▼みかん様
『これ、美味しいからあなたに食べて欲しい』
そう言って、彼女は俺に菓子を差し出した。‡‡‡
蔡剛は苛立った。
不覚をとって自分よりも弱いガキに気絶させられたこともそうだが、この世で最も憎い男の妻と勘違いされたばかりか、この世で最も愛した女性を傷つけられたことに、だ。
賈栩や十三支が○○を迎えに行くのだって、気に食わなかった。あんな男よりも自分が行きたかった。
けれども周りは皆蔡剛を見た目通りに受け取り、ここに残しておいた方が安全だと勝手に判断した。何とも憎らしいことだった。
○○に笑顔を向ける者達全てが気に食わない。
特に賈栩が一番憎々しい。
○○は、あの日から蔡剛の全てだった。
だから彼女には安全な場所で、幸せに生きていて欲しい。その為なら何だってする。彼女が死ぬことあらば、我が命も絶つ覚悟だ。
そんなかけがえのない存在を、賈栩に渡したくなかった。
あいつに、昔の俺に近いものを感じたから。
人間らしい感覚を持っていない。ただ知識としてあるだけで決してそのように心は動かない。
よしや、○○の影響で彼に人らしい感覚が芽生えたとしよう。
だが、それだけではないか。
何処かでその成長が止まらないとどうして断言出来る?
俺は知っている。
人間としての感覚を持たない欠陥品が、何かの拍子にそれを得始めたとしても、また何かの拍子に簡単に失ってしまうのだ。
人間にとって当たり前のことが、俺達のような欠陥品にはこと馴染みにくい。人間の感覚を取り戻すのではない。本来無いものを無理矢理取り込まなければならないのだ。
蔡剛は、賈栩よりも酷い欠陥品だった。
けれどもそんな蔡剛でも、今、《人としての感覚》を持っている。
最初のきっかけは、一人の娘。
二番目のきっかけは、○○。
最初に芽生えた感覚は一度失われ、○○によって再び、急速に花開いた。
蔡剛自身、運が良かったとしか言いようが無い。
だからこそ、賈栩に自分と同じようなことが起こるとは思えない。
賈栩が○○に惹かれているのは事実だ。
表情を作れる賈栩が完全な無だった蔡剛よりましであったとしても、その変化が止まらずに続くと、誰に断言出来る?
仮に断言する者がいても、ただの夢想に過ぎないと、蔡剛は嘲笑うだろう────。
……じゃり、と下方から聞こえた音に意識は急浮上する。
思考を邪魔された蔡剛は舌を打ち、伏せていた目をゆっくりと開いた。
彼がいるのは、屋根の上だ。その下は愛しい主人の部屋になっている。
下方にいる人物は、蔡剛に悟らせる為わざと音を立てた。
蔡剛は忌々しそうに顔を歪め屋根から軽々と飛び降りた。
「○○様は就寝中だ。そうじゃなくても近付けさせねえがな」
賈栩は肩をすくめた。蔡剛をじっと見据え、
「凶神、蔡剛」
ぼそりと呟いた。
蔡剛は目を細めた。
凶神────懐かしい響きである。
よもや、今になってその名を懐かしむことがあろうとは思いも寄らなかった。
誰が、いつからそう呼ぶようになったのかは分からない。当時、興味を持つような状態ではなかった。
ただ与えられた仕事を確実にこなしていくだけ。過去の蔡剛は、ただ当主の指示通りに動く傀儡に過ぎなかった。
「俺がまだ成人もしていない時代、人々に、人中の怪神とまで言わしめたあんたが生きていて、たった一人の女性に尽くしていると知ったら、当時辛酸を嘗めさせられた諸侯はどう思うだろうね」
蔡剛の態度は素っ気無い。
彼は、己の手が殺めた者達など覚えていない。今更懺悔をすることも無い。ただ自分より弱かったから死んだのだ。今でもそう思う。
「知ったことじゃねえよ。凶神はとうの昔に死んだ。蔡家と共にな」
「……そうかい。それは、残念なことだ。健在なら来る戦の第一の戦力として用いたかったのだが」
「見え透いた嘘は止めろ。ただ単に俺みたいなのを○○様の側に置いておくのが嫌なだけだろ。……まあ、あの諸葛亮も周瑜も、俺のことを察して劉備の側に寄らせたがらねえしな」
だが、そんなことはどうでも良い。
誰がどうしようと、俺は○○様の側で、○○様ただ一人を愛し、守り続ける。
もうそれ以外に俺には何も無い。
《あの日》から、そうなってしまったのだから。
蔡剛は一瞬遠い目をし、静かに首を横に振った。
「一つ教えろ」賈栩を睨み、問いかけた。
「お前、何故嘘をついた」
「嘘? ……さて、嘘などついたかな」
「蓮々は俺の妹じゃない。九番目の娘だ」
「初めて知ったね、そんなことは」
「……」
嘘だ。
苦笑を浮かべてみせる賈栩を睨めつけ舌を打つ。
「同情か。てめえが」
「まさか」
嘯(うそぶ)く彼は、きっと蔡剛が、蔡剛の武を受け継ぐ子を残さんとした実父の指示に従い数多の女を孕ませ、また指示通りに弱い男児や女児を容赦無く殺していったのも知っているだろう。
……けれど、蓮々が生き残った理由は、きっと彼も知らぬ。
元気良く泣き叫んで産まれたあの娘を殺さなかった理由を知っているのは《今の》蔡剛だけ。
『とうさま。とうさまが笑えないのなら、わたしがずっととなりで笑ってさしあげますね。そうしたら、いつかわたしの笑顔がうつってくれると、蓮々はねがいます』 蔡剛は己の両手を見下ろし、○○の寝室の方を見た。目を伏せてつかの間思案し、賈栩を一瞥、再び屋根の上へのぼった。
賈栩は無言で見送った。何がしたくて、蔡剛と話をしに現れたのか、全く分からない。
けれど、更に分からないのは、
「こちらも、一つ」
「あ?」
「あんた、今幾つだ」
「……まあ! 女に年齢を訊ねるなんてなんって無礼なお方! やはりあなたは○○様に相応しくありませんわ!!」
こいつは、一体何がしたいんだ。
‡‡‡
時を遡る。
私室にて、○○は居たたまれなさに慣れつつある我が身を不思議がっていた。
気まずいのに慣れてしまうのはどういうことか、心がたまらないのに慣れてしまうなんて、思いも寄らなかった。
ちら、と刺繍の手を止めて視線だけを動かす。
賈栩がいる。
呉からの書簡を読んでいるという彼が○○の私室にいるのは、今日が初めてではない。
○○がここに半ば強引に住まうことになったその日から、彼は何を思ったのか知らないが、○○にあてがわれた部屋で一日の大半を過ごすようになった。その理由を、関羽は自覚したからなんて言っていたが、何のことだか○○にはさっぱりだ。
仕事も当然のように無言で持ち込んで処理をするから、蓮々が殺気立っていつ襲いかかるか分からない。○○が気を利かせて彼の気を逸らそうとすると賈栩が話しかけてきたり隣に腰掛けてきたりするので、余計に悪化してしまう。どうしたら二人が仲良くなるのか……毎日頭を悩ませる。
今日もまた、衝突しそうだったのを関定と趙雲が、○○に何か菓子を買ってやろうと蓮々を引きずって城を出ていった。今頃、二人は大丈夫だろうかと気が気でない。
無事の帰還を祈りつつも、賈栩と蓮々の衝突が回避出来た現状にひとまずは安堵した。
が、そのあとすぐに、隣人とも呼べる程に慣れ親しんでしまった気まずさがやってきた。
賈栩は蓮々がいない時は基本的に仕事に集中していて無言だ。
○○も、邪魔になりたくないから話しかけることもあまり無い。
こちらも刺繍に専念しようと、唇を引き結んで手先に視線を落とした。関羽にと布地から拘(こだわ)って作った服に施す刺繍は、もう少しで完成だ。関羽が喜んでくれれば嬉しい。
今日中に完成させてしまおうといそいそと無心で針を忙しなく動かしていたから、賈栩の唐突な行動には非常に驚いた。
「……○○」
「へっ?」
今日も無言で過ごすのだろうと思っていた賈栩が、名前を呼んだのである。
何故か蓮々がいる時に限られた現象が起こった。これこそ、何故だ、と思う。
「え、あ……何か? あ、咽が渇いたとか、」
「先程君の侍女に最高に濃いお茶をいただいた」
「……す、すまない。あの子は、とても良い子なんだが……そのう……あなたに対しては少々、ろ、露骨、というか……」
駄目だ、良い言葉が見つからない。
蓮々が良い子なのは確かだ。だから○○を今までずっと助けてくれた。胸を張って言える。
言える、のだが……。
さすがの○○も、蓮々は賈栩に対して過剰であると言わざるを得ない。
乾いた笑声を漏らし気まずさから視線を逸らす○○を、賈栩は暫し凝視した。
それから蓮々の淹れた異様に色の濃い茶を見、
「あれが侍女になった経緯を訊いても?」
「経緯? ……経緯と言っても、蓮々が町中で俺に話しかけて、屋敷の方に仕えたいと悲痛な顔で訴えてきたのを俺が受け入れただけだ」
「……訴えられてすぐに?」
「ええ」
頷くと小さく溜息をつかれた。視線が呆れているように思えるのは何故だ。
「怪しいとは思わなかったのかい」
「いいや、全く」
「……」
「だ、だって、ずっと捜していた人に雰囲気が似ていたんだ。だからせめて、この子を助けてあげられるならと……」
言い訳すると今度はその『ずっと捜していた人』について問いかけられた。
○○は促されるままに、記憶を手繰る。
その男を見たのは、○○がまだ男のように振る舞いもしていない幼い頃だ。
路傍(ろぼう)にて力無く座り込んだその男は臭かったし、蠅に集(たか)られていた。どのくらい身体を洗っていないか分からない。
真っ黒な髪はぼさぼさに伸び放題。髭も同様で首から下になるともう髭か髪か区別が付かなかった。
伸びた爪も幾つか割れてたり剥がれていたりした。
服も靴もぼろぼろで、一見死んでいるのではないか不安を抱く程に微動だにしなかった。
けれども、彼を見た○○は生きていると思い、母の手から離れて男に近付いた。
前に立つと、男は顔を上げた。感情を失った寂しく冷たい双眼が○○を見据える。
悲しい気持ちになった。
この人、寂しそう。とても辛そう。
彼の顔に、目に、感情なんて無い。だけど何か大切なものを失って何も出来なくなっているのだと、そう思った。
何とかしてこの男の人を笑わせてあげたい。この瞳に感情を取り戻させてやりたい。子供なりに、強く思った。
だから、
『これ、美味しいからあなたに食べて欲しい』 ○○は、手にしていた菓子を手に握らせた。
美味しい物を食べれば簡単に幸せな気分になれる。子供なりに必死に考えた、下らない案だった。
男が口にする様を見届ける暇も無く、すぐに母に引き剥がされキツく怒られながら帰ったけれど、翌日目を盗んで食べ物を持って彼を見つけた場所に向かった。
だがそこにはもう男はおらず。
それから暫く、○○は男を捜して屋敷を抜け出して町中を歩いて回った。すぐに連れ戻されたけれど、諦めなかった。
蓮々が現れたのは、三年後のこと。
姉への結婚祝いの衣装を作ろうと一人町中を歩いていたところ、彼女────じゃなかった、彼は泣きそうな顔で話しかけてきた。
話を聞けば良家の姫であったが、両親に先立たれ跡取りも無く落ちぶれたと言う。貴人に奉公したくても宛が無い。高貴な人と見てお仕えしたいと切に訴えてきた。
その時、○○の脳裏にあの時の男の姿が蘇る。
性別も年齢も違う悲痛な姫君と重なって見えた。
似ているのだ。
彼と、姫君の、喪失感に満ちみちたとても寂しげな雰囲気が。
あれから何処を捜しても全く見つからない男と良く似た雰囲気の蓮々に、今度こそは、と○○は二つ返事で受け入れた。
以来、蓮々とはずっと一緒にいる。
それを語ると、賈栩はぼそりと呟いた。
「……本当に、それでいて全く気が付いていないのか」
「え?」
「いや、何も。その男なら、生きているだろうさ」
○○は目を瞠った。
ややあって、嬉しくなった。
「賈栩殿は優しいんだな。ありがとう。俺も、そうであれば良いと願っているよ」
「……」
賈栩は一瞬目を細め、視線を書簡に落とす。
○○は、さっきよりも穏やかな気持ちになって、刺繍を再開する。
時折、賈栩は些細な気遣いを見せることがある。すると、気まずい思いをしているこちらも少しだけ気が楽になるのだった。
話して良かったかも。
ほっとして、○○は我知らず、思ったことを声も無く呟いた。
こんな俺にとても優しくしてくれる蓮々と賈栩殿が、仲良くなってくれれば良いのに。
それが、賈栩の耳にも届いているとは、彼女自身思いも寄らなかった。
‡‡‡
まことに不如意な展開である。
蔡剛は○○の為にと買い集めた菓子を腕に抱え、憮然と胡座を掻いていた。
見るも明らかに頗(すこぶ)る機嫌の悪い彼に、関定も趙雲も、後から合流した蘇双も苦笑混じりだ。されどもこれも○○と賈栩を夫婦らしくくっつけたいと一念発起した関羽と張飛への協力の一環、蓮々を解放してやる気は更々無い。
可憐な少女の姿で舌を打ち殺気立つ蔡剛からは、重苦しい不協和音が聞こえる。
賈栩や諸葛亮の話では、誰よりも年輩だと言うが……何処からどう見ても、彼は関羽とほぼ同じ年齢にしか思えない。
「……それで、さ」
「あ゛ぁ?」
「その顔でガン付けんなよ! 怖い!」
「だったらさっさと俺を○○様の所へ行かせろ。これであの無男に襲われてたらお前らぶっ殺す。楽に死ねると思うなよ」
「そんなに大事なのか、○○殿が」
「訊くまでもないことをいちいち訊くな」
刺々しく返す蔡剛に、趙雲はしかし感心した風情で頷いた。
「今までずっと、想い人の傍に居続けて、侍女の立場を守り続けていられたとは、凄いな。踏み込みたいとは思わなかったのか」
「関係には拘(こだわ)ってねえよ。一生○○様の傍で尽くせるのなら何だって構いやしねえ。侍女だと警戒されずに風呂で裸見れるし触れるし」
「いやそこは入るなよ! お前男だろ!? さすがにバレるだろ!」
「安心しろ。反応してもバレないようにしていたし、風呂の後こっそり隠れて発散していた」
「そこは訊いてない」
蘇双が軽蔑の眼差しを向ける。
最初に話を振った趙雲は、苦笑を禁じ得ない。
本当なのだろうが、そうやってはぐらかそうとしているのは何とはなしに分かった。
彼が心を許しているのは○○だけなのだ。趙雲達は賈栩に加勢して○○との二人きりの世界を侵略する敵なのだ。
簡単に、俺達と交流してくれる筈がないか。
凶神と呼ばれた、趙雲の世代にとっては幻の猛将蔡剛が目の前にいるというのに、何とも口惜しいことだ。
「言っとくがお前ら○○様の裸見たら目玉くり抜くからな。○○様の裸を見て良いのは侍女の俺だけだ」
「ぞっとすること言うなよ」
「っていうか、人妻の裸を女のフリした男だけが見るって、そっちの方が問題じゃない?」
「問題無え」
「言い切った……」
蘇双は溜息をつき、はたと蔡剛の後ろを見た。うわ、と声も無く漏らし、気まずそうに視線を逸らした。
蔡剛ははっと鼻を鳴らした。
趙雲達は、今、ようやっと気が付いたらしいが、彼は、とうの昔から気が付いている。
背後の壁に隠れて気配を殺して話を盗み聞きしていた人物の存在に。
蔡剛は勝ち誇ったように鼻で一笑し、立ち上がった。
「さて! 買い集めた菓子を○○様にお見せしなければなりませんので、わたくしはこれにて失礼致します」
一転して侍女らしい慎ましやかな態度を装い、三人に頭を下げる。壁に隠れた人物にはより丁寧に、慇懃無礼に挨拶をして機嫌良い足取りで立ち去った。
舌打ちが聞こえたのが、一層蔡剛の機嫌を良くした。
旦那のお前よりも俺の方がずーっと○○様の近くにいるんだよ、精神的にもな!
心の中で、高笑い。
‡‡‡
ここ最近、賈栩の機嫌が非常に悪く、逆に蓮々の機嫌が非常に良い。
正反対の二人と同じ部屋にいると、今まで以上にいたたまれなかった。どうしたんだ、一体。
「れ、蓮々? もしかして、賈栩殿と喧嘩でもしたのか?」
「いいえ? 不気味男とは一言とて話したくもありませんもの」
にこにこにこにこ。
蓮々の笑みが輝いている。
その笑顔が、一層疑念を大きくした。やっぱり、この二人の間に何かあったな。
○○は返す言葉に困り、曖昧に言葉を返す。
……賈栩殿に訊いてみれば答えてくれるだろうか。
「蓮々。申し訳ないが、贔屓にしている店に行って、布地を何枚か探して欲しいんだ。構わないかな」
蓮々は一瞬不満そうに顔を歪めたが、すぐに戻ると言って足早に出かけてくれた。
暫く足音を聞き、○○は賈栩に恐る恐る問いかけた。
「賈栩殿。蓮々はああ言っていたが、あなた達の間に何か遭ったのだろうか」
「……」
竹簡を読み進める目を○○に向けた賈栩は、彼女の顔を凝視し、目を細めた。
心なし棘があるように思える視線に、問いかけてはいけなかったんだろうかと不安になった。
「あの……か、賈栩殿? もしかして、訊いてはいけないことだったか」
「いや……俺なりに理解しようと努(つと)めてみたが、やはり、○○の侍女とは、表面上でも仲良く出来そうにないと、再確認させられてね。そうなると、存在自体が非常に気に食わないと思うようになった。それだけさ」
「え? 賈栩殿……蓮々と仲良くしようとしてくれたのか?」
失敗はしたようだが、そうしようとしてくれただけでもとても嬉しい。
思わず笑顔になると、賈栩はぐにゃりと顔を歪める。より不機嫌になったような気がして慌てて唇を引き結ぶ。俯くと、賈栩が立ち上がった。
前に立った賈栩の足が視界に移り込む。
顔を上げると片手を差し出してきたので、誘われるように手を重ねる。立ち上がる。
「賈栩殿? 何処かに行くのか?」
「いや? 何処にも」
「? なら────わあぁ!?」
未だ不機嫌な賈栩は予想外の行動に出た。
○○の身体を抱き上げ、寝台に寝かせたのだ。自身は○○に覆い被さり質(ただ)そうと大きく開いた口を己のそれで塞いだ。
異性に口づけられる経験など、無い。
仰天して固まったのを良いことに口内に舌が侵入する。上顎を撫でられ痒さを感じられたそのすぐ後に痛いくらいに吸い上げられて舌を強引に絡め取られた。
何、何だこの状況!?
何がどうしてこうなっているんだ!
唐突な脈絡の無い賈栩の行動に○○は混乱する。
口の方にばかり意識を向け、取り敢えず賈栩を離そうと抵抗すると、太腿がひやりとした。かと思えば熱くてかさついたものが撫でている。足の付け根に近い、内側の皮膚の薄い場所にも至る。
これ……もしかして、手?
ああ、うん。手だ。
……。
……。
手!?
「んぐ!?」
何で手がそんなところに!?
ますます混乱が増し、抵抗もままならなくなってしまう。
蹂躙される口が熱い。溶けてしまいそうな程に熱い。
これがどういう行為なのか、段々と分かってきた。
けれども○○は、それに大きな疑問を抱く。
関係を思えば当たり前のことだけれど、何故賈栩がそんなことを男のような自分にしているのか、理解が出来なかったのだ。
○○は、身体つきはおよそ女らしくない。
だのに足の付け根にまで至った手は明確な目的を持って動いていると分かるし、そもそもこんなに激しい口付けをするなんて……。
嗚呼、このまま口が溶けて無くなってしまいそうだ。息苦しいけれど、呼吸が出来なくなる前に口が失われてしまうのではないか、そんな有り得ない不安を感じた。
ようやっと離れたかと安堵したのもつかの間、またすぐに塞がれた。
全然、賈栩らしくない。
意識がぼんやりとしてきたのを見計らい、賈栩はようやっと○○を解放した。
胸がどくどくと五月蠅い。痛いくらいに動悸が激しい。
賈栩の指が内腿を軽く引っかくと過敏なくらいに身体が反応した。一瞬駆け抜けた刺激に疑問符が浮かぶ。
何だ、今の……。
男との経験の全く無い○○は、未知の感覚に脱力する。
賈栩は無表情だ。僅かに瞳が熱を孕んでいるように思えるが、気の所為かもしれない。
「……っな、にを」
答えない。
○○の首筋に顔を埋め、肌に吸いつく。
夫婦なら当たり前の行為だ。
だが○○と賈栩は、名ばかりの夫婦。賈栩は○○にそう言った感情は無いだろうし、子孫を残すつもりはないと、思っていた。
だのにこれは一体どういうことなんだ!
恐怖よりも困惑が勝る。嫌悪感が無いのも不思議だが、彼が自分にこういった行為に走ったことに戸惑う。
胸の辺りがすーすーする。ひやりとした空気に触れ────触れ?
見下ろして青ざめる。
いつの間にか襟が大きく開かれているのが、賈栩と自分の間から見えた。
いや、夫婦としては間違いが無いのだけれど……けれど、だ!
今は真っ昼間じゃないか!!
混乱故に段々思考が乱れていく。
そんな○○を余所に賈栩の口は鎖骨を辿る。
肌に強く吸いついた────その時である。
乱暴に扉が開いた。
「ひっ!?」
「……戻ってきたか」
賈栩が低い声で呟く。
襟を戻して扉の方を見やると、そこには鬼の形相をした蓮々が。
「胸騒ぎがして戻ってみりゃあ────」
「蓮々!?」
何処から出したのか、大きな戦斧が物々しい雰囲気をまとって現れる。
さっきとは別の意味で、○○は青ざめた。
「俺の○○様に何しとんじゃワレエェェェァァッ!!」
「蓮々!! ちょっと取り敢えず落ち着けーっ!!」
賈栩が退いた隙に身を起こし、衣服の乱れを戻さずに駆け寄った。
その様に、また蓮々の怒号があがったのは言うまでもない。
後に関羽達が駆けつけた時には、○○の部屋は酷い有様だったという。
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