▼露乃様
江陵の地に至ったのは偶然だった。
行く宛も無く、路銀も無いまま、栞喃の気の向くままに進んだ結果、南に下ることになったのだった。
夏侯淵は、正直を言えば気が気でない。
曹操はすでに、南にその食指を向けている。大陸制覇を目指す彼ならば、じきに南も彼の脅威に呑まれることとなろう。
夏侯淵はすでに死者。還らぬ存在。この時すでに、曹操のもとに戻るつもりなどなかった。
曹操軍の脅威に晒されず、誰も踏み入らぬ場所で、終生、寂々と暮らす。
その為の場所を、南の地で探していた。
その老人に出会ったのは、雨に降られた夕方のこと。
木の下で雨宿りしていたところ、飛び込んできた老人は栞喃を見るなりはっと息を呑んだ。
栞喃の銀の目に驚いたのだと察した時には遅く、老人は口を戦慄(わなな)かせ一歩後退した。
マズい。
夏侯淵は栞喃の腕を掴んで木の下から出ようと足を踏み出した。
だが、栞喃が待ったをかける。
「敵意も恐怖も感じない」
「は……?」
栞喃が視線で促し、それでも夏侯淵に隠れるように移動する。自身の見てくれが人間にとって恐怖の対象であることはこれまでの旅の中で痛い程分かっているからだ。ああ言ったは良いが、一応の警戒はしておくつもりのようだった。
夏侯淵は栞喃を老人から庇うように立ち、本来いたわるべき経験をたっぷり蓄えた小さな身体を間隙見せずに見据えた。
老人の行動は、彼らには予想外のことだった。
「おお……」老人は感じ入った様子でその場に座り込み、額を地面に擦り付けて平伏したのである。
夏侯淵はぎょっとした。
「な、おい……」
「その銀の瞳、さもありなん。斯様(かよう)な所で、狗族(ごうぞく)の方に会えようなどと……何という僥倖(ぎょうこう)か。これは死にゆく老い耄(ぼ)れへの褒美でございましょうか」
「ご、狗族を知っているのかっ?」
吃驚仰天(きっきょうどうてん)。
頭を殴打されるかのような驚きに夏侯淵は声が裏返った。
それも当然のことだ。この世に、狗族の存在を信じる民などいる筈がないと思っていたのだから。
けれどもこの老人、心底感動している様子で、彼自身存在こそ信じていたが生きてその姿を見れるとは思っていなかったらしい。
栞喃と顔を見合わせ、夏侯淵は彼女の頭から残された片耳を押し潰す頭巾を取り去った。
老人に顔を上げさせその反応をつぶさに観察する。
老人は感極まって泣き出してしまったではないか。嗚咽が雨音に混じり、何とも気まずい空気を作り上げる。
栞喃が夏侯淵の後ろから、老人に話しかけた。
「ねえ、お爺さん。あたしのこと、分かるのかい?」
「ええ、ええ……狗族様のことは、村の伝承で存じ上げております。我ら村の者は皆、猫族と共に狗族の祖、狡(こう)を心より崇めておりまする。ここで相見えましたのも、天帝のお導きやもしれませぬ。どうか我が村にてお二方を是非に饗応(きょうおう)致したく」
「……」
────ひとまず、信用は出来るかもしれないと、老人を暫し観察した栞喃が囁いた。
狗族の存在のみならず、狡と猫族についても知っていそうだ。
完全には信用出来ずとも、一時言葉を交わすくらいなら……栞喃は、そう判断したようだ。
ならば、と夏侯淵は老人に声をかける。
「すまないが、オレ達は人との接触は極力避けたいんだ。翁(おきな)の信心を蔑(ないがし)ろにしてしまって申し訳ないが、この狗族の娘は手負い。何処か、絶対に人の入らぬ場所に落ち着き、出来れば終生の塒(ねぐら)としたいんだが、この辺の土地を知るお前ならば、分からないだろうか」
出来るだけ老人の気分を害さぬようにらしくなく畏(かしこ)まった声音で問いかけると、彼は目を剥いた。栞喃を案じるような目で見やり、それならばと北の方角を指した。
「なれば、北の山に住まわれるがよろしいかと。あの山は狡が一時の塒にされていたと伝えられる神聖な場所であり、我らのみが知る道以外には踏み入ることも出来ません。狗族の方が住まわれるのでしたら、村の者達も納得しましょう」
「けど、村の人達がお爺さんを信じてくれるか……」
「なに、ご心配は無用。儂は長を任される者。村の者が如何(いか)に信心深いかもよくよく分かっております故に。狗族様さえよろしければ、こちらで、お二人の住まいを建てましょう。それ以降は、我らは決してお二方に関わりませぬ。この老い耄れの命に賭けてお約束致します」
「……どうする?」
夏侯淵はつかの間思案した。
ややあって、取り敢えずはこの老人を信用することとした。路銀も無いぎりぎりの旅路、これ以上続けるのは怪我が治りきっていない栞喃には苦しい。
ここで一旦は立ち止まった方が良いと判断した。
「翁の村には多大な迷惑をかけてしまうが、頼めるか」
「お任せ下さりませ────おお、丁度、雨が上がりましたな。これも天帝のご温情やもしれませぬな」
有り難い、と天に向かってゆっくりと拱手(きょうしゅ)する老人は、二人にも拱手して西の方へと歩き出した。背中の丸い小柄な身体だが、足取りはしっかりとしたものだ。悪路に足を取られることなど全く無い。
老人を見送り、夏侯淵は栞喃に頷いて見せた。
「北の山だ」
「分かった。……にしてもさ、夏侯淵。さっきの口調、無理してなかったかい?」
「気持ち悪いならそう言え」
ぎろりと睨めつけるも栞喃は肩をすくめてあっけらかんと否定した。
「いや、格好良かったよ」
「……人を揶揄(やゆ)してる場合かよ」
「うぅわ、褒めたのにそんなこと言うのかい」
‡‡‡
栞喃の右耳は、傷口こそ塞がっても未だに痛むらしかった。
老人の言葉通り北の山の中腹に開けた場所を見つけ、一旦落ち着いた夏侯淵は、髪を掻き分け右耳があった場所を見下ろし、目を細めた。
「まだ痛むか?」
「ああ、じくじくとね。でも取った時程強い訳じゃないから。どっちかって言うと、痒い程度かな」
「そうか……」
患部を撫でると、ぴくりと細い肩が跳ねる。そこは今や栞喃の身体で一番敏感な部分だ。抱いている時は耳を噛むよりも尾の付け根を引っ掻くよりも感度が良かった。これを、本人は頑なに否定している。
夏侯淵は栞喃の隣に座り、周囲を見渡した。
家を一件建てるくらいの広さはある。畑も、作ろうと思えば拓(ひら)けるだろう。が、己は村民の暮らしなど知らないし、陣地に在って屯田(とんでん)を体験したことも無い。
夏侯淵一人であれば、とても暮らしていけない。農耕の知識のある栞喃がいなければ、こんな山に入らず村に世話になることを決めていたに違いない。
後ろに両手を付き、天を仰いだ。
今日は風が強い。雲がいつもよりも早く流れていく。
これから、世捨て人のオレ達はここでひっそりと隠れて暮らしていく。
二度と、誰とも関わるまい。
と、ふと、栞喃が夏侯淵の肩に頭を乗せる。
何も言わない。
夏侯淵も、何も言わなかった。
栞喃は情緒不安定になる時がある。
さすがに残った耳をもぎ取ろうとまではしないが、自分が狗族であることに強い罪悪感を抱き、塞ぎ込むことがある。
永住の地に落ち着き暮らすことで、少しでも緩和出来れば良い。
栞喃の心落ち着けば、それだけで良い。
栞喃はやがて、静かな寝息を立て始める。
熟睡しているだろう頃合いを見計らって頭を膝に載せてやる。
頭を撫でてやると、彼女は小さく身動ぎした。左耳がぴくぴくと震える。耳のうちに風に乗った落ち葉が入ろうとしたのを夏侯淵の手が払い退けた。
今頃、夏侯惇達はどう過ごしているだろうか。
関羽に、張世平から自分達の話はされているだろうか。
にも拘(かか)わらず何の便りも無い自分達のことをどのように思っているだろうか。
夏侯淵も、倦(う)んじ事は多い。自ら捨てると決めたからにはもう振り返ることは許されぬと分かってはいても、胸中より浮かぶを止められない。
これもまた、ここで生活していくうちに気にならなくなるだろうか。
そうあって欲しいが、そうあって欲しくない。
これと似た感覚は、栞喃も味わっているだろう。狗族であることを止めれば、狗族との繋がりは真実絶ってしまうことになる。
捨てようにも捨て切れぬ大切なものを、自分達は抱えているのだ。
オレ達は────どうなるだろうか。
一生苦しむのか、いつしか解放されるのか。
今この時の夏侯淵には分からなかった。
ただ、栞喃がまた泣く姿を、赤く染まって苦しむ姿を、見たくないと強く思う。
その為ならば、オレは何でも出来る気がする────……。
村人が訪れるまで、夏侯淵は栞喃の頭を撫で続けた。
‡‡‡
────あれから、どれだけの季節が巡っただろうか。
そう思うも、きっとこの咲き始めの桃の花の香を嗅いだのはそんなに多くはない。
けれども随分と長い時を、この山で過ごしたような気がするのは、栞喃の中でここが終(つい)の住処であると認識しているが故のことか。
栞喃は深呼吸し、目を細めた。
次に漏れるのは嘆息。痛そうに腰を撫でて自慢の尻尾を撫でた。
「どんだけ我慢してたんだかあいつは……」
体調に問題が無いと分かったその日に、しつこく求めてきた夫の切羽詰まった顔を思い出し、羞恥よりも呆れが先に立った。
以前と変わらぬ引き締まった身体は細くしなやかな曲線を描く。無駄な肉など一切無く、健康的に滑らかな肌にうっすらと浮いた汗が日の光を反射する。
だが、これでも、つい半年前までは腹の中に己と違う命を宿していた身体なのであった。
解禁とばかりに長きに渡って求められた栞喃は、身重故に運動がある程度制限されていた為に、行為の後身体の節々が痛み、特に耳────右耳の痕も含む────や尻尾の付け根がひりひりした。敏感だからと言って、いじり過ぎだ。ただでさえ、手触りが良いと言って日頃から触って来るというのに。
確かに長いこと禁欲生活を強いられていたのは男にとっては苦しいだろうが、運動も満足に出来ない女の産後の辛さを少しはいたわってもらいたいところである。
未だ自分の全てを好いてくれているのは、有り難いことだけれど。
欲望に勝るということを、学んで欲しいところである。
再び嘆息し、栞喃は丸くなった背を伸ばした。
ややあって、自分を呼ぶ声がする。
ちゃんと約束通り、未だ爆睡する父親を起こさぬように家から出てきたようだ。
栞喃は顔を綻ばせ、身体を反転させた。
「ほら、衝。早く来な。今日は鹿狩りを教えてやるから」
最愛の娘に笑いかけ、彼女が追いつかぬまま高く跳躍した。
そこに、憂う影は微塵も無い。
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