▼紗羅様



 あれだけ必死に練習したバイオリンも、もう意味が無くなってしまった。
 想い人の結婚と同時に練習する意味を失ってしまった。
 しかも彼女自身ルシアのことなど覚えていなかったのだ。これまで彼女の為にしてきたこと全てが無駄になったと、ルシア自身が認めてしまった。

 こうなれば自棄だ、とむしろ練習に躍起になったのは、まあ良かった。
 だが練習しても思うように上達しない。向上してどうしたいとか、何の為に弾きたいのか、バイオリンの演奏に目的が何も無いからだ。

 このまま自然に触らなくなるんだろう……そのことにまだ未練があるのは幸いなことだった。バイオリンが好きだというのは、まだ変わっていない。

 彼女は幸せになる。それはルシアにも分かる。
 彼女の幸福は非常に喜ばしいことだ。今となっては素直に口にして祝えるし、心からそう思う。

 けれども────大事なものを一つ失って、ルシアは少しだけ怠惰になったように思う。
 ザルディーネの王立学園での生活にもいまいちハリが無い。以前よりももっとつまらなくなった。
 練習に利用していた音楽室にも、最近はあまり立ち寄らない。エリクに物言いたげな視線を向けられることもあったが、無視をした。いいや、逃げた。

 どんどんバイオリンから離れていく自分が、どんどん怖くなった。
 ならばまた弾けば良い。

 今度は、何の為に?

 分からない。思いつかない。見つからない。

 そんな状態でありながら通い慣れた音楽室を訪れたのは、ほんの気まぐれである。
 そこに先客がいたのには、とても驚いた。
 しかも自分と同級の、有名人だったとなれば、驚きも一入(ひとしお)である。

 その人物は、男子の制服を着ている。
 だが明らかに胸にそれなりの膨らみがあるし、腰の線も丸く膨らんでいる。
 更には薄いが化粧を施しているから、一見して女と分かる。
 棚に丁寧に並べられた楽器────勿論どれも高価な物である────を眺めていた彼女は、ルシアに気付くと波打つ長い黒髪の下でリラ色の双眸が丸く見開かれた。


「あなたは……確かファザーンのルシア殿であられるか」

「ああ。そっちは、えーと……ランドルア、だったか」

「はい。○○・シュラーニ・ランドルアと申します。お初にお目にかかります」


 こちらは、何度か遠目に見かけたことはあるのだけれど。
 ルシアは反応に困った。

 ○○は礼儀正しく一礼する。
 女性らしいが、研ぎ澄まされた表情は何処か雄々しさも感じられる。

 ○○・ジョバンニ・ダイデール────否、○○・シュラーニ・ランドルアは、女でありながら男装し、学園に入学してきた。
 前者は偽名である。当時はファザーンの小さな街の出身であると学校側には言ってあったが、ベルントとハンネスの反乱の後、彼女がルナールの大貴族ランドルア家の一人娘であることが発覚し、元々浮いていた存在が悪い意味で一層目立つようになってしまった。

 ランドルア家はルナールでも地位の高い、皇族の信頼が非常に篤かった由緒正しい騎士の家系である。
 長子に女が生まれても何処にも嫁がせずに男として育て、国の為に剣を磨き上げる特異な家だ。当主は才だけで選ばれる為、家系図を遡れば歴代当主は男女の名前がランダムに並ぶ。
 体裁よりもまず皇帝と国の為に動くことを最大の名誉としてルナールに身を捧げる家だからこそ、全てランドルア家の存在は、ルナール在りし時には大きかった。ファザーンも、歴史の中でランドルア家率いる騎士団には何度も辛酸を嘗めている。

 その家が、ルナールの要人ハンネスの反乱を事前に見抜き、阻止出来なかったのは当主が病床に臥せていたが故のこと。当主自身の口は周囲には何も語らぬうちに、皇帝の後を追うように自刃し、直前にランドルア家の失態の謝罪に加え、家族や使用人達の助命嘆願を真摯に書き綴った手紙を密やかにマティアスに送っていた。

 ファザーン王座に就いたマティアスは何事も無かったかのように、遺されたランドルア家の人間を咎めなかった。それどころか謝罪と共に譲られたランドルア家の財産を返還し、当主亡きランドルア家への支援を約束、その上、ルナール人であることを隠して密かに王立学園に通っていた次期当主一人娘○○・シュラーニ・ランドルアの後見人にもなった。
 おかげでこれまで通り、○○は勉学に励むことが出来ている。……まあ、より人が寄りつかなくなって、完全に孤立しているのはマティアスにもどうにも出来ぬことだが。

 ルナール人ということで嫌がらせも受けていると聞く。
 それでも勉学に励む彼女の精神の強さにはルシアも舌を巻く。

 ファザーン王からの温情から、○○はルシアに対して粛々とした態度を取る。片膝をつきこうべを垂れた。


「お、おい……止めろよ。そう言うのはオレじゃなくてマティアスとか、アルフレートとかにやるべきだろ」

「いえ。ランドルア家にとってファザーン王族の方々も、我が命よりも尊き存在なれば」


 ○○はルシアを見上げ、真面目に答える。

 ルシアは後頭部を掻き、何か話題を変えなければと頭を回転させた。こういうのには慣れている筈なのだが、相手が同年代の少女であり、噂程度でも辛い立場に置かれていることを知っているだけに罪悪感で胸が痛む。


「ええと……ここにいるってことは、何かの楽器が得意……ってこと、だよな?」

「ああ、いえ。自分は、楽器は弾けません。ここに来ましたのは、また聴けないだろうかと思ってのことです」

「聴くって何をだよ」

「恐らくは、バイオリンではないかと。少し前までは毎日、この時間になると誰かが練習をしていたのですが、最近は頻度が減っていて……今日ならもしやと思ったのですが、外れてしまったようです」


 至極残念そうに苦笑する○○に一瞬、心臓がきゅっと絞まったような気がした。
 そのバイオリンの奏者は間違い無く自分だ。
 平静を装い、「それは残念だったな」と嘯(うそぶ)く。

 ○○は首肯した。


「はい。ずっと、あの音色に救われていただけに……聴けなくなったのはとても残念です」

「救われていた? 何で」

「……どうも、女の私が、女であるからと男以上に勉学に励み、男以上にこなそうとする姿勢が、面白くない方がいらっしゃるようで」


 伏せ目がちになり、長い睫毛が影を作る。

 ルシアは目の色を変えた。
 信じられなかった。まさか、自分のあの上手いとも言えないバイオリンの音色に、救われていたと、彼女の口から告げられるなど。
 じわり、と胸が暖かくなる。何かが埋められかけているような気がする。


「あ……っと、その、お前の言うバイオリンの音色ならオレも知ってるぜ。た、たまに聞こえてたからな」

「えっ……」

「さっ、さすがに誰が弾いてるのかまでは知らねえけどな! は、はは……」


 ぎこちなく嘘をつき、ひきつった笑みを浮かべる。

 ルシアの怪しい態度など気付きもしない○○は、目を輝かせた。嬉しそうに笑うと、ふわっと幼くなる。一瞬だけどきっとなった。


「そうでございましたか。それでルシア殿も、ここに。私だけかと思いましたが、それは、とても嬉しゅうございます」

「あ、はは……そ、そうだな」


 いや、別にあの下手くそなバイオリンを聞きたくてここに来た訳ではないのだけれど。
 いや、それ以前に今目の前にいるオレがバイオリンを弾いていた本人だけれども。
 冷や汗を流しつつ、ルシアは赤の他人を演じる。

 ○○は、ルシアが大恩ある王族であることもあるだろうが、どうも純粋な性格らしく、見た目と違い真否を見極める能力にやや乏しいらしい。こんなにも露骨な態度のルシアを疑う様子は一切無く、嬉々として語り始めた。


「聴いた方は誰もがまあまあの腕前であると評されますが、私はそれでもあの音色に乗った奏者の方の気持ちがとても尊く思えました。我が父も母国と同じ程に音楽が大好きで……お世辞でも上手いとは言えなかったのですが、バイオリンを好んで私に弾いて見せて下さいました。下手であっても、音色に気持ちは乗る。言葉で表すことが苦手な私の声の代わりに、お前達に気持ちが少しでも伝われば、父は嬉しい。私の幼い頃、父は笑ってそう仰って下さいました」


 だから私は、誰かの為に、通行人に過ぎない私にも分かる程に気持ちを込めて弾かれているその方を、父と同じ程に、尊敬しています。
 ルシアは顔を逸らし、唇を曲げた。邪気の無い純粋な賛辞がとても、恥ずかしい。


「それだけ強く想う人がいるのは、とても素敵なことなのでしょうね」

「ま、まあ……悪い気分はしない……だろう、な」

「私は、そういった方がいないので理解することは出来ませんが、とても羨ましいです」


 言いながら浮かべた笑みの、なんと寂しげなことか。
 完全な孤立状態にある○○が、どんな気持ちで過ごしているのか、ルシアには分からない。
 度重なる嫌がらせが堪えていない……訳ではなさそうだ。
 男装している女性という時点で貴族の子息達の暇潰しの悪戯にも耐えていたのかもしれない。

 それが、ルシアのあのバイオリンに救われていたと言うのなら、今、彼女はどんな気持ちでいるのだろう。
 それからは、自分でも意外な程自然に身体が動いた。
 棚を開け、一挺(いっちょう)のバイオリンを取り出す。


「え、あの……?」

「……」


 ルシアの唐突な行動にやや驚いた○○を一瞥し、バイオリンを弾き始める。

 ○○は不思議そうな顔をして、しかし何も言わずにルシアの姿を眺める。
 暫く聴いているうち、何かに気付いたようだ。

 バレたかもな。
 ひやりとしたのは一瞬のこと。ただ、この時だけ、弾くことに意味があるような気がして、手は止まらなかった。

 頭にある一曲全て弾き終えると、控え目な拍手が寂しく音楽室に響いた。


「ルシア殿も、バイオリンをお弾きになるのですね」

「あ……ああ、まあな」


 ……気付いていない?
 さすがに気付くだろうと思っていたのに、彼女は感心した様子でルシアを見つめてくる。じゃあさっき何に気付いたんだ。
 軽く肩透かしを食らった心地のルシアの持つバイオリンに視線を落とした○○は、


「しかし驚きました。私が聴いていたバイオリンの音色と、少し似ておりました」

「そ、そうかよ……」


 それで何故気付かない!
 口角をひきつらせ、ぎこちなく頷いた。

 ○○は目を細め、微笑む。


「誰かの為に弾いておられるのですね」

「は……?」

「優しい気持ちが微かに伝わってきました。ルシア殿の気持ちがお相手に伝われば良いですね」

「え? あ、ああ……」


 強いて言うなら、今のは彼女に向けて弾いたものだったのだけれど……どうも勘違いされている。
 ルシアはまた後頭部を掻き、苦笑を浮かべる。
 まあ、ちょっとでも元気が出たなら良しとするか。
 嬉しげに微笑む○○を見ていて、悪い気分ではない。また、少しだけ胸の中が埋まったような気がした。

 バイオリンを見下ろし、我知らず笑う。


「……な、なあ。ランドルア」

「? はい」

「気が向いたら、オレが弾いてやるよ。オレも、練習したいと思ってたところだしさ」


 最後まで本人ではないと貫き通し、ルシアはバイオリンを掲げて見せた。

 途端、○○はそれまで以上に嬉しそうな顔をするのだ。日の下で咲き誇る花のような無邪気な笑みは、○○の雰囲気を柔らかくする。


「有り難き幸せです」

「お、おう……ま、まあオレにも予定ってものがあるからな。そうそう毎日来れる訳じゃねーからな。それでも良いってんなら」

「いえ、廊下で聴ければそれで構いません」


 弾いてやるって言ってるのに、廊下で聴くつもりかよ。
 言語が違うのか、いやそんな訳ないよなと頭の中でつまらない問答をして、ルシアは細く吐息を漏らす。


「別にオレは教室内で聴いたって気にしねえよ」

「いいえ。その音色は、あなたの気持ちが向けられる方が間近で聴くべきです。私は外で聴くだけで十分です」

「……そ、そうか。じゃあ、それはそれで良いわ。好きに聴いてけば良い」

「ご温情感謝致します」


 その場に片膝をつこうとする○○を、ルシアは慌てて止める。


「だ、だからそういうことしなくて良いって!」

「いいえ。ランドルア家はファザーンに救われました。本来なれば、こうして会話をすることも赦されぬところを、ルシア殿に温情をかけてもいただきました。もし何かお困りのことがあれば、遠慮無く仰って下さい。ランドルア家の全てを賭け、お力になります故」

「マティアスが勝手にやったことなんだから、んな大袈裟なこと言われたってこっちが困るんだよ……!」


 ここは一つ、逃げるか。
 ルシアは○○の肩を叩き、バイオリンを棚に戻した。「じゃあオレは帰るから」と音楽室から逃げ出した。


「ルシア殿、ありがとうござます!!」

「だから……! ああもう良い!」


 廊下を走り、昇降口に飛び込む。
 大昔の誰かの名画の飾られた踊り場で立ち止まり、深呼吸を一つ。


「ったく……真面目過ぎるだろ。ランドルアは皆あんな奴ばっかなのかよ」


 よく今まで胃痛にならなかったな。
 呟き、心の中で否定する。


「いや、オレのバイオリンに、救われてたんだっけか」


 あんな下手くそな演奏で……恥ずかしい。
 けれど同時に嬉しくもあった。
 唐突に、自分のバイオリンに知らないところで意味があったのだと知った。

 誰かの心を救っていると、知った。

 また、バイオリンが、弾けそうだ。
 胸中に沸き上がる浮遊感にも似た感情は歓喜だ。


「○○・シュラーニ・ランドルア、か」


 音楽室に残してきた男装少女の笑顔を思い出し、ルシアは安堵したように、柔和な微笑を浮かべた。


「あいつ、笑うと可愛いのな……」


 ……。


「……って何言ってんだよオレ!?」


 そこは関係無ぇだろ!?
 ルシアの大音声が、昇降口に響く────……。



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