▼葵様



 そうだな……あれは確かに考え方が猫族にとって剣呑(けんのん)な方へ向かいがちだが、無駄も無いし理にかなっている。あの男は味方に在って軍師としては十分使える。その分、敵に回れば厄介なことこの上無いが────ある軍師の証言。

 そうね。確かに考え方はわたし達には理解出来ない部分も多いわ。でもそれはきっと周りの頑張り次第で変えられると思うの。賈栩だってちょっとは変えてみようかって思ってる節もあるし、やっぱりわたし達は時間がかかってでも仲良く出来るわ。良かったら、○○も協力してね────ある猫族少女の証言。

 賈栩? いやいやー……あいつ怖ぇよ。滅茶苦茶怖ぇよ。だって今のあいつにとっちゃオレ達捨て駒なんだぜ? お前もいつ見殺しにされるか……ああ恐ろしい!────ある少年の証言。

 少なくとも今の賈栩には近付かない方が良いよ。何されるか分かったもんじゃない。磔(はりつけ)にされて燃やされるかもしれないよ────ある少年の証言。

 ……すまない。賈栩に関しては、猫族から、お前には賈栩は極悪非道だから近付かない方が良いと強く勧めろと言われているんだ。理由? ああ、それは、賈栩から受けた仕打ちが仕打ちだからな……────ある武将の証言。


「……あのさ、張飛」


 関羽以外賈栩さんに対して否定的なんだけど。
 机に両肘を立て、組んだ両手を口に当てながら、○○は低く言った。

 少し、記憶を手繰ってみよう。
 ○○が件の賈栩を避けがちだった頃、関羽は話してみれば良いと○○に言ったし、他の猫族も賈栩に対しては温かな態度だったように思う。
 だのにいざ彼のことを知ろうと、皆が賈栩に対してどう思っているかを訊ねると打って変わって否定的なのだ。友好的なものはない。

 気になったのは、趙雲の証言である。完全に猫族からあの言葉を強いられている。そこにどんな理由があるのか……何だか馬鹿馬鹿しい気がして探ろうとも思えない。

 ○○の前に薬湯────昔は一緒に作ってくれたりしたので、○○が常に飲むものなら張飛も作れる────を置いた張飛は、母音を伸ばし、隣に座った。


「諸葛亮は肯定してんじゃん」

「いや諸葛亮さんは論外でしょ。……誰も軍師としての評価なんて訊いてないから」


 あくまで軍師ではなく、賈栩個人のことを知りたい、その足掛かりに訊いていたのだ。戦に関係の無い○○が軍師の能力を知ったって何の意味も無い。


「何であたしには賈栩さんを悪く思わせようとするのよ」

「まあ……多分、○○を近付けたくないんだろうなー」

「何で」

「そりゃあ……」


 張飛は珍しく言葉を濁し苦笑を滲ませた。
 いとこの横顔を見つめていた○○は唇を尖らせて、ぽつりと呟いた。


「何かさ……張飛、関羽と付き合いだしてからかな。大人っぽい表情をするようになったね。ウザい」

「最後の言葉要らねーだろ」


 あ、今の顔は張飛っぽい。
 いとこの変化があったのは、もっともっと前からだ。でも○○がいない間に、急速に変化した。
 それを嬉しいと思いつつ、少しだけ寂しいと思う。それはきっと、○○にとって大切な家族だからだろう。
 ○○は張飛が眩しく思えて、目を細めながら席を立った。薬湯を一気に飲み干し、その苦みにうえっとえずく。ずっと飲んでいるが、配合によって異なる薬湯の独特の風味は全て、未だに苦手だ。……特に、張飛特製の薬湯は風味が異常なくらい強調されている。
 それでも張飛に礼を言って部屋を出ようとすると、中に入ろうと曲がってきた人物とぶつかりかけた。


「おっと」

「わっ、あ、賈栩さん」

「これはどうも、お嬢さん」


 数歩後退して、○○は軽く頭を下げた。
 それに律儀に言葉を返しながら、張飛の方へ歩いていく。
 彼に用だったのか……ほんのちょっとだけ落胆しつつ、○○は張飛に出かけてくると声をかけて部屋を出た。



‡‡‡




 江陵から少し離れた小高い丘の上で、○○は大きく伸びをした。
 近くに小さな集落があるだけの、静かな場所だ。空気も綺麗で眺めも良いから、○○のお気に入りの場所だった。

 毎日のように掃除していると、たまに、本当にたまに、空気の綺麗な場所で一人でゆっくりのんびり過ごしたくなる。
 昔なら外に出るなら必ず関羽や張飛達が付いてきていたけれど、今ではもう一人でも許されている。それだけ身体が強くなったということだ。
 青い匂いのする絨毯に大の字になって寝転がり、ゆうるりと空にたゆたう雲を見上げる。

 それ以外、何をするでもない。ただ気が済むまでそうやって過ごすだけだ。
 掃除ばかりの毎日も決して嫌いではない。生き甲斐なのだから楽しくて仕方がない。
 けどもこんな風に何もせずに過ごしたいと思う。それも嫌な感覚ではない。むしろ毎日毎日猫族の心地よい生活の為、掃除三昧の自分へのご褒美だと勝手に決めつけていた。好きなことをしてご褒美が貰えるなんて、なんという贅沢だ。

 たまに寝てしまって張飛達が迎えに来てくれることもあるけれど、でも寝てしまうのも仕方のないことだ。だってこんなにも気持ち良いのだから。

 今日もまた、寝てしまいそうだ。
 ○○は目を伏せ、すうっと深呼吸した。

 それから間もなく────健やかな寝息が風の音に混ざるのだ。



‡‡‡




 身体が微かに揺れている。
 背中と膝裏に何か硬い物を感じた。
 何であたし、身体が曲がっているんだろう。大の字になって眠っていた筈なのに。
 疑問に思いはするが、一定の調子の優しい揺れは微睡み頭に心地良い。

 それでも状況を確認しようと億劫ながらに目を開けると、騒々しいくらいの星空が見えた。
 それと、誰かの顎。
 見覚えがあるような────。

 ……。

 ……。

 ……え。


「うわぁ!?」

「! ……ああ、起きたのか」

「か、賈栩さん!?」


 ○○の大音声に軽く驚いた彼は、見下ろし淡泊に呟いた。容赦無い大声だったのに平然としていた。

 賈栩に抱き上げられていると分かって、○○は顔を真っ赤にする。
 以前にも事故で彼に抱き締められることがあった。でもあの時よりも全身が熱くなる。賈栩に抱き上げられている事実が、この感触が、より恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
 慌てて降りようとすると、賈栩の腕に少しだけ力がこもる。落としてしまわないように反射的に入ったものなのだろうが、そんな些細な加減がまた羞恥を煽る。


「あ、あの、あたしなら大丈夫ですからっ」


 賈栩はつかの間思案した。周囲を見渡し、ゆっくりと降ろしてくれた。

 ○○は衣服の乱れを正し賈栩から視線を逸らして俯いた。自分の髪を何度も撫でた。落ち着いてようやっと江陵の城の庭であると気付く。

 「あれ……」思わず漏らす○○の身体を、ひんやりと冷たい風が撫でていく。咽の奥がむずむずして、軽い咳が口から飛び出した。軽いけれども、長く続いた。
 口を押さえて咳き込んでいると、賈栩が○○の背を撫でた。それに、ちょっとだけ意外に思う。
 賈栩は咳が落ち着くまでそうしてくれた。


「丘で眠るのは良いが、さすがに咳き込みながら寝るのは止した方が良い。生まれつき肺が悪いんだろう」

「誰に……」

「猫族に。後から薬を持ってくるそうだから、部屋で安静にしておくことだ」


 歩き出した賈栩を見送っていると、数歩先で立ち止まる。こちらを振り返って沈黙する。
 もしかして、部屋まで送ってくれるのかな。
 少しだけ嬉しくなった。

 小走りに賈栩の隣に並ぶと、彼はゆっくりと歩き出す。○○の歩みに合わせた歩調だ。

 賈栩さん……あたしのこと気遣ってくれてるんだよね。
 意外で、でもやっぱり嬉しい。
 人らしい感情とか感覚が分からないって聞いていたけれど、気遣えるってことは完全にはそうじゃないってこと。なら、絶対他の感覚だって、感情だって、その気になれば芽生えるんじゃないだろうか。
 その手伝いがしたい、と○○は強く思う。彼の側で手伝いが出来たら、どんなにか良いだろう。
 ○○は賈栩の顔を見上げた。横目にで見られていたようだ。目が合った。


「……?」

「……いや、何でもないよ。少し、不思議なことがあってね」


 不思議なこと?
 首を傾けて見上げると、賈栩は肩をすくめて誤魔化した。


「賈栩さ、」

「お嬢さんの部屋は、あそこで良かったかな」


 言葉を遮ったのか、偶然なのか。こちらの言葉を遮った賈栩が指差したのは、確かに自分の部屋だ。
 ○○が頷こうとして咳に阻まれる。背中を優しく押され促された。

 賈栩に扉を開けてもらって、寝台に座る。
 賈栩は離れた場所の壁に寄りかかり、腕を組んだ。帰らないで何をしているんだろう。じっと見つめていると、ふと、


「薬が到着するまでお嬢さんの監視を仰せつかったんだ」

「監視って」

「一人にすると無茶をするかもしれないとね」


 ……無茶したこと、あったっけ?
 咳が出た時はなるべく安静に過ごしていた。掃除の時だったら我慢して続けるけど、その後は薬を飲んで、横になって休むようにしている。自分なりに、体調管理は怠っていない。
 一体誰がそんなことを言ったんだか。
 張飛、ではないよね。関羽だって分かってるでしょうし、猫族の皆だってそう。趙雲や諸葛亮にも伝えられていると思う。

 じゃあ、誰がそんな嘘を言ったんだろ……変なの。


「ごめんなさい。面倒をかけちゃって」

「いや、良いさ」


 ……そう言えばどうしてあたし、賈栩さんに運ばれていたんだろう。
 張飛が迎えに来たんだったらそのまま部屋に連れてくる筈。関羽も同じだ。
 この二人を除いたら、あたしがあの丘に行くことを知る人はいない。賈栩さんが迎えに来たって言うのなら、二人が教えたってことだよね。もしかしたら、さっきの嘘のことも。

 何故?


「賈栩さんは、あたしが丘にいるって張飛から聞いたんですか?」

「……俺は訊いてはいなかったが、話の中で唐突に出てきてね。出かけたお嬢さんが戻らないと猫族が騒ぎ出して、何故か俺が、彼に頼まれたよ」

「本当にごめんなさい」


 何やってるのよ、張飛。賈栩さんだって忙しいのに。
 気の回らないいとこに呆れた。

 けど、賈栩さんも張飛に頼まれたからって迎えに来てくれたんだ。それに、眠っていたあたしを起こせば良かったのに、抱きかかえて城まで運んでくれるなんて……。


「賈栩さん。やっぱり優しい人なんですね」

「優しい? 俺がかい?」


 賈栩が軽く目を瞠る。意外そうな顔だ。

 ○○は首肯する。笑って言った。


「だって、起こしてくれたって良かったのに、そのまま運んできてくれたじゃないですか。あたし、前にも賈栩さんに助けてもらいましたし、賈栩さんは優しいと思います。だから、これからもっと優しくなれるのかも」


 ああ、やっぱり知りたいな、と思う。
 この人のこと、もっと知りたい。
 そして、この人のお手伝いもしたい。
 ○○は目を細め、賈栩を見つめた。


「賈栩さん。あたし、賈栩さんのこともっと知っていきたいです。これから猫族に協力してくれる人だし、ちゃんと優しさがある人だから、賈栩さんの色んなことを見つけたいです」


 賈栩は、また驚いたようだった。
 けれども○○の笑顔につられるように、苦笑めいた微笑を浮かべる。


「あまり、楽しめるものでもないと思うけれどね」

「それを決めるのは、あたしですから」


 拒絶の響きは無い。
 ○○はそれが、とても嬉しかった。

 胸が、ぽっと温かくなる。



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