▼露乃様



 幽谷は関羽に忠誠を誓っている。その辺の武将よりもずっとずっと堅いそれは、揺るぎなく、最優先事項として彼女の中に存在する。
 自分とて、一片の曇りも無い忠誠心を抱き曹操に従う武将だ。我が命よりも我が主が大切なのは分かる。

 分かって、いるのだけれど────。


「幽谷。良ければこれから街を回らないか」

「いえ、結構です」

「そうか。ではまたの機会に誘わせて貰おう」

「いえ、結構です」


 遠目から、趙雲から逃げるように早足に廊下を進む幽谷の姿を追いかける。
 舌打ち。

 幽谷は基本、一日中猫族と行動を共にする。幽谷が夏侯淵と触れ合えるのはその僅かな合間のみだ。
 幽谷が夏侯淵と共に閨(ねや)に入るのも、本当に稀であった。その分、その後が《しつこく》なってしまうのは、致し方のないことと言える。

 一向に幽谷の武に近付けず、むしろ幽谷が戦に出れば出る程彼我の差を見せつけられた。
 それで滅多に触れ合えないとなれば、いつか愛想を尽かされ────今なお彼女に想いを寄せる趙雲などに奪われてしまうのではないかと、そんな不安を抱いてしまう。
 杞憂だと、これもちゃんと分かっている。幽谷は容易に心変わりをする女ではない。心移ろいやすいのであればあんなにも強固な忠誠心を関羽に捧げる筈がない。

 だが、理解しているのは頭だけなのだった。
 心が不安に呑まれ幽谷への信頼を鈍らせる。
 全く諦める様子を見せない────猫族ももう呆れ返っているようである────趙雲と幽谷が並んでいるのが一番受け入れ難い光景である。
 両手に拳を握り奥歯を噛み締める。

 と、偶然通りかかった曹操と夏侯惇が怪訝そうに立ち止まり、


「夏侯淵。何をしている」

「……あっ、曹操様。いや、あの……何でもありません。すいません」

「夏侯淵。曹操様は、何をしているのかと、問われたのだぞ」

「あ、いや……兄者、これはだな……」


 夏侯惇は先程まで夏侯淵の視線が向けられていた方向を見、納得する。
 だからこの様子……か。心中で呟き、こっそりと溜息をつく。

 曹操も遅れて夏侯淵の様子の訳を知った。怪訝な顔が一転呆れがありありと表れている。


「行きたければ行けば良いだろう」

「えっ!? いや、オレは別に何も……!」


 どうせ子供扱いされるのを嫌がっているのだと、夏侯惇にも曹操にもすぐに分かった。面倒なことをあれこれ無駄な時間を労してまで考えているのだ。
 幽谷に惚れるまでは女遊びも盛んであった筈の彼が、幽谷に対してはこうも及び腰になるのは、初めは意外で面白かったが、今では少々うざったい。

 幽谷が子供扱いをしているのはたまにだ。彼女は夏侯淵をちゃんと男として、愛する恋人として見ているのだと張飛でも分かっているのに、どうして本人は気付かないのか。
 この様子では、夏侯淵と話している時、幽谷がどんな表情でいるかも分かっていまい。

 夏侯惇と曹操は視線を合わせ、ほぼ同時に眉間を押さえた。

 結局、彼はそのまま趙雲と不機嫌極まる幽谷が歩き去るのを見送った。



‡‡‡




 幽谷を眺めていて、我慢が出来なかったこともある。


「幽谷〜!」

「劉備様。如何なさいましたか」


 幽谷の腰に劉備が抱きつく、
 鍛錬場の側で無邪気に、幽谷や蘇双達と遊んでいた彼は、何か良いことを思いついたらしい。
 幽谷が劉備をやんわりと剥がし屈んで目線を合わせると、劉備は顔を近付け幽谷の頬に口を付けた。


「えへへ、幽谷、いつもありがとう!」

「!?」

「あー……」


 ちらり、と蘇双と関定が気まずそうに夏侯淵を見る。
 丁度暇が出来たから幽谷と同じ時間を過ごしたくて和に加わっていた夏侯淵は、青ざめて固まっていた。

 勿論、劉備は幽谷を実姉のように慕っているだけであって、彼にとってはその口づけも純粋な感謝の意思表示だった。その証拠にぺこりと頭を下げて、恥ずかしがっている様子は微塵も無い。幽谷も「こちらこそ、いつもありがとうございます」と律儀に一礼している。
 和やかな一幕であることは蘇双にも関定にも、夏侯淵にも分かっている。

 分かっている、のだが────。


 ここ数日、彼らは口づけすらもしていなかったのである。


 夏侯淵はゆらりと立ち上がる。
 蘇双と関定が幽谷の肩を叩き劉備をそっと離して避難した。


「劉備様、そろそろ関羽達の所に行きましょうか。幽谷も、もうすぐ仕事に戻らなければならないでしょうし」

「うん! じゃあね、幽谷。また遊んでねー!」


 久し振りだったのだが、幽谷と思う存分遊べたようで、渋る様子は無く蘇双達に従ってその場を離れていった。

 幽谷は、大股に歩み寄ってきた夏侯淵に向き直り、苦笑を向ける。彼の様子は、すでに横目で確認していた。彼が何に反応したのかも、察している。


「夏侯淵殿。どうかしたの?」


 けれども敢えて、問いかける。
 夏侯淵は少しの間顔を逸らし、舌打ち。幽谷の腕を掴んで強引に引っ張った。
 城内に戻り向かうは己の部屋。幽谷にとっても通い慣れた場所だ。

 寝台に押し倒される。
 さすがに上体を起こした幽谷は抗議しようと口を開いた。
 されど、声を発する前に口を塞がれまた押し倒された。

 顔を、顎関節を押さえつけるように両手で強く挟み口を閉じさせない。
 苛立ちのままに幽谷の口腔内を夏侯淵の舌が荒々しく蹂躙する。閨で興奮状態にあってもここまで粗雑ではない。

 幽谷は下顎を僅かに上下することもままならぬ。抵抗はしないが、このまま彼に覆い被さられ、いつになく激しい口付けを受け止め続けるのも、己の精神上よろしくなかった。
 その為────。


「いっでぇ!?」


 脇腹の肉を思い切り抓(つね)ってやった。
 夏侯淵は悲鳴を上げようやっと幽谷を解放する。


「な、何す……!」

「あなたが馬鹿なことをするからでしょう」

「っだぁ!?」


 脳天に容赦なく手刀を落とす。手加減を誤ってしまい、夏侯淵は頭を抱えてその場にうずくまってしまった。

 凄絶な痛みに唸る夏侯淵から顔を逸らし、幽谷は溜息を漏らす。


「まったく……あなたという人は、」


 言葉を区切り、口を手で覆う。眉間に皺を寄せ目を伏せた。

 惜しいことに、夏侯淵は未だ顔を上げない。

 顔を赤らめ真実恥じらい取り乱す歳上の恋人の姿を、彼は見ることが出来なかった。



‡‡‡




「夏侯淵って、意外と鈍いと思うわ」


 茶を一口飲んで、関羽は呆れた様子で呟いた。

 それに、同席する蘇双と関定も同意する。劉備は、張飛と街に出ている為不在である。


「あいつ、幽谷が結構しれっと余所で惚気てるの、全然知らないよね」

「そうなのよ。この間だって、毎日夏侯淵を異性として素敵だと思うようになって、その度に深みにはまっているんでしょう……みたいなことを真剣に話してくれたのよ。そこまで幽谷に愛されておいて、夏侯淵が子供扱いされてばかりだってもだもだしてるのがもどかしくてしょうがないわ」

「オレ、多分今頃また幽谷が夏侯淵に惚れ直してるのに一票」

「それ、満場一致だから賭ける意味無い」

「知ってる」


 関羽は眉間に皺を寄せ、唇を尖らせた。
 これは、関羽にとっては大変喜ばしい変化だ。
 幽谷が人間の女性らしく一人の男性に恋をして、夢中になっていく。
 己の恋情に振り回される様を、関羽は最初こそ我がことのように喜んで見守っていた。

 けれど────。


「……ねえ、今から二人の邪魔に行ったら駄目かしら」


 ぽつりと言うと、二人には心底呆れられた。


「関羽。もしかしなくても幽谷が構ってくれなくなって寂しくて夏侯淵に嫉妬してるでしょ」

「……、……ちょっとだけよ」

「してんだな」


 関羽は、拗ねてつんとそっぽを向いた。
 嬉しいけれど寂しい。
 最近急激にそんな風に感じ始めた関羽に、蘇双も関定も、「気持ちは分かるけどね(な)」と苦笑を滲ませた。



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