏侯惇は、青い空の下に広がる真っ黒な大地にぽつねんと立っている。

 周囲には、夥(おびただ)しい数の遺体が積み重なって広がり、中には見知った顔も見受けられた。


「夏侯淵……賈栩……徐庶……蒋幹(しょうかん)……荀攸(じゅんゆう)……?」


 何故だ。
 何故、彼らは皆息絶えているのだ。
 皆無事に逃げ出していたのではなかったのか!
 信じられぬ。受け入れられぬ。

 夏侯惇は彼らの名前を叫んだ。何度も、何度も叫んだ。誰か、この声に返答する者がいてくれたらと、縋っていた。
 けども屍は物言わぬ。

 しん……と静まりかえった世界でたった独り。
 誰か、声を返して欲しい。
 この悪夢を終わらせて欲しい。

 誰かが答えてくれさえすれば、この夢は終わる────そんな気がする。

 だから、しつこくしつこく呼びかけた。
 唯一幸いと言えるのは、遺体の中に主君の姿が無かったことか。
 それだけが、崩れかけた彼の理性を本人も自覚せぬうちに繋ぎ止めている。

 されど────。


「……夏侯惇」

「!」


 初めての、自分以外の声。
 すぐさま振り返った彼は、絶望する。

 そこに立っているのは心から崇敬する主君だ。己が守るべき大いなる柱、曹操。

 彼は、虚ろな目で夏侯惇を見つめている。
 頭から幾筋も血を流し、右腕は袖に隠れながらも不自然に、ぶらぶら揺れている。

 夏侯惇はその場から動けなかった。
 胸中で膨らむ恐怖、罪悪感、絶望……。
 この世界の一切を拒絶する理性が乱れに乱れ、感覚を犯し、思考すらままならぬ。

 そうそうさま、と声も無く呟く。漏れた吐息は震えた。

 曹操は虚ろな顔のまま、ゆっくりと口を開く。血がこぼれた。


「夏侯惇……赦さぬぞ……」

「────!!」


 曹操が左腕を伸ばす。
 その手は夏侯惇に届かない。

 何故なら。

 ボウッと、その痩躯が突如発火したからだ。
 瞬く間に火は曹操の全身を覆い尽くし、灰にする。

 後には、灰の山だけが遺った。


 もう、誰もいない─────……。


 限界を超えた夏侯惇は、絶叫を上げた。



‡‡‡




「ああアァあああぁアアアッ!!」


 大絶叫が反響する。
 恐怖という衝撃に押され夏侯惇は跳ね起きた。

 何度か荒い呼吸を繰り返し、我に返る。
 ここは……?
 重い頭を片手で押さえ、徐(おもむろ)に周囲を見渡す。

 見覚えのある洞窟である。
 夏侯惇が横になっていた藁を敷き詰めただけの寝床に、たった一つの光源である焚き火を囲う三枚の席(むしろ)、隅に置かれた良く似た形ばかりの不気味な面。
 辛うじて生活感が感じられるこの空間に、少しだけ安堵した。


「ここは……」

「気が付かれましたか」

「お前は、」


 焚き火の光から逃れるように闇に隠れていた女が在った。
 魚のような、奇妙な形の仮面で顔を隠しているが、真っ黒な装束から見て取れる小柄な身体の線で女性と察せられる。隅に置かれてある物と非常に似ている。
 十三支でありながら、戦禍によって故郷を失い、癒えぬ傷を抱えた人間達を山奥の村で束ねる長。名を○○。

 ややぼさぼさな赤土と同じ色の長い髪を揺らして歩み寄ってきた彼女は夏侯惇の側に端座すると袖で隠れた手を顔へと伸ばした。ビクついた彼の頬に優しく触れた。何かを拭うように目元を擦った。


「随分と魘(うな)されていらっしゃいました」

「……そうか」


 あの悪夢の所為だ。
 今でも、はっきりと思い出せる────。


「────そう……だ、曹操様は!」

「あの方なら、兵士の方々と共に村の者が看病をしておりますよ。彼らは、とても優しい人達ですから、ご安心下さいまし。あなたが一番容態が酷うございます故、どうか安静に」


 ○○にそっと肩を押され逆らうことも無く横になる。

 気配から、笑ったのが分かる。
 以前会った時は交渉する為に思案を巡らせた間柄である。笑みを交わす程の仲では決してない。
 だからだろう。微かに感じ取れただけであるのにとても新鮮で、沈んだ心が少しばかり浮上する。

 夏侯惇は○○を仰視した。不気味な面の下の、筆舌に尽くし難い美貌は今でも彼の脳裏にこびりついて離れない。
 面でその美を隠してしまうのには、相当の理由があるのだろう。実際、以前誤って夏侯惇に素顔を晒した時、それまでの悠然とした態度が嘘のように、大袈裟なまでに怯え取り乱した。彼女もまた、それだけの癒えぬ傷を抱えているのだ。

 もう一度見たい。それは本心だ。
 十三支相手にこんな感情を抱くなど人間としてあってはならぬことだと分かってはいる。けれども心の深いところで○○を無視出来ない。○○の美貌を忘れられない。
 この十三支に、一人の男として好意を持っているなど間違っている。

 間違いは正さなければならない。

 俺は曹操軍の武将。曹操様の汚点になることを作ってはならない。
 言い聞かせるもそれに反発する心がじりじりと焼け付く。

 ○○が人間の女であったなら、このような葛藤も無かったというのに。


「……どうかなされましたか」

「いや……俺達は何故お前達の村に?」

「安静にと、申しましたばかりですが」

「訊ねるくらいは構わないだろう」


 面の下で○○は溜息をついた。


「あなた方が、村の近くの小川に倒れておられたのを、村の者が見つけたのです。一応は、物資を分けていただいたお方ですから、そのご恩には報いなければなりますまい。よしや、私欲で戦を起こす憎い輩であろうと」

「曹操様はそのようなお方ではない」

「それは武将の言い分でございましょう。私どもには、乱を起こす方々の志など関係ございません。ただ、平穏に、田を耕して毎日一喜一憂して人生を暮らし、その中で得た経験を子孫に繋いでいきたいだけ。領地など、天下など、私達はどうでも良い。そんなものの為に村の者達は家族を失い、身も心も深く傷ついて、絶望した。その辛さを、あなた方は体験したことが無いから分からないのでしょうね」


 打って変わって○○の言葉は冷たく突き放す。
 武将である夏侯惇と、戦禍によって不運に見舞われた者達を束ねる○○とでは、やはりどうしても越えられぬ壁があるのだと感じた。

 確かに、曹操軍が蹂躙した村や町の民のその後を考えたことも、無い訳ではない。
 だがそれではキリがない。いちいち悩んでいたら、曹操への忠誠心も曖昧なものとなってしまう。つまりは自身の存在意義すら見失ってしまいかねない。
 曹操が全土を征すれば民に安寧はもたらされると夏侯惇は堅く信じている。許昌の民も、善政を布(し)く曹操を良く慕ってくれている。

 なればこそ、覇道への道途で抱いた憐憫は切り捨ててきた。

 ○○達にとっては、冷酷と言えよう。

 戦乱もの世が続く限り相容れぬ存在なのだ。自分達は。
 ……いや、戦乱が終わっても、傷が癒えぬ限り、かもしれない。

 途端に○○が遠くに感じられる。
 ○○を仰視していると、不意に彼女の肩が小さく震えた。
 俯き、「あ……」小さく声を漏らす。

 何かを思って視線を追えば、夏侯惇も同様に声を漏らした。


 手を、握っていた。


 夏侯惇が、○○の手を。
 咄嗟に放して、即座に謝罪する。

 ○○も、恐怖を思い出したのか、単純に驚いただけなのか────後者であれば良いのだが────やや狼狽(うろた)えて首を左右に振った。


「い、いえ……お気になさらず」

「少し、混乱しているらしい。このまま眠らせてもらう」

「分かりました」

「……感謝する」


 ぼそりと言って、夏侯惇は目を閉じた。