▼美月様
※注意



 身体を燃やす苛烈な情熱に、自分の何もかもが朽ちてしまいそうだった。
 恍惚とした快感を得る恋情は止まること、弱まることを知らず、身体を焦がしていく。
 それは一種の毒だ。内部からじわじわと冒し、意識までも支配して、自由を奪う。

 このままここにいれば、わたくしはこの方から離れられなくなるだろう――――。

 狂おしい愛に正気を見失いそうにながらも、献身的に、理性的に、彼女は目の前に横たわる男を看病し続ける。
 別れると分かっているから、激情を必死に抑え込む。

 わたくしは人ではないのだ。
 わたくしは……禁忌を犯してしまったの。
 だからこれ以上の罪を重ねる訳にはいかないのよ。
 重ねたら――――戻れなくなってしまう。


「……すまない。○○には、いつも迷惑をかけている」

「夏侯惇様。それはもう、申されますな。わたくしは迷惑などと思うてはおりませぬ故。どうか、お気になさらずご養生下さいまし」


 申し訳なさそうにかけられる言葉は、もう何度も聞いた。
 ○○はふんわりと柔らかにとろける笑みを浮かべ、かぶりを振った。

 右足を骨折し、背中にも酷い傷を負った夏侯惇は、未だ起き上がれない。ようやっと傷による高熱が下がったばかりだった。完治には程遠い。
 彼女は俯せに寝て呻く夏侯惇の後頭部を慈しむように撫でた。

 安らいだように目を伏せる彼を見下ろし、○○は微笑みに悲壮を滲ませる。
 嗚呼、わたくしが人間だったならば、回復した夏侯惇様について行って、一生お傍に仕えることも出来ただろうに。
 夫婦になれなくても良い。侍女であっても、下仕えでも構わない。
 ただ、彼の傍にいれたらどんなに幸せだろう。

 わたくしが、人間であったら良かったのに。
 どうしてわたくしは人間に生まれなかったのだろう。
 どうして夏侯惇様は人間に生まれてしまったのだろう。
 種族が違いが、こんなにも分厚い壁だったなんて、思わなかった。

 一生知らないでいた方が、幸せだった。
 こんな苛烈な愛に焦がされる痛み、苦しみ――――知ってしまったら、もう……。


「さあ、お眠り下さい。わたくしはまた、薬草を摘みに参ります」


 腰を上げると、夏侯惇がはっとして服を掴んでくる。
 あっと声を漏らした○○に夏侯惇は我に返って手を離す。早口に謝罪して誤魔化した。顔が真っ赤だ。

 傍にいて欲しいと言われているように思えて、○○は嬉しくてたまらなかった。
 くすくすと鈴を転がすが如き愛らしい笑声をこぼして夏侯惇に寄り添って横臥(おうが)する。


「これでよろしいですか」

「……ああ」


 夏侯惇は気まずそうに目を逸らし、頷いた。
 躊躇いがちに伸ばされた腕が、○○の背中に回る。少しだけ力がこもったのに、○○はもぞもぞと動いて身体を密着させた。

 ここで、愛し合う。
 肉体的にではなく、精神的に。
 それが、わたくし達の限界。
 あなたはここを去るべき人。わたくしと繋がってはならない人。わたくしが、愛してはならなかった人。
 背中から肩へ上がり、頬を撫でる。親指が口を撫でる。鋭い眼差しに、猛る欲望の熱が灯る。

 激しい眼光に射抜かれただけで、ぞくぞくした。

 しかし、○○は夏侯惇の口に手を添え、微笑みかける。


「なりません」


 そう言って、窘(たしな)めた。

 嗚呼、嗚呼……。
 愛しています。
 愛しています夏侯惇様。
 ずっと一緒にいたい。一緒にいて、傍であなたを守りたい。

 止まらない。
 『愛している』が止まらない。

 でも、駄目なのよ、○○。
 わたくしと夏侯惇様は違うのだから、別れなければならないのよ。

 胸が焦がれ、痛む。


「さあ、お眠り下さいまし。暫くは、○○はこうして夏侯惇様のお傍におります故に」


 口を押さえた手を離し、頬を優しく撫でる。
 夏侯惇は不満そうな顔をするが、○○に逆らおうとはしなかった。迫っても○○がいつも回避しているから。それでも諦めてくれないことが、喜ばしい。醜い独占欲が満たされていく。

 大人しく眠り始めた夏侯惇の寝顔を見つめながら、○○は笑みを消した。

 泣きそうな顔で目を伏せる。



‡‡‡




――――そろそろ、彼を人界に返さなければならない。
 夏侯惇の傷の具合を診ながら、○○は胸を引き裂かれる痛みに奥歯を噛み締めた。

 いいえ、これで良いのよ。これが在るべき流れなの。
 わたくしは人間ではない。人間である夏侯惇様は人間でないわたくしと結ばれてはいけないの。


「夏侯惇様。もうこの山を下りられてもよろしいでしょう。早くお戻りになって、お仲間に元気な姿をお見せになって下さいな」

「世話になった。……○○」


 身支度を整えた夏侯惇は振り返りながら○○を呼ぶ。
 ○○は彼が言う前に彼の唇に己のそれを重ねて言葉を奪った。抱き締められる前に逃げ、拱手する。


「わたくしは、この山と一生を共にする者ですから」

「……そうか」

「あなた様に出会えただけでも、最高の思い出となりましたのに、このような身体の焦がされる熱い想いを教えていただきました。○○はそれだけで、幸せにございます」


 ○○は家屋の扉を開けて、夏侯惇を外へと促す。

 夏侯惇は目を伏せ、家屋を出た。


「夏侯惇様。一つ、お願いがございます」

「何だ」


 自らも家屋を出て、木々を見やる。


「この山には、谿辺(けいへん)という、狗(いぬ)に似た妖がおります。その妖を仕留め、毛皮を敷物とすれば妖邪の気を退けることが出来ます。治りかけた夏侯惇様のお怪我も、きっとすぐに完治致しましょう」

「妖……か」

「信じておられずとも構いません。ですがもし、谿辺と思しき獣がおりましたらば、どうか仕留めて下さい。その毛皮を以て、傷を癒して欲しいのです」


 嘆願すると、夏侯惇は承伏しかねるような顔をしながらも、了承してくれた。

 ○○は安堵し、恭しく頭を下げた。

 山道を降りていく彼を見送りながら、○○は顔を歪めた。
 その場に座り込み焦がれる胸を押さえる。嗚咽が漏れ、しゃくり上げた。

 嗚呼……良かった。
 これで良いのよ。

 これで、わたくしは――――……。


 嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。


 でも、


「……行かなくては」


 まだ、しなくては……いいえ、したいことがある。
 ここは妖が多い山。彼を追いかけて食らおうとするかもしれない。乗っ取ろうとするかもしれない。

 わたくしは、こんなところで座っていてはいけない。
 立ち上がり、天を仰ぐ。
 唇を引き結び、決然と前を向いた。



‡‡‡




 衝撃に負けて身体が倒れる。
 固い地面に、己から赤い液体が縁取るように広がっていく。日の光を受け彼の姿が鏡のように映った。

 嗚呼……彼が二人いるわ。
 とても奇妙で、愛おしいことこと。
 彼女はうっとりと、血鏡を愛でる。

 死ぬ。
 そうと分かっていて、その死に歓喜する。満足する。

 彼がゆっくりと歩み寄り、顔を怪訝そうに覗き込んでくる。


「これが……谿辺か……?」


 確かに狗のようで狗ではない姿をしている。
 夏侯惇は物珍しげに彼女の身体を撫で、感触を確かめる。


「この妖の毛皮を敷物にしろと○○は言っていたな」


 夏侯惇は手荷物を脇に置き、己の剣を彼女の身体に突き立てた。

 異物が入り込んでくる感覚に、痛みは伴わない。意識もすでに朦朧とし始めていた。
 良かった。良かった。良かった。
 これで良かったの。

 わたくしに出来る、あなたの為になること。
 谿辺の毛皮で、妖邪の気から守られて……愛しい人よ、どうか、いつまでも健やかなれ。

 彼女は目を伏せ、涙を流す。
 さようなら。別れの言葉は彼には届かない。

 だって、今のこの姿では人の言葉は話せないから。
 だって、もう彼女の視界には何も映っていないから。

 さようなら、夏侯惇様。
 どうか末永く、幸せに。

 その願いは、誰にも届かない……。

































 声が聞こえたような気がする。
 夏侯惇は山を振り返り、唇を引き結んだ。

 視線を落とし、手にした毛皮を見下ろす。
 ○○の言っていた、谿辺の毛皮。
 突如飛び出してきたあの狗のようで狗でない獣が本当に谿辺だったのか、夏侯惇には分からない。

 あたかも都合良く夏侯惇に殺されようと敵意も無く飛びかかって来たのが引っかかるが……今は、谿辺だったと、信じる他無い。

 これは、繋がりだ。
 ○○との唯一の繋がりだ。

 もう一度山を振り返る。


「○○……」


 毛皮を握る手に力がこもったのは、ほぼ無意識だ。

 山を見ていると胸がざわざわと落ち着かない。

 ○○――――もう一度愛おしい彼女を呼び、夏侯惇は目を伏せた。
 山に向け、拱手する。

 願わくは山の中に生きる彼女に、この感謝の念と、恋慕の情が伝わることを。


 荒(すさ)ぶ風が唸る。
 それはさながら、二人の《別れ》を悲しんでいるようにも聞こえた。



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