▼時計屋様
○○が真摯な顔をして侍女達を呼んだ。
日頃から可愛がって止まない主人の常とは違う様子に、侍女達は一様に息を呑み彼女の発言を待つ。
○○は両手の指を交差させ、暫し視線をさまよわせた後、意を決して口を大きく開いた。
「わ、私……随分進歩出来たと思うのです」
うっすらと頬を染めて言うものだから、侍女達ははっと口を押さえる。
それが意味するところは────ただ一つしか無いだろう。
趙雲との関係である。
「出来ることなら、あと一歩前進したいと思っているのです」
間違い無い。
○○様が、趙雲様との関係に積極的になろうとしていらっしゃるのだわ! なんていじらしく愛らしいことでしょう!
侍女達は歓喜に色めき立った。
よく世話を焼いてくれる侍女達の様子を見、○○は喜んでくれているのだと笑みをこぼす。すると躊躇いがちだった語気もやや強まり、はっきりと意志を伝えた。
「良かった。皆に反対されたらどうしようと思っていたのです」
「そんな、そんな! わたくし共はいつでも○○様のお味方にございますよ。○○様はわたくし共の自慢の主ですもの。その○○様が積極的になられて、嬉しくない筈がごまいざせぬ」
○○は嬉しそうに潤んだ目を細めた。
だが────極まった空気は彼女自身の言葉で凍り付くのだ。
「ありがとう。それじゃあ、行って参ります」
「はい! ……って、え? ○○様、一体何処に行かれるのです?」
「一人で、市場に……」
お義姉様の二人目ご懐妊のお祝いの品を選びに!
うきうきと言い放つ○○に、侍女達が固まったのも一瞬。
屋敷内に、数人のつんざく悲鳴が響き渡った。
‡‡‡
『……ああ、悪い。趙雲。お前を親友と見込んで頼みがある』 昨日、妻の懐妊祝いだと共に酒を呑んだばかりの○○の双子の兄乾誕(けんたん)が疲れ切った顔をして趙雲を訪れたのは、つい先程のことである。
用件は○○のこと。
どうも、義姉の懐妊祝いの贈り物を選びに、《一人で》外に出かけてしまったらしい。侍女や使用人が必死に、血眼になって止めてもまるで聞いてもらえず、嬉々と飛び出して行ったそう。
直後の屋敷の騒ぎようが目に浮かぶ。
○○の家は、この双子、特に○○に異常に過保護な人間ばかりだ。両親は倒れていないか訊ねてみたが、どちらも今寝台の中でうんうん魘(うな)されているらしい。
普通、良家の姫は一人か二人は共を付ける。
だが○○は単身、貯まる一方の小遣いを持って出て行った。
比較的ましな方の乾誕も、さすがに城にまで駆け込んできた化け物の形相の侍女達────それでもついてきては駄目という○○の命令に従ってはいるらしい────に泣き疲れ、さすがに放置は出来なかったのだった。
自身が行くのではなく趙雲に頼むのは、一人で何かを成し遂げたいと一念発起した妹の成長や義姉の懐妊祝いを自分で選びたいという気持ちが嬉しくて、出来うる限り尊重してやりたいからなのだろう。
趙雲は二つ返事で承諾した。代わりに仕事を請け負うと言ってくれた乾誕に礼を言い、足早に街に出た。
女性に贈る物と言えば、ある程度は限られてくる。
行き慣れた道を、町民と挨拶を交わしながら探して回っていると、さほど時も経たずに見慣れた小さな彼女を見つけた。
……溜息が出た。
「まあ、凄いのですね。普通の布にしか思えないのに」
「お姫様。そこがこの商品の壷ってとこなんですわ」
「壷? いえ、これは服であって壷なんて……」
「いやいや、そういう意味じゃなくて、この服で一番重要な点ってこと! 見た目は普通の服。なのに、水がかかっても濡れやしないってのは、凄ぇことだと思わねえか?」
「確かに。これでは皆さん、水に触れると濡れて、汚れてしまうと思ってしまいますね。そうなると……ああ、本当。凄くびっくりしてしまいます」
「そういうことさ! さ、綺麗で可愛らしいお姫様には特別価格で売ろうじゃないか。どうだい? 欲しくないかい? こんな逸品、滅多に見られるもんじゃねえよ」
「まあ、どうしましょう……これを贈ったらお義姉様は喜んで下さるかしら────」
「────もっと別の物を贈った方が良い」
「あっ」
立ち売りの商人と○○の間に腕を差し込み、趙雲は商人を睨めつけた。
商人は、ぎくりと身を強ばらせる。その商人とは面識がある。以前にも似たような商売をして趙雲に二度も見咎められた奸商(かんしょう)であった。
あれだけ警告したにも関わらず、懲りもせずに再び悪徳商法に手を染めているとは。
しかも彼が騙そうとしたのは趙雲の婚約者だ。
「趙雲様」
「こ、これは趙雲様じゃあないですか……、へ、へへ……」
冷や汗がだらだらと流れ出す。
趙雲は彼に笑って見せ大剣を抜いた。悲鳴を上げて仰け反った咽元に切っ先を突きつけ、厳しい声を浴びせた。
「奸商から足を洗え、次は無いと、俺はそう言った筈だ」
「な、何ですか藪から棒に……俺は普通に商売していただけですよ……」
「そうか。ではこの服を濡らしてもらおうか。水なら何でも良いのだろう。お前の唾液でも垂らして見せろ」
奸商は顔色を変えた。
周囲に水を扱うような店が無いと調べた上で出店しているのだろう。だが唾液も液体だ。
奸商は青ざめ、ぶるぶると震え出した。
それを見た○○は、剣呑な空気に不安げに奸商と趙雲を交互に見、おろおろしている。ついさっきまで彼の話を鵜呑みにしていたところに、急に趙雲が現れて、騙されていたのだと分かって困惑も大きいだろう。
奸商がそのまま黙りこくっているうちに、騒ぎを聞きつけた巡回の兵士が駆け寄る。
「趙雲様。これは一体何事ですか」
「以前話していた奸商だ。また客を騙そうとしていたところに居合わせたのでな。城で話を聞いてくれ」
「はっ」
「さあ、来い!」
「……」
奸商は一層血の気が引き、土気色。
憎らしげに趙雲を睨めつけながら、兵士達に従った。
彼らを見送り、趙雲は溜息をつき○○を見下ろした。
何故か彼女は奸商に同情的な眼差しを向けている。
……何を考えているのか、分かってしまう。
「○○」
「あの方……余程お金に困っていらっしゃったのですね。でしたらそう仰っていただけたら、ご協力致しますのに……」
「……」
違う。そうじゃない。
身分を考えても、性格を考えても、彼女は一人で市井に出るべきではない。必ず、騙されぬ人間を付けておくべきだ。
これが彼女なりの《自立の一歩》なのだろうけれど、的違いである。
趙雲はそうではないとやんわりと否定した。が、○○はきょとんとするばかりでまるで焼け石に水だ。彼女はまず疑う必要性から説かなくてはならない。それも、膨大な時間をかけて。
それなら周囲が気を付けてやった方が遙かに効率が良いし、確実である。
趙雲はすぐに諦めた。
「……ところで、何をしていたんだ」
○○はつかの間ぽかんと黙り込み、ようやっと思い出した。
「そうでした! 私、お義姉様のご懐妊祝いの贈り物を探しに来たのでした。では、趙雲様、急ぎますので失礼致します!」
「俺も行こうか?」
そう言うと、彼女は趙雲を見上げ、はっとして首を左右に振った。少し大袈裟なくらいの拒絶ようだ。
「大丈夫です、それでは失礼致します!」
○○は深々とお辞儀をして、ぱたぱたと駆け出す。珍しく、目に見えて慌てていると分かる姿だ。
趙雲は伸ばしかけた手を下ろし、苦笑が浮かんだ。
やむなく、距離を置いてついて行くことにする。
どうせ、彼女には気付かれまい────。
‡‡‡
○○は、様々な店を見て回った。
それらが全て人の良い店主であったのは、幸いだ。町民達が集い談笑し合う定店(じょうみせ)に惹き寄せられてくれて良かった。定店の店員なら、度々趙雲と歩く○○の姿を見ている筈だ。親身に対応してくれる。
○○は人見知りではにかみ屋だ。
それでも必死に自分の言葉で要望を伝えている姿は、遠目からもいじらしい。時折町民に声をかけられるが、彼らもまた事情を話せば理解してくれた。存外、○○の家の過保護さは町民にも広く知られているのだった。このことを、○○は全く知らない。
町民達にねぎらいの言葉をかけられつつ○○を追いかけ見守っているうち、趙雲は疑問を抱いた。
兄嫁の懐妊祝いの品を買う、○○はそう言っていた。
しかし彼女は寄る店寄る店で必ず何かを買っているのだ。
あまりに多すぎる。
やがて両腕で抱えきれないからと、菓子店の店主が息子達に運ばせるにまでなった。
すっかり恐縮して平謝りする○○に、店主の息子達は笑って声をかける。○○の周囲を固めるようにして歩き出した。
彼らも趙雲とは顔見知りだ。○○が婚約者であり、乾誕の妹であることも知っている。
このまま任せても問題は無いだろう。
されど疑念を抱えたまま戻るのも、どうにも気になって仕事に手がつかないような気がする。
念の為と心の中で言い訳しつつ、趙雲は彼女が無事に屋敷に送り届けられるまで見守った。
結局、彼女の多い買い物の意味は、分からぬままだったけれども。
その理由が分かったのは、五日後のことである。
‡‡‡
暇を作って○○の屋敷を訪れると、彼女は恥じらうよりもまず趙雲の訪問を喜んだ。
二十歳を超えてもなお幼い純粋な笑みが好きだ。この無垢さこそ○○の一番の魅力である。
「お勤めご苦労様です、趙雲様」
「ああ。あれから贈り物は買えたか?」
「はい。ちゃんと、全て買えました」
『全て』
彼女は、はっきりとそう言った。
隠すつもりはないらしい。
「全てとは、義姉君への贈り物だけではなかったのか?」
「はい。一緒に、別の方々にも贈り物をしようと思いましたので」
婚約者と部屋に二人きりでいると今でも恥じらいが出てくるのに、今は喜びが強いらしい。大急ぎで部屋の隅の棚に駆け寄り中を漁る○○の背を見つめ、趙雲は微笑んだ。
くるりと引き出しを開けたまま小走りに戻ってきた彼女は、胸に大事そうに小さな包みを抱えている。
にこにこと嬉しそうな彼女は、両手に持った包みを勢い良く差し出した。
「どうぞ、趙雲様」
「ありがとう。中身を見ても?」
問いかけると、○○は一瞬動きを止めた。俯き、はにかんで首を左右に振る。
「そ、それは恥ずかしいので……私のいない所で見て下さいまし」
「ああ。分かった。それまで楽しみにしていよう」
頷くと、彼女は安堵したように、柔和な笑みを浮かべた。
「俺の他にも贈り物を?」
「はい。両親と、お兄様と、侍女や使用人の皆さんに。そうしたら皆さんにとても喜んでいただけて」
「そうか。それは良かったな。だがどうして、他の者にまで贈り物をしようと?」
問いかけると、○○は両手を合わせ。
「私、皆さんにはいつもご迷惑をおかけしておりますから」
と。
どうやら、彼女なりの恩返し、ということなのだろう。
こんなことをされて、○○を見守る者達が喜ばない筈がない。
皆、狂喜乱舞したであろう。その光景も、目に浮かぶようだ。
○○の頭をそっと撫でてやると、○○は笑声を漏らす。
「いつもありがとうございます、趙雲様」
「ああ。俺の方も、ありがとう」
○○からの贈り物を大事に懐に入れ、乾誕の嫁に贈り物をしたのかと訊ねた。
真っ先に贈ったとすぐに返答が返ってきた。
義姉がわざわざ乾誕と共に屋敷を訪れ、面と向かって礼を言ってくれた。やや膨らみ始めた腹も撫でさせて貰えたという。
「ややこが動くようになったら、遊びに来なさいと仰って下さいました。その時にまた触らせて下さるんだそうです。今から、とても楽しみです」
「その時は、侍女達も連れて行くと良い」
「はい。彼女達にも、命を感じて欲しいです」
うっとりと目を細める○○は胸の前に両手を組んで夢見心地で語る。
「女性とは凄いのですね。お腹の中に新しい命を宿して、産み、一人の人間となるのですもの。私もいつかきっと、お義姉様と同じく、新しい命を宿して繋げていくのですね。早く、私のお腹に宿ってくれる命に出会いたいです」
感嘆と羨望に潤む瞳を揺らし、○○は熱っぽく語る。
本人は分かっているのだろうか。
○○の言葉は、捉え方次第では婚約者に対する求婚とも思えた。
……言わぬでも良いか。
いつか必ず、そうなるのだから。
愛おしい無垢な婚約者の頭を、趙雲は再び撫でた。
○○は、嬉しそうに、擽(くすぐ)ったそうに、笑った。
城に戻り、包みを開くと、
龍をあしらった首飾りが姿を現した。
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