▼夜叉様
長江は広大だ。
母の話によると、西南の異民族の地にある山脈から源流は始まり、そのまま江東まで伸び、大量の水を大海へと運ぶのだそうだ。
これから後、長江より北ではかの奸雄曹操が着々と領土を広げ華北を平定し、こちらにまで手を伸ばそうとしてくるだろうと、彼女は興味なさげに語って聞かせた。
そんな話を思い出しながら、幽谷は母に言われた通りに柴桑を歩く。
未だ意識が身体に上手く定着していないので、早く安定させる為に感情の赴くままに人の世界を歩いて来い。それが母の言葉だ。
気の向くままに進むと、自然と周泰や長兄がいる柴桑にまで来てしまっていた。一度連れてきてもらっただけの町だのに、道をちゃんと記憶していた自分に軽く驚く。
相も変わらず、船も荷物も、人も多い。
生粋の人間ばかりが行き交う町にただただ圧倒された。早くも、たった一人で柴桑に来たことを後悔している。
周泰達を探そうか――――否、それでは城にまで行かなければならない。狐狸一族(フーリ)に来てまだ一月も経っていない幽谷が、彼らの勤めを邪魔してしまうのは憚(はばか)られた。自分のような者が頼っても良いのか、不安もある。
きょろきょろと周囲を見渡して人気の少ない場所を探そうとすると、不意に横合いから恰幅(かっぷく)の良い女性が現れた。
彼女は困惑する幽谷を見上げてにっこりと笑った。
幽谷は首を傾ける。
知り合いではないのは確かだ。以前柴桑に来た時の記憶に、彼女はいない。
となれば、この隠していない獣の耳が原因だろう。ここでは狐狸一族は神の一族と崇められ、四霊は天帝から遣わされた存在として、慕われているのだと兄の一人に聞いている。
「あの……」
「こりゃあ珍しい! 狐狸一族様に女の子がいるなんて! しかも、四霊様だなんてなんて縁起の良い! 今まで何処に隠されてたんだい」
「え、ええと、私は、」
「さあさ。丁度魚を焼いたんだ。召し上がり下さいな」
幽谷はぎょっとした。
「魚っ? いえ、そのような……私、今は金銭を持っていませんので……」
「気にしないで下さい。いつも、周泰様達にはよくよくお世話になっていますから。ご恩返しですよ」
ご恩返し、と言ったって私が何かした訳でもないじゃない。
困惑を極めるも幽谷は遠慮をことごとく斬られ、料理屋と思しき大きな古い建物の中に連れ込まれてしまう。
半端な拒絶も喧噪に掻き消されたじたじになりながら逆らえずに椅子に座らされてしまう。
女性は料理屋の主人の妻のようだ。厨房の奥で鍋を振るう夫を呼び、すっかり食事をすることになってしまった。
困り果てて肩を縮めていると、女性の大音声でこちらにいやが上にも視線が集まってくる。
狐狸一族の女と言うのが、そんなにも珍しいものなのだろうか。自分が来る前に、姉の封統が柴桑を何度も訪れていると思うのだけれど……彼女は人の目に触れていないのだろうか。
非常に居辛い心地に顔を俯かせていると、不意に向かいの席に人が座る。
視線だけを上げた。
若い男だ。美醜にはやや疎いが、見目が良いと思うかんばせの、恐らくは幽谷と歳の近い男。
その頭には、姉とは形状の異なる小さな獣の耳が生えていた。
……猫族?
顔を上げて瞬くと、青年はにっこりと笑う。
「アンタ、周泰達の新しい妹だろう」
「……ええ、と、」
これは、素直に肯定しても良いのかしら。
柴桑の猫族と言えば封統と、もう一人。周泰と長兄の同僚の男がいると話に聞いた。
多分この男がそうなのだろう。だが本当にそうなのかはっきりとは分からない。幽谷が知らないだけで他にも猫族が実はいるのかも知れない。
周泰の名前を出しては来たがここは神妙で良いのか警戒すべきなのか……反応に困って首を傾げた。
男はあれ、と軽く目を丸くした。
「オレは周瑜。周泰から話を聞いてないか?」
「……猫族の方が同僚におられるとだけ……」
「ああ、それオレのこと。こっちじゃ猫族はオレだけだ」
己の人ならざる耳を摘み、軽く引っ張って幽谷に見せつける。
それを見つめ、幽谷は曖昧な返事を返した。
疑っているのだと察したのか、周瑜という男は苦笑を滲ませた。
「まあ、初対面なら仕方ないか。で、アンタ一人でこっちに来たのか? 狐狸一族の里はここから距離があるだろ」
「母に……ああ、いえ、長に精神が身体に安定するまではしっかり身体を動かしておけと、散歩を勧められましたので。気付けば柴桑に来ていました」
これには素直に答えた。
周瑜は呆れ顔を作った。手にした酒を呷(あお)る。
「気付けばって……そんな距離じゃないぜ?」
「そうなのですか?」
「……狐狸一族の奴に一般的な感覚は無かったんだっけか」
後頭部を掻く周瑜は、ふと盃(さかずき)に酒を注ぎ、幽谷に差し出した。
「飲むか?」
「……いただきます」
ついさっきまで彼が使っていた盃だ。借りてしまって良いのだろうかと思いつつ、幽谷は口を付けた。
口腔内に広がる酒の風味と、咽を焼かれる感覚に首元を押さえる。……何故かしら、このお酒では何だか物足りない。
眉根を寄せると、「口に合わなかった?」と。
幽谷は首を左右に振った。
「白酒(パイチュウ)にしては、弱いなと。……白酒ですよね」
「ああ。そりゃ弱めのを頼んだからな。これからもやることがあるから」
「仕事中に飲まれるのですか」
「色々あってな」
色々あったらしい。
苦笑に少しだけ苛立ちめいたものを覗かせた周瑜は、ふと厨房の方を見やって片手を挙げた。
丁度、女性が食事を運んでくる。短時間で用意しただろうに、食欲をそそる香ばしい匂いと餡の光沢に幽谷はほうと吐息を漏らした。
あまり食事という行為を嗜好している訳ではないが、そんな幽谷の目からも早急に用意したとも思えない程に美味そうな料理だった。
ただ、腹は空いてはいない。それであのこってりしている料理は重い。
女性は幽谷の憂いにも気付かずに机に料理を置いた。
「すみませんねえ。今急いで用意出来るのはこれだけなんですよ。もう少ししたら、もっと沢山の料理が来ますからね。遠慮無く召し上がって下さいな」
「え……いえ、この量で十分です。私はあなたには何かをした訳でもないのに良くしていただく訳には参りません」
遠慮はまた笑い飛ばされる。
幽谷の言葉をにこやかに黙殺した女性は、しかし周瑜に呼び止められた。
「悪いけど、これからオレと柴桑散歩するから、これだけで良いよ」
「あら、そうなのかい? それじゃあ、果実酒でも持って来ようかね」
「あ……この白酒で良いです。咽も渇いてませんので……お気遣い、無く」
周瑜に渡された盃を掲げて見せると、女性は軽く目を瞠った。ややあって、にんまりと笑みに妖しい含みを持たせる。
周瑜を物言いたげに見やって厨房へと引っ込んだ。
「……今のは?」
「勘違いしただけだから気にすんな」
「勘違い……?」
「オレとあんたが出来てるって」
『出来てる』の意味が分からず首を傾けると、周瑜はおかしそうに笑った。
「まあ、とにかくそれだけでも食べな。オレも手伝ってやるから」
「……? はい。ありがとうございます」
結局、彼は『出来てる』の意味は教えてくれなかった。
頭に引っかかりを覚えつつ、幽谷は周瑜に促されるまま箸を取った。
背中に、妙な視線を感じたが、振り返ろうとすると周瑜がおかしそうな顔で止めてきた。
‡‡‡
食事を終えて、周瑜は幽谷の手を引いて料理屋を離れた。一応二人で柴桑を歩くという風に認識させているので、少しは離れておかないと面倒だとのことだった。
「あの料理屋、美味かっただろ」
「はい。見た目よりもあっさりしていて、とても美味しかったです」
素直な感想を口にすると、周瑜は嬉しそうに破顔する。曰く、あそこは彼も大層気に入っているそうだ。
「また今度、お勧めの料理でも食わせてやるよ。周泰達と一緒にな」
「楽しみにしてます」
社交辞令だ。
幽谷はそう判断し、律儀に頭を下げた。
すると、周瑜は不意に幽谷の肩に手を回して抱き寄せた。
ほぼ同時に側を荷車が通る。
「ありがとうございます」
「どう致しまして」
「……」
「……あの」
「ん?」
「何故、放していただけないのですか」
……いや、放してもらえないだけじゃない。
異様に密着させられているような気がする。
困惑して周瑜を見上げると、にっこりと笑いかけられる。
「困惑顔も、綺麗に映えるね」
「は? あの、近いです」
「そう言えば、名前はまだ聞いてなかったな」
「え……ああ、私は幽谷と申します。あの、これで、」
って、段々近付いてきているような気がする。
幽谷は背筋に冷たいモノを感じた。
抵抗しようと周瑜の腕を掴む。ぐいと引き剥がした。
その直後のこと。
周瑜が視界から失せた。
代わりに映り込んだのは赤い髪の、長身の男。
「……兄さん」
「無事か?」
「はい」
周瑜は、と探すと、彼は赤い髪の男――――兄、周泰に踏み潰されていた。
声をかけようとすれば周泰に腕を引かれて周瑜から引き離された。
「戻るぞ」
「はい」
「ちょっと待て! 今の状態何かツッコめよ!」
「え……」
「空耳だ、お前は何も聞いていない」
「え?」
「おい!」
幽谷の腕を引いたまま歩き出した周泰は周瑜にはもう一瞥(いちいべつ)もくれない。大股に、しかし幽谷が追いつける程度の速度で歩く。
周瑜は後ろで猛抗議。しかし、彼は追いかけてこようとはしない。
不思議に思って肩越しに振り返ると、彼は立ち上がって、苦笑を浮かべている。仕方のない奴、そう言いたげだ。
幽谷と目が合うと周瑜は片目を瞑って手を振った。
「幽谷、またな」
にこやかな別れの挨拶に、幽谷は会釈を返した。
刹那、匕首が周瑜へと投げつけられる。
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