▼聖様
○○は、貴族でありながらさながら継母や義姉の奴隷のようであった。
使用人達に混じって料理の支度をしなければならない。時間通りに用意が出来なければ、己の部屋以上に汚く粗末な物置小屋へ一晩閉じ込められた。
衣装も○○が仕立てなければ、いや、それが気に入らなくても厳しい折檻を受ける。
かの曹操に武将として仕える実父と異母妹(いもうと)のいない時にだけ、しかも衣服で隠れる場所を狙って暴行を加える上、二人がいる時には綺麗な召し物を着せて徹底的に押し隠す。使用人達にもそれなりの金を持たせて黙らせているし、○○に同情的な態度を見せれば即座に折檻の対象にされたから、密告する者もいない。
○○が終始笑顔を絶やさない、非常に我慢強い娘であったことも、災いしてしまっている。
異母妹が生まれて十六年となるが、○○への冷遇を彼らはまだ知らなかった。
○○は非常に美しく、器量の良い娘である。
それが水仕事で手がひびやあかぎれだらけになっていて、骨が浮き上がる程に痩せぎすになって、髪も栄養が足りず艶を失ってがさがさしている見窄(みすぼ)らしい姿となり、彼女が貴族の娘だとは夢にも思わない。
夫が○○の実母を失って、跡継ぎ問題を考慮し後妻を娶(めと)ったその日から、良く出来すぎた○○は継母と義姉から妬みを向けられ、度々酷い嫌がらせを受けた。現状は、その延長である。
だが、○○は継母と義姉を恨んだことは一度も無かった。
むしろ最近悪阻(つわり)の酷い継母を見て、今度こそ弟が、父待望の跡継ぎが生まれるかも知れないと心から喜んでいた。男が産めなかったことを詫びながら亡くなった母の姿を覚えているが故、その思いも非常に強い。
二人とはただ、上手く折り合いがつけられないだけだ。血は繋がらずとも、大事な家族なのだから、恨みなんて抱いてはいけない。
そう胸の中に決まり事を作って、毎日を過ごしている。
‡‡‡
夏侯惇と伯辰玉(はくしんぎょく)は幼なじみだ。
夏侯淵も混ざって共に武を高めあったし、性別など関係なく、友として気兼ね無く悩みを打ち明けられる仲だった。
その親友が、最近どうも顔色が悪い。
己の役目はしっかりと果たすものの、時折父の後ろ姿を見ては物言いたげな顔をして、唇を歪め俯くのだ。
最初こそ彼女が自ら話すまで待つつもりだったが、一向にその気配は無い。
そういう場合、辰玉が確証を得ていないから話せないと言うことが多い。
ならばと、夏侯惇は遅くに飯店に誘い、辰玉を質(ただ)した。
すると案の定、
「いや……それがな、まだ私には本当にそうなのか分からないんだ。私の勘違いだったとして、父上に要らぬ心配事を持ち出す訳には参らぬし……だが本当だったとしたら、異母姉は今非常に危険な状態であるし……」
「異母姉? ああ、伯來(はくらい)殿の後妻の連れ子か」
「いや、あの人と母は一緒だ。私が言っているのはその下の姉なんだ。父の連れ子で、私自身男であれば嫁に乞いたいと思う程の、本当に良く出来たお方なんだが……前に、話さなかっただろうか」
「ああ。聞いた。しかし長女と違って、ここでは次女の話は聞かないな。聞いたのもお前の口からだけだ」
嫁ぎ遅れの伯來の長女の話は、夏侯惇達武将の中でも広く出回っている。
どうも、顔が秀麗とは言えず、刺繍も楽才もいまいちで、陰口を叩くのが趣味のような女で、その他にも諸々と……尊敬する伯來には悪いが、よしや政治的な意味があろうと、彼女を娶るのは遠慮したい。
伯來もそこをちゃんと分かっているようで、長女の婿を捜しているという話は全く聞かなかった。夏侯惇や夏侯淵に勧めてきたことも無い。
辰玉が二番目の異母姉を尊敬しているのは知っていたが、実際に目にしたことは無い。外を歩いては民に小さな嫌がらせをして楽しむ長女と違い、屋敷の中に閉じ籠もっているらしい。
辰玉は溜息をつき、一口酒を飲む。
「父上も、いつかあの人に釣り合う殿方と結ばせたいとお考えだ。私も、異母姉上を幸せにしてくれる殿方を、父上と共にしっかりと選んで差し上げたいと思う。……けども、どうも最近、異母姉上────ああ、お前にとってはややこしいな。○○姉様の容態が不穏なんだ」
「罹患(りかん)したのか」
「いや……主治医に診てもらっても問題は無いと言うのだが、明らかに異常に窶(やつ)れているんだ。元々痩せている方だったけれど数ヶ月前から更に痩せ始めていて気になっていた。何かの病気を疑って訊ねてみても、○○姉様は最近太り気味だったけどやっと体重が減ったのねなんて言っているし、母も上の姉様もここのところ風邪気味だった所為で食欲が極端に弱くなっていただけだから、今は大丈夫の一点張りなんだ。だが、今思えばもっと前から○○姉様の何かがおかしかったんじゃないかって気もして────真否を探る為、誰かに探りを入れてもらうかと考えていた」
眦を下げ、目を伏せる。
夏侯惇は悶々と悩む辰玉を見つめ、「ならば」と口を開いた。
「俺が探りを入れてみよう。その方がお前も安心出来るだろう」
「……本当か。それは、助かる。とても、助かる」
辰玉は唯一無二の親友だ。
伯來は夏侯惇の目指す理想の武将だ。
二人の為になることならば、進んで力になろう。
ならば明日の昼にでも様子を見てきてやると言うと、辰玉は安堵したように笑って深々と頭を下げた。余程異母姉のことが大切なようだ。
男であったなら娶りたいと言った程だ、長女よりも魅力のある女性なのだろう。
武将にとって、子孫を残す以外に、妻の内助の功は存外大きいものだ。
そう老将が語っていたのを、思い出す。
辰玉の異母姉も、器が器なら、いつか本人もまだ見ぬ夫にそのように言わせるのだろうか。
‡‡‡
辰玉に教えられた抜け道────幼い頃、こっそりと屋敷を抜け出す際に壁に穴を開けたのが、未だに気付かれずそのまま残っているのだそうだ────から庭に侵入し、辰玉に教えられた屋敷の何処からも死角になっている生け垣の影に隠れる。
進入してすぐに回廊を長女と伯來の妻が通過した。
次女を見たのはそれからややあってのことであった。
勿論、最初は次女だとは思っていない。思える筈がなかった。
「……あら、小鳥さん。今日はお友達と一緒なのね。今日も可愛い歌声を聞かせてくれるのかしら」
覇気の無い声。
夏侯惇は生け垣から顔を出し、その姿に瞠目した。
なんという姿だ。
下男よりももっと粗末な衣から覗く四肢はぞっとするくらいに細い。惨い痣が袖の下からちらつき、今まさに折れてしまうのではないか不安を駆り立てる。
まさか……彼女が?
いや、そんなまさか。
否定する彼を裏切り、長女らが歩き去った方から怒鳴り声が聞こえた。
「○○! 何よこの埃は!? 掃除は絶対に手を抜くなと言っていたでしょう!! そんなことも出来ないの!?」
「あっ……ごめんなさい姉上。そちらはまだなのです。昨日は風が強くて花が散ってしまったから、先に庭を掃除してしまおうと────」
「言い訳は要らないわ。良いから早くあっちの掃除をしなさい! 本当にあなたは躾がなっていなくて困るわ……」
「ごめんなさい。ただ今そちらに向かいますわ」
○○。
彼女はそう呼ばれた。
ではあの見窄らしい、酷い有様の娘が、伯來に大事にされ、辰玉の敬愛を受ける良く出来た次女ということになる。
とても貴族の娘には見えないではないか!
どうなっているんだ、この家は。
辰玉や伯來は、この状況を知らない。長女らが悟られぬように手を回していたのだろう。
一体、いつからだ? いつからいつまで、この家はこんな状態だった?
このような有様を辰玉が見たら────大変だ。
夏侯惇は胸の内が沸き上がる。怒りだ。
曹操軍随一の武を誇る伯來の妻ともあろう女が、伯來の娘ともあろうと言う女が、身内を奴隷のように扱うなど!
次女が二人と血が繋がっていないのは辰玉との話の中で何度か出た。
けれどもだからといって、この状況は異常だ。伯來や辰玉────伯家の恥だ。
辰玉の疑念は、本当だったのだ。
夏侯惇はたまらず舌を打った。
と。
「あら。こんにちは」
「!?」
○○が、生け垣を覗き込んできた!
夏侯惇はぎょっとして見上げ、固まった。
馬鹿な、何故気配に気付かなかった?
この女性は武将でも何でもないではないか。
それなのに、自分が、何故……。
狼狽(うろた)える夏侯惇を眺め、○○は屋敷の方を見やって生け垣の影に入り込んできた。
女性が間近に座り込んできたものだから夏侯惇はうっとなって仰け反り、○○から逃げようとした。
「驚かせてしまってごめんなさいね。辰玉ちゃん……あ、私の妹が隠れているんだと思って叱るつもりでそっと近付いてきたのだけれど、間違えてしまったの。あなたは、壁の穴から迷い込んできたのかしら」
「か、壁の穴……」
「小さい頃に妹がね、壊してしまったの。冒険心が強いお転婆さんだったから良く屋敷から抜け出していて……ほら、これをあげるから、早くお家に帰りなさい。ここで見聞きしたことは私とあなたの秘密、ね?」
そう言って○○が夏侯惇に持たせたのは少ない金だ。
「これは……」
「今日はね、ここから近い飯店でとっても美味しいお菓子が売られるの。それを買って、お友達とお食べなさい」
「いや、貰えない」
「あらあら、良いのよ。お姉さんはね、今減量中なの」
とてもそうには見えない。
夏侯惇がそれ以上拒もうとすると、○○は顔を寄せて人差し指を夏侯惇の唇に当てた。
「……!」
「歳上のお姉さんの言うことは、ちゃぁんと聞かないと駄目ですよ」
間近で、吐息が顎にかかる。
途端全身が燃えるように温度を上げた。
どくどくと心臓が異様に騒ぎ出し、双眼も窶れた○○の顔から逸らせなくなる。
そのくせ、目が合うと頭の中が痺れたようになるのだ。
これは一体何の反応なのか。
分からずに混乱していると、○○は微笑んで立ち上がった。
夏侯惇の頭を撫で生け垣の影から出る。
「これからも辰玉ちゃんと仲良くしてちょうだいね」
「え……」
○○は悪戯っぽく笑って片目を瞑ってみせた。
痺れを切らして現れた継母に髪の毛を掴んで引っ張られ連行されていった。痛いと訴えれば、長女が何かで脇腹を殴りつけた。女の腕力とは言え、下手をすれば内臓に損傷があってもおかしくない。
夏侯惇はそれでも鳥達に笑顔を向ける○○を潜みつつ見送りながら、また舌を打った。
○○に持たされた金を握り締め、その場を離れた。
壁の穴を潜り、大急ぎで向かうのは鍛錬場である。
兵士達の鍛錬を見ていた辰玉に歩み寄ると、彼女はさっと顔色を変えた。
夏侯惇はつかの間逡巡し、○○のことを耳打ちする。
更に青ざめた辰玉に、自分が悪い訳でもないのに罪悪感で胸が痛む。
「……母上達が……○○姉様にそんなことを……」
「伯來殿に俺から報せるか」
「いや……それは私が。夕方に詳しい話を聞かせてくれ」
辰玉は夏侯惇に頭を下げ、鍛錬に戻った。
夏侯惇はそれを暫く眺めていたが、ふと空を見上げ、身を翻す。
城を出た彼が歩いているのは、つい今し方通った、伯家への道である。途中の飯店で菓子を買い、彼は、三度伯家の壁の穴をくぐった。
生け垣の影で○○が庭の掃除に戻ってくるのを気長に待っていると、彼女は脇腹と右足を庇いながら姿を現した。
今度は彼女に見つかる意図を持って顔を出すと、○○は目が合うなり目を瞠り、困ったように微笑んだ。周囲の様子を探って生け垣の影に入ってきた。
「まだここにいたのね。辰玉ちゃんに似ては駄目よ」
「お見逃しいただいた礼に、これを」
今度は夏侯惇が○○の手を取り、金を手渡す。その上に、飯店で買った菓子を載せた。
「あら」
「金はいただいた額のままお返しします」
「嫌だわ。私、また太ってしまうわ」
「……」
夏侯惇は○○の手首を掴み、袖を捲り上げた。
袖の下は、無惨なものだ。あまり長く見ていられるような状態ではなかった。肌の色が分からない程に痣が埋め尽くし、火傷痕も幾つか見受けられる。
これが、伯家の姫君の腕だろうか。
いいや、そんな筈がない。有り得ない。
夏侯惇は○○を見上げ、問いかけた。
「○○殿。あなたはこれでよろしいのか」
「これでよろしいのか、とは?」
「母君と姉君にあのような非道な仕打ちを受けていて、辛くはないのか」
「辛くはないですよ。母上のお腹の中にね、新しい赤ちゃんがいるの。悪阻も酷いようだから、きっと待望の男の子。姉上は家事が少々苦手のようだから、私が、屋敷になかなか戻れない父の代わりに出来る限りのことをして差し上げないと」
赤子が生まれるのが今から待ち遠しいと言わんばかりに、○○は笑う。
この女性は、気が狂(たぶ)っているのか。ちらりと思う。
夏侯惇は○○を見つめ、目を細めた。
彼の心を読んだのか、○○は夏侯惇の頭を優しく撫でた。
「あなたはとても優しい子ね」
でもその優しさはお嫁さんになる方に向けてあげてね。
穏やかに言い聞かせてくる親友の異母姉。異母妹の友人だから、彼女は夏侯惇にも姉のように接してくるのだろう。
そう思うと、胸の奥底でじわじわと首を擡(もた)げてくるものがある。
不満、だ。
夏侯惇は口を開いた。
「なら、俺があなたを娶ると言えば、あなたを気遣っても良いと?」
「え?」
○○は目を丸くした。
ややあって、頬を赤く染めて口を手で覆った。
その反応を見て、夏侯惇ははっと口を閉じた。
な、何を言っているんだ、俺は!
視線を逸らし、冷や汗を流す。
「まあ……辰玉ちゃんは、あなたのことを恋愛事にとても疎いと言っていたのに……」
「いや、○○殿……これ、は、」
「────○○!! ○○!!」
庭に響いた声に○○がはっと顔を上げる。生け垣の影から顔を出し、慌てて夏侯惇に菓子と金を持たせ飛び出す。
その時も、顔は少し赤いままだった。
夏侯惇は声をかける間も無く、彼女を見送るしか無かった。
それからすぐに怒鳴り散らす長女の声と謝罪する○○の声を聞き、苛立ちを覚える。
伯來が婿探しを真摯に考えてやり、辰玉の尊敬する程の女性が、あんな二人の奴隷として潰されて欲しくない。
やはり、このまま放ってはいけない。
だが部外者の自分に何が出来るというのか────。
『なら、俺があなたを娶ると言えば、あなたを気遣っても良いと?』 先程の自分の言葉を思い出す。
自分でも分からない。
俺が、○○殿を娶る────衝動的だったとしても、そんなことを、言うなどと。
○○は、恐らくは初めて言われたのだろう。夏侯惇もあんな恥ずかしい言葉、言うつもりは毛頭無かった。ただ彼女の状況をどうにかしたいと思っただけだったのだ。
○○は、今日初めて姿を見たばかりだ。それも、女性として魅力の衰えた弱々しい姿で……。
ああ、けれど彼女からは、甘い、良い香りがした────。
「……ッ!!」
鼻孔に蘇る匂いに我に返った夏侯惇は鼻を摘んだ。深呼吸を繰り返し、ゆっくりとかぶりを振る。自身を落ち着かせ、冷静さを取り戻そうとした。
しかし、黙らせる目的で間近に迫って、夏侯惇の唇に指を当てた○○の顔が、油断するとぱっと浮かぶ。
思えば親友以外に異性にあんなにも接近されたのは○○が初めてではないだろうか。
あの発言は、その所為だろうか。
「……どうしたのだ、俺は!」
ただ辰玉達の力になりたかっただけではないか!
夏侯惇は呻くように、漏らした。
暫くは悶々として、その場を離れられなかった。
彼はこの数日後、伯來を通し○○に求婚する。
辰玉からすでに○○の冷遇を聞いていた伯來は、○○が屋敷を離れ、自身も目をかけていた辰玉の戦友に嫁ぐことに、大層安堵したと言う。
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