▼紗羅様
ゆらり、ゆらりとたゆたった。
何も無い、暗い暗い闇を抜けると、視界は一気に明るさを増し、密度も増した。
なんて賑わしい場所だろうか。行き交う人々の笑顔の、なんと眩しいこと。客寄せをしている店主に、友達と人並みを踊るように駆けて行く子供達の声が心を揺さぶってくる。この光景を見ていると、こちらまで楽しくなってくる。自分も、色んな店を見て回って、一喜一憂してみたい。
ここが何処かも判然としないが、母国でないことは確かだった。どうやって来たのかは分からないが――――そんなことはどうでも良かった。
劉備は雑踏に混じり、珍しい商品を一つひとつ眺めていく。触れようとは思わない。……いや、自分の手で触れてはならないような気がした。どうしてかは、分からないけれども。人々に声をかけようとも、声を出そうとも思わなかった。
興味は次から次へと移っていく。退屈なんてしない。むしろ忙しいくらいだ。二つの目じゃ到底足りない。もっと沢山の目が欲しい。
うきうきと心が弾む。
何もかもが楽しくて仕方がない劉備は、ふと一人の子供が母親のもとへ嬉しそうに駆け寄っていくのに目がいった。
「おかあさん、見て! ツル、きれーに折れたでしょ?」
「そうねぇ。随分と上手くなったじゃない。今度和泉様に見せてご覧。きっと喜んでくれるわよ」
鶴を、折る?
劉備はぎょっとした。
なんて残酷な言葉だ。鳥を折るなんて――――いや、それ以前にあんな小さな子供が鶴のような大きな鳥をどのように折るというのか。
子供に近付いて二人の様子を怪訝に見守っていると、鶴が、本物の鳥ではないのだと分かった。安堵すると共に、感嘆する。
鶴とは、子供の手にした小さな紙細工のことだったのだ。
確かに鶴のような姿をしている。紙であんな物が作れるなんて……凄い。
更に距離を詰めて屈み込み、紙の鶴を眺めていると、子供はあっと声を上げた。近くの店の屋根を見上げ、元気良く片手を振った。
「おぉーい、澪ー!!」
子供の見つめる先には、少女がいた。自分とさほど変わらないか、或いは少し下の年頃だが、身体はやせぎすだ。満足に物を食べていないのかもしれない。赤い袖が風にぱたぱたと揺れた。
不思議な目をしている。劉備を取り込んでしまいそうな、魅惑的な引力を放っている。自然と、足はそちらに近付いた。
足下には初めて見る、猿の顔をした四つ足の獣もいた。ゆらゆら揺れる尻尾は……蛇?
みお、と言う名前らしい少女は、瞬きを繰り返して親子を見下ろす。子供に応えるように、両手を天へと突き上げた。
「あら、今日は仕事寮はお休み?」
「やすみー」
「そうなの。じゃあ源信様も学び屋にいらっしゃるのね。後で、何か持って行こうかしら」
母親は子供の手を引き、みおに声をかけて歩き出す。
「澪、またね〜」
「またねー」
みおの言葉遣いは拙かった。まるで最近になって人語を話し出したかのように、確かめながら単語を返している。
劉備がじっと見上げていると、彼女は少し間を置いてから劉備を見下ろした。真っ赤な袖を噛み、こてんと首を傾ける。
その双眼に誘われ、劉備は声を出そうとした。この場所に来てから、初めて出したいと思った。彼女に声をかけたいと思った。
けれど咽に力を込める前に、みおは身体の向きを変える。駆け出した。猿顔の獣も軽やかに後をに従う。
待って――――言うよりもまず足が動いた。
屋根から屋根へ飛び移りながら何処かへ向かうみおを追いかける。
だが、みおは獣のように軽やかに素早く走る。置いて行かれないように、劉備は必死だった。
みおが目的地に到着するまで、どうにか彼女を見失わずについて行けた。
全身で呼吸をしながら、みおと獣が飛び込んだ家屋の中へ入っていく。
獣が出迎えるように戸口の側に立って、鳴いた。鳴き声は不吉だが、不思議と怖いとは思えない。ようこそ、と言わんばかりに見上げてくる獣に、笑みすら浮かぶ。
家屋の中は、細長い机が幾つも、整然と並べられている。その机の間を通り抜け、奥へ進む。ついていくと、日当たりの良い、外に露出した廊下に座り、みおは劉備を振り返った。
すると、獣が劉備の袖を掴んで彼女のもとへと導いた。
みおの隣に座り、劉備はみおを見下ろす。
みおは側に控えた獣の頭に顎を載せ、腕も前に突き出すように伸ばしている。「あー」とか「うー」とか言って、足をばたつかせた。かと思えば獣に抱きつき、子犬みたいにじゃれ出すのだ。
人間の姿をしているのに、本当の獣みたいだ。
足の付け根が見えそうになって顔を逸らしても、みおに気にする様子は無い。
「……あ、あの、」
彼女がじゃれ合いに飽きて座り込んだのを見計らい、劉備は思いきって声をかけてみた。
みおが劉備を見る。間近で見ると、異常なまでの引力に身体は勝手に後ろに仰け反った。遠目からでは、こんなに強い力だったなんて思いも寄らなかった。真実、引き込まれてしまいそうで恐怖を感じてしまった。
何も言えずにみおと見つめ合っていると、ふと奥の方からのんびりと穏やかな男の声が聞こえてきた。
はっとして居住まいを正し、向き直る。
奥から出てきたのはまた見慣れない姿をした男だ。全体的に青い。けれど慈父の如き優しい笑みが青色を冷たく感じさせず、頭上に広がる広大な空を思わせた。閉じられた目で、どうして見えているのか、ゆっくりと歩いてくる。
男はみおに笑いかけると、劉備に目を向けて目を細めた。一瞬、その目が開いたような気がする。確かめる暇すら無く、青の男は劉備に会釈した。
「澪がお客様を連れてくるのは珍しいですね。今日は」
「……こ、今日は。お邪魔しています」
「お茶でも淹れましょうか。ゆっくりしていって下さいね」
男は朗らかに言い、また奥へと退がる。干し芋とお茶を床に置き、「ごゆっくり」と笑いかけられた。受け入れられたようだ。
劉備はほ、と吐息を漏らし――――首を傾けた。
はて……自分は何か忘れていないだろうか。
何か、人間と相対する時決まって気にするべき点があったような……。
何だったか。
――――まあ、良いか。大したことではないかもしれない。
すぐに結論づけて、深く考えないことにした。
劉備は男が運んできてくれたお茶を手に取り、ずずっと飲んだ。しかし、味が違う。美味しくななんてことは無いけれど、少々戸惑った。
みおを見やれば、彼女は男が持ってきた干し芋を食べながらお茶を飲む。無表情だが、目がきらきらと輝いているのを見ると干し芋が大好きらしい。
じっと見つめていると、ふとみおが視線に気付いて新しい干し芋を取って劉備に差し出した。驚いて固まると手を伸ばして口へと近付けてくる。
こちらにくれるようだ。
劉備は微笑み、受け取った。
「ありがとう、みお。いただくよ」
かじり付く。独特の弾力と甘い風味に頬が弛む。
「美味しいね」と言うと、もう一枚差し出された。有り難く受け取る。
暫く、二人でのんびりと干し芋を食していた。
みおは言を発しない。何らかの理由があって、会話能力が乏しいのだろう。
時折干し芋を半分に千切っては獣に与え、お茶を啜る。
穏やかな時間だ。日を受けながら、干し芋を食べて、お茶を啜って、徒(いたずら)に過ごす。
決して嫌ではなかった。とても心地良い、心安らぐ時間だった。
前も、仲間とこんな風に過ごしていた。激動の中、仲間と笑い合い、長閑で平和なひとときを共有して――――愛おしい人とも触れ合って。
嗚呼、懐かしい。
そう思うと、不意に目頭が熱くなった。
どうしてだろう。胸もきりきりと痛み始める。
劉備は胸を押さえ、前のめりになった。
「……っ?」
膝に、手にした干し芋に、数滴水が落ちる。
何処から?
……自分の目、からだ。
ぼたぼたと溢れて落ちる熱い水は止まらなかった。止めようと思うと胸の痛みは増して、より一層水がこぼれてしまう。
この水の、涙の理由は――――。
――――ああ、そうか。
「……そう、だった」
自分は、置いてきてしまったんだ。
先に旅立ってしまったのだった。
ずっと忘れていた。皆を置いて来て、自分はここにいる。
拳を胸に当てると、獣が寄り添い頬ずりしてきた。
慰めているのか――――いや、違う。
見上げてくる目は、明確な意思を伝えてきた。
ここはお前のいるべき場所ではない、と。
促すような優しくも厳しい眼差しに劉備は手を伸ばす。
その手を掴んだのは、獣ではなく。
「あなた様が海まで越えてしまうとは、思いもしませんでした。意外と冒険好きなのですね」
みお、だ。
劉備を見つめ、穏やかに微笑んでいる。
先程までの姿とは打って変わって理知的な、姫君のような品を備えていた。
「君は……」
「あの方がお捜しでしたよ。あなた様がいないと、皆様が五月蠅くて敵わないと。捜すとまで言って暴れ出す方もいて、面倒臭いと愚痴っておられました」
「――――」
みおは身体の向きを変え、片手を両手でそうっと包み込み、何事か呟いた。
瞬間、視界は再び闇に包まれる――――。
‡‡‡
――――暗い。
ここは、何処だ。
劉備は周囲を見渡し、首を傾げた。
みおも獣もいない。違う世界に来てしまったかのように、空気は打って変わって冷たかった。
歩き出そうとすると、突如頭を殴られた。
「いたっ!?」
頭を押さえて向き直ると、もう一発、今度は額に手刀を食らう。
「な、何――――」
「ようやっと見つけたぞクソガキ」
「え? あ……っ」
懐かしい姿の青年が、不機嫌そうに顔を歪め、殺気立っていた。
彼は舌打ちするともう一度劉備の頭を殴りつける。
「お前な、どんだけ各地放浪すりゃ気が済むんだよ。方向音痴でもねえクセに。死んでも仙人こき使いやがって。ガキは年寄りに尽くせっての」
「ええと……すみません?」
「分かってねえだろ。……まあ良い」
彼は前髪を掻き上げると、劉備の髪を掴んで無理矢理に歩かせた。
「いたたっ、止めて下さい!」
「知るか。行方不明者が、この程度で済んでんだからむしろ感謝しろ。言っとくが戻れば、仲間からこれ以上のキツいお仕置きが待ってんだからな」
「……仲間……」
その言葉に、深い安堵を得る。
仲間の姿が脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「皆、が?」
「ああそうだ。全員、長の戻りを待ってるんだよ。さっさとかえるぞ」
かえる――――かえる。
そう、かえらなければならない。
僕は皆のもとに、彼女のもとに。
かえりたい。
「おら、ぼさっとすんな」
「……はいっ」
劉備は『お仕置き』のことも深く考えず、笑顔で頷いた。
青年はそれに呆れた様子で片眉を上げ、苦笑する。
「喜んでいられるのも、今のうちだからな」
その言葉の意味を劉備が身を以(もっ)て知るのは、それからすぐのことだった。
⇒後書き+レス