▼葵様
※注意!



 きっと、私の感覚は、きっと、その時だけ、きっと、麻痺していたんだろう。

 目の前に迫った赤色と、肌色と、白色と、黒色と、青色と、紫色と、黄色。


『今日はお母さん達の結婚記念日なんだから、二人でゆっくりしてきなよ』

『えー……○○が一緒なら行っても良いわよ』

『お父さんも、今年は○○も含めて三人で過ごしたいな。折角休みが重なったんだ。またいつこんな日が来るか分からない』



 それに、俺達の結婚記念日と言うだけではないだろう。
 そうよ。○○が私達の家族になってくれた大事な日なのよ。


 皆で、過ごさなくっちゃ。


 楽しい日だった。
 とても、とても楽しい日だった。
 明日には学校で幼なじみに何をしたか話して、それからすぐに授業の話や先生への恨み言を言ったり、最近彼氏が出来た幼なじみを茶化したり、新しくオープンしたクレープ屋さんに行こうかなんて話したりする筈だった。

 なのに────。

 目の前にあるひしゃげた物体は、物言わぬ。
 おかしいな。
 さっきまで、イルカって久し振りに見たわ、アシカって可愛いね、シャチってテレビで見ていたより迫力があるんだなって、笑っていたのに。
 毎日耳に触れるのが当たり前だった声が、聞こえない。

 ねえ、これは夢でしょう?
 痛いけれど、苦しいけれど、夢なのでしょう?

 目を伏せて眠れば、目覚めた時には私は日常に戻れるの。

 だって、有り得ないじゃない。
 目の前で、両親が潰れて真っ赤な物をまき散らせているなんて、有り得ない。

 大きなトラックに、乗り慣れた白色の軽自動車が潰されてしているなんて、有り得ない。

 有り得ない。

 有り得ない

 有り得ない。有り得ない。有り得ない。有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない────。



────暗転。



‡‡‡




 ○○は、竹簡を両手一杯に抱えとある部屋を訪れる。


「○○です」

『ああ』


 応えを待って扉を開ける。
 竹簡やら書簡やらの積まれた机の奥に、部屋の主がいる。視線は手にした竹簡に落とされたままだ。

 だが○○にとってはそれもいつものことである。
 机の前に座り、そっと竹簡の一つを差し出す。


「賈栩さん。郭嘉さんから、この竹簡に本日中に目を通しておいて欲しいと言伝を」

「分かった」


 賈栩は○○を一瞥し、眉間に皺を寄せた。


「……また、頼まれたのか」

「はい。皆さん、お忙しいようでしたから。勿論、私自身の仕事はもう済ませてあります」

「……」


 嘆息。
 手にした竹簡を机に置き、○○の差し出した竹簡も無造作に脇に放った。

 あ、と声を漏らすと、頭に彼の手が載る。手袋の感触が、少しごわごわしている。
 自然俯き加減になった○○が上目遣いに賈栩を見上げると、少しだけ呆れたような顔。○○でなければきっと常と変わらぬ無表情に見えるだろう。


「○○。一応は、俺専属の女官だったろう」

「ええ。ですが賈栩さん。賈栩さんは昔からほとんど仕事をくださらないので、すぐに終わってしまうんです。ですから、こうして色んな仕事をさせてもらっています。仕事が終われば自由に過ごして良いと賈栩さんが仰ったのですし」

「……そうだったかな」

「そうですよ」


 ○○は手を口元に添えて小さく笑声を漏らす。

 賈栩は一瞬視線を逸らし、ややあって吐息を漏らした。

 ○○には、自覚が無い。
 嫁ぐには丁度良い年頃である彼女の面立ちは年齢以上に大人びている。儚い影を帯びた顔はしかし頬がふっくらとして笑うとえくぼが可愛らしい。好奇心旺盛な性格故に何かに興味を持つと幼子のように目をきらきらと輝かせる。垣間見せる無邪気さは他人の庇護欲を煽る。
 だが、だからといって見目や頭脳が突出して良いという訳ではない。ごくごく普通の、地道な作業が好きな平凡な娘だ。

 決して無理はせず己に出来ることを精一杯────そんな真っ直ぐで健気な姿勢が、人を惹きつけるのだろうとは、以前の主人の義理の叔母の言葉だ。

 彼女の命令に従い、○○を側に置いて曹操軍に身を置いているが……平凡娘のお人好しに付け入る文官武官が多すぎて、正直辟易している賈栩であった。


「とにかく、あまり余所での仕事は受けずに、○○はゆっくりしていれば良い。曹操様も、依然そう言っていただろう」

「違いますよ。曹操様じゃなくて、夏侯惇将軍です」

「……そうだったかな」

「そうですよ。あ。さっきと同じやりとり」


 またくすくすと笑う。

 賈栩は目を細め眩しそうに彼女を見た。
 ぼそりと呟いた。


「……元に、戻りつつあるか」

「え? 今、何か仰いましたか」

「いいや。何でもないよ」

「そうですか。じゃあ私、この竹簡を運ばないといけないので。ちゃんと目をお通し下さいね」


 ○○は賈栩に笑いかけ、部屋を辞した。
 扉を閉めた瞬間、駆け出す。



‡‡‡




 正直、曹操軍の中に身を置くのは苦しい。
 ○○にとって、今もなお、曹操軍は○○から大事な人を奪い、その暮らしを破壊した悪魔にしか思えなかった。

 ○○は、当時賈栩の主人だった張繍(ちょうしゅう)のもとにいた、張繍の亡き叔父の妻、安恵(あんけい)という女性に拾われた。
 焼け焦げ真っ赤に染まった見慣れぬ装束をまとい、野をふらふらとさまよっていたところを、単身遠乗りをしていた彼女が見つけたのだと言う。
 当時こそ記憶喪失状態であった○○も、半年もすれば記憶を取り戻し、状況を正しく把握することが出来た。

 けれども、同時に酷い喪失感に心身を苛まれることにもなる。

 気が狂いかけた彼女を救ったのも、また安恵だった。
 安恵は○○の荒唐無稽な話を神妙に聞き入れ、信じた。
 安恵だけではない。張繍もだ。
 元々、世の奇妙なることには免疫があるから、気にすることもないと笑って、安恵は○○をいたわった。それまで通り、時に厳しく、時に優しく接してくれた。


 二人から《違う時代の人間》だと、奇異なる視線を向けられたことなど一度も無い。


 むしろ時代が違うのならばさぞ暮らしにくかろうと、こちらでもしっかり生きていけるように色んな知恵を叩き込んでくれた。それらが今、大いに役立っている。

 両親は死んだ。
 きっと向こうでは、私も死んだことになっているんだろう。誰も私が生き残っているなんて思っていない。
 だったらもう私はここで生きていく他無い。いや、生きていこう。

 そう思う私は、薄情な一人娘だろうか。

 いいや、両親ならそうしろと言う筈だ。
 馬鹿ね、あなたが死んだら私達はまた死んでしまうじゃないって笑い飛ばして。
 子より先に逝くのが親だもの、俺達はたまたまそれが早く来てしまっただけなんだから、お前は長生きしなさいって呆れ果てて。

 都合の良い夢想だろうか。
 それでも良い。少なくとも私を育ててくれたお母さんもお父さんも、そんな人だと私は思う。

 だから出来るだけ長く、記憶や心に遺(のこ)る両親と一緒に生きていきたい。
 安恵達の知らぬところで、○○はそう誓った。

 生きていくのは安恵の側だと決めていた。助けてくれたばかりか生きるに必要なことを教えてくれた、その恩返しをしなくてはいけないからだ。

 けれども。

 曹操軍が攻め寄せたのは、己の状況に前向きになったばかりの頃である。
 圧倒的な兵力を以(もっ)て現れた曹操に、張繍は即座に降伏。戦力差を考慮した賈栩の進言だった。

 曹操は張繍の降伏を受け入れた。

 ところが、だ。
 それだけで済む筈だったのが、何故か曹操が未亡人の安恵に目を付けたのである。

 安恵の《血》に興味を持ったのもまた、異様なことであった。

 ○○を救った安恵は、《混血》だった。
 この世界に来て初めて知ったのだが、この地には人間に《十三支》と呼ばれ蔑まれる、半妖の一族がいるそうだ。
 大昔世に大いなる災厄をもたらした大妖の子孫だという話は俄(にわか)に信じ難いが、安恵の頭には確かに猫の耳があった。純血の十三支が金色の瞳を持っているのに対し、混血の安恵は黒い瞳だった。

 猫の耳以外、何ら変わりが無い安恵は底抜けに明るく、夫の甥の張繍からも、その部下からも、民からも慕われていた。
 安恵が混血だったから、安恵も張繍も、○○のことを受け入れてくれたのだろう。

 賈栩も、よく安恵に遊ばれたものだ。○○は大概その場に連行されていたし、賈栩へ用事を頼まれることもあったから、自然と話すようになった。多分、安恵の策略なのだろう。

 誰からも好かれる安恵が、曹操の側妾にされると聞いた時、憤ったのは○○だけではない。賈栩だけは分からないが、張繍も、兵士達も、憎悪が極まった。

 安恵も、操(みさお)を立て、物珍しさから自身に興味を持ったのであろう曹操の呼び立てに頑なに応じなかった。
 そして、頑として貞淑な安恵に焦れた曹操が無理矢理に寝室へ侵入した時。

 彼女は自ら部屋に火を放ち自害した。

 すでにそうなることを予想していたのだろう。
 安恵から内密に命を受けていた賈栩の指揮により張繍軍が曹操を襲撃。憎悪に任せて曹操軍の武将数人を討ち取った。

 それから張繍は曹操へ対立の構えを取るが、これも賈栩によって宥められ、再びの降伏をする。幸い、軍才を買われていた上に、賈栩の働きかけもあって殺されることは無かった。代わりに、賈栩は曹操軍の参謀となった。

 ○○が賈栩専属の女官になったのは、安恵の命令だという。
 賈栩の欠点を酷く心配していた安恵は○○を緩衝材として側に置いて、なるべく上手く生きられるようにしてやりたかったのだろう。
 張繍も、曹操の懐に入った賈栩の側にいた方が、むしろ安全であると、これを許した。安恵の遺言であったこともあっただろうが、戦を知らぬ○○を慮(おもんぱか)ってのことが大きい。

 曹操の顔を見るのは今でも嫌だ。安恵を殺した相手に、敵意を表してしまう。賈栩のように無機質で淡泊でいられれば、どんなにか楽だったろう。
 あれこれと仕事を任される○○だが、曹操に顔を合わせなければならないものは徹底的に拒絶した。この態度に、断られた者達は生意気だと影で蔑むが、それでも憎悪に己が苦しめられるよりはずっとましだ。曹操も、一介の女官など歯牙にもかけぬ。それだけのことで賈栩に責めが至るようなことにもならぬ。故に、問題は無い。

 きっと、これはずっと変わらないのだろう。


「────○○……○○?」

「え? あっ……賈栩さん。こんばんは」


 顔を覗き込まれ、目を丸くする。

 いつの間にか、追想に浸っていたらしい。
 橙に染まっていた空が墨で塗り潰されているではないか。驚いた。

 口を開けて空を仰いでいると、頭に手が載る。


「考え事をするなら、部屋の中にすることだ。最近は、特に冷え込んでる」

「ああ、大丈夫です。私、北の生まれなので寒さには結構強いんです」

「……そう言って、前に風邪を引いて、城を騒がせたのは誰だったかな」

「……そうでしたっけ」

「そうだったよ」


 確かに言われてみればそんなこともあった……ような気が、しないでもない。
 苦笑を浮かべて覚えてないと嘯(うそぶ)くと、溜息をつかれた。また頭を撫でられる。

 そこで、ふと追想に耽(ふけ)る前の記憶が蘇る。


「そう言えば、夏侯淵将軍に、面白いことを言われましたよ」

「面白いこと?」

「私と賈栩さん、夫婦に見えるんですって」


 一瞬、頭に載る賈栩の手が震えた。
 賈栩も驚いたんだろうと解釈した○○は「面白いでしょう?」と同意を求める。

 しかし何故か賈栩の返答は無い。


「賈栩さん?」

「いや……俺と○○が夫婦、ね……」


 何かその後に続いたように聞こえたが、全く聞き取れなかった。
 上目遣いに賈栩をじっと見上げている○○に、賈栩は手を下ろす。


「……部屋まで送ろう。明日も、早いんだろう?」

「あ……そうでした。明日は沙元さんのお手伝いで、繕い物をしなければいけないんでした」


 賈栩はまた溜息をつく。


「少しくらい、怠けても良いだろうに」

「うわあ、賈栩さんから怠けるって言葉が聞けるなんて面白い」


 何が面白いのか理解出来ずに賈栩は眉間に一瞬だけ皺を寄せた。
 それがまた面白いのだ。
 ○○は小さく笑い、身を翻した。

 歩き出すと、やや遅れて賈栩も○○を追いかけて歩く。隣に並んだかと思えば追い越し一歩前を行く。

 自分よりもうんと高く、骨張った後ろ姿。
 ○○は目を細めて見つめ、夜空へと視線をやった。

────安恵さん。

 今はもういない彼女の名前を呼び、唇を引き結んだ。

 また追憶に沈みそうになる意識を繋ぎ止めるかの如(ごと)、不意に左手を掴まれる。
 賈栩だ。
 ○○を振り向くこと無く、○○の細い手を引く。

 ○○は賈栩を見、ほんの一瞬眦を下げた。すぐに微笑んで、賈栩を呼ぶ。


「賈栩さん。私、もう迷子になりませんよ」

「……」

「ねえ、賈栩さん。賈栩さんってば」


 賈栩は、○○の手を放さなかった。

 ○○は困ったように、口角を弛める。



‡‡‡




『賈栩。君に○○のことを頼みたいんだが、良いかな』


 茶を飲みながら、さらりと奇襲を命じたその女は、頭の耳をいじりながら賈栩に言った。

 賈栩は腕を組んで彼女の前に立っている。決して拒絶を許さない黒の瞳に射抜かれても、困ったような笑みを浮かべるだけだ。それが何処か薄っぺらいように見えるのは、彼の欠点に因(よ)るところであった。


『私が死ねば繍は曹操を憎むだろう。しかし、その前に○○のことを案じる筈だ。○○を戦乱に巻き込んではならないと私以上に心を砕いているからな』

『なればむしろ、俺の側に置かない方が良いでしょう』

『いいや。繍よりも賈栩の方が良いと、私の勘が言っているんだ』


 女は自信たっぷりに、言う。

 賈栩は呆れ果てた。元々彼女にはこういう強引なところがある。それも彼女の長所であるけれども、○○に関してはさしもの賈栩も同意出来なかった。


『出来ればお前には、私が生きているうちに○○を娶(めと)ってもらいたいんだがな』

『ご冗談を』

『いや、だってお前な、○○の前ではず───っと無表情じゃないか。素でいるじゃないか。それでいて、○○は私みたいにお前の無表情の中の微妙な変化が分かる。こんなにぴったりな嫁はいないぞ。私や繍はお前なら安心して○○を託せる』

『それは過大評価では?』

『いいや。私の、人を見る目は確かなんだ。お前なんぞよりもずっとな。とにかく、私の死後は○○をお前の女官にして側に置け。良いか、絶対だぞ。拒絶は許さないからな』


 賈栩はそこで、以前から抱いていた疑問を彼女に投げかけた。


『あなたは、何故あの娘にそこまで気を遣うんですか』

『ん? あの子の両親に頼まれたからだ』

『は?』

『いや。頼まれたとは少し違うな。深く強い切実な肉親の情が不壊(ふえ)不変の神の理を超越してあの子を私のもとへ連れてきた。私はすぐに彼らの願いを承諾したよ。昔から有り得ないモノが見えていたこの目が、その時初めて役に立ったと感じたんだ。引き受けた以上は、娘を愛する彼らの想いを裏切りたくない。出来る限りのことはしてやりたいじゃないか』


 非現実的な話に、賈栩は顔を歪める。そのような不可解な話が出るのは、何も珍しいことではない。だが今回の彼女の語調はやけに熱っぽく、感情が籠もっている。
 彼女は笑みを深め、○○をよろしくな、と快活に言い放つ。
 とても、死を覚悟した未亡人とは思えない、常なる底抜けの明るさがあった。

 この人のことは、俺には一生分からないだろう。
 賈栩は心の中でぼやき、しかし彼女に逆らうことはしなかった。

 ここで最期に逆らえば、後々、生きているうちよりもっと酷い悪戯を仕掛けられそうで、面倒そうだ。


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