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※郭嘉が死にます。
※夢主と賈栩の間に子供がいます。



 街の雑踏から離れた隅に、立派な墓が在る。

 多少劣化が見られるそれへ、ゆっくりと歩み寄る女。
 腕に小さな赤子を抱いて、静かに歩み寄る。

 女は微笑みを湛え、赤子をあやしながら墓の前に立つ。

 赤子がきゃらきゃらと無邪気な笑い声をあげ、穢れを知らない無垢な笑顔を母親へ向けている。
 愛おしげに目を細める女は、ふと背後を振り返り、微笑を浮かべたまま首を傾けてみせる。

 やや遅れて女の隣に立ったのは男だ。
 赤子の父親である。
 不安が見える慣れない手つきで女から赤子を受け取り、男は一歩後退する。

 女は彼に深々と頭を下げ、墓に向き直る。

 何度も深呼吸をする。
 そのうち、瞳が潤み出し、息が震え出した。
 片手で額を押さえ、「落ち着け……落ち着け……」己に繰り返し言い聞かせる。

 男は赤子を抱いたまま、女を見つめる。急かすことも無く何も言わず、温かな眼差しで見守り続ける。


 やがて。


 女は両手で己の頬を二度強く叩き、墓に向かって深々と頭を下げた。



‡‡‡




 郭嘉が死んだ。


 何の病気かは知らない。
 けど死んだ。


『○○。今日でクビだから』


 私を見ずに放った冷たい言葉。
 彼が死ぬ十日前のそれが、私が聞いた郭嘉の最期の言葉で、私が見た郭嘉の最期の姿だった。

 最近咳をすることが増えたと思って、あんまり続くようなら、薬でも用意してやろうと思ってた矢先にクビにされた私。
 郭嘉は今までになく厳しく私を城から追い出そうとした。

 郭嘉の様子がおかしいと思うのは私だけではなかった。

 郭嘉の異常な行動は私以外にも及んだ。
 私をクビにしたのを皮切りに女遊びも無くなり、同僚との接触も、城内を歩くことも極端に減った。
 私を追い出した後、部屋にこもって出てこなくなったからだ。仕事も格段に処理速度が落ちたらしいとは、周りの言葉。

 曹操様が怪訝に思って部屋を訪れても、決して扉を開けないで、中に入ろうとすると物凄く嫌がる。私が咳をしていたことを話してお医者様を呼んで下さっても固辞して顔を全く見せない。

 仕事もろくにせず、部屋の前に食事を置いて知らせても手つかずのまま放置。

 郭嘉の身に何が起こったのか誰も分からないまま十日が経って、賈栩様が郭嘉の部屋の扉が開いているのに気が付いて覗き込み、寝台の上で息絶えているのが発見された。
 発見された郭嘉の身体は、おぞましいくらいに痩せ衰えていた。寝衣も喀血(かっけつ)を起こしたらしく変色した血でぱりぱりに固まっていた。

 郭嘉の弱り果てた姿を見た時私ははたと気が付いた。
 そう言えばクビになるずっと前から、私、郭嘉の顔を見ていない気がする――――。

 うん……うん、そうだ。そうだった。
 いっつも嫌みな笑顔で私をからかっていた郭嘉。
 でも最近の記憶を手繰っても、彼の後ろ姿しか浮かんでこない。
 彼はいつの頃からか、私に顔を向けなくなっていた。

 それをぽろっと漏らすと、拾った夏侯惇様もそう言えば俺も、と思い出す。
 私の独白は人から人へ伝わり、皆が私と同じ頃から郭嘉の顔を見ていない気がする、と言い出した。

 そこまでして、弱っている姿を誰にも見せたくなかったんだ……郭嘉。
 長年弱者の上に君臨する強者のつもりでいた自分が、弱者だった私の父と同じように病によって弱っていくのを、彼はたった一人でどう思っていたんだろう。
 顔を見せないようにしていたのは、せめてもの足掻きだったんだろうか。

 結局、皆の目に晒されているのに。


『……ざまあみろ』


 病に殺された郭嘉の遺体に向かってそう吐き捨てた私は、人として間違っている。
 けれど、頭の片隅に父の姿が浮かんで、どうしても言わずにはいられなかった。

 夏侯惇様が物言いたげな顔をしていたけれど、私が彼を見上げると途端に青ざめて黙り込んだ。理由は分からない。

 それから、郭嘉の身体を私以外の女官が清め、私は参加しなかったけど曹操様によって葬儀が行われた。
 故郷の無い郭嘉の墓は、許都の一角に立てられた。
 この時、私の父の隣に郭嘉の墓を、と言おうとした曹操様に私ははっきりと嫌だと返した。

 解せなかったのは、私の言葉を聞いて、曹操様も夏侯惇様達も憐れむように私を見ていたことだ。誰も、幼馴染であった筈の死者を冒涜するような態度の私を責める人は一人もいなかった。

 曹操様が墓に花を供えた後、城に戻っていく曹操様達を見送り、私はそこに残った。
 ざまあみろ――――また呟いて、墓を蹴る。何度も何度も蹴る。足が痛くなると拳を叩きつける。何度も何度も殴る。気付いたら両手で殴ってた。
 何を思ったのでもなく、ただただ、そうしたくなった。

 手が自分の血で真っ赤になって、痛いし汚いし、馬鹿らしくなって止めた。
 何をやってんだ私。
 何がしたいんだ私。

 郭嘉なんかよりも自分のこれからを考えなさいよ。

 そう思うけれど、いざ考えようとすると真っ暗で、何も分からない。
 仕方なく今日は何も考えずに寝てしまえと思って身体を反転させた私は驚いた。

 全員帰ったものだとばかり思っていたのに、少し離れた場所で賈栩様と女官長が待っていたのだ。

 私が近付くと二人は何も言わずに歩き出す。
 無言で私を後ろに従えるような形で城へ帰り、手当てをしましょうとそこでやっと口を開いた女官長と一緒に自分の部屋へ戻った。

 それからの私は、何が起こったのか。
 どうも記憶力が急激に低下したようだ。

 自分が一日何をしているのかほとんど覚えられなくなってしまったのだ、
 気付いたら廊下の端に腰掛けていて、傍に夏侯惇様や、夏侯淵様がいたりする。曹操様がいた時にはさすがに驚いた。

 どうやら印象に残るようなことは記憶に残っているらしい。それ以外で自分が何をしているのか、全く覚えていない。
 いつ起きて服を着て、いつ部屋を出て――――全然、分からない。
 夏侯惇様達にそれとなく訊ねてみたら、普通の生活は出来ているらしいけれど、気付いたら一日の大半を廊下や部屋の隅、中庭のど真ん中で虚空を見つめて過ごしているのだそうだ。
 最初はそっとしておこうと周りで気を遣っていたのだが、池に落ちそうになっていたのを――――これは印象に残っていなかったのか、全く覚えが無い――――曹操様が助けてからこれは危ないと思ったんだって。


『郭嘉に先立たれて悲しいのは分かるが、残されたお前がしっかりしなくてどうする』


 なんてことを夏侯惇様に言われて、その言葉に凄まじい程の違和感を感じて苛立ちを覚えた。

 悲しいなんて感情はこれっぽっちも無い。
 これは事実。
 怒りも無い、憎悪も無い、寂しいなんて気持ちも無い。

 じゃあ、郭嘉の死に対して、今の私に何があるのか。


 何も無い。


 郭嘉にとって私は、私達は蹂躙されるべき弱者だった。
 私が彼の最愛の姉の記憶を持っていたから、彼は側に置いていただけ。郭嘉の中で○○という人間にそれ以上の価値は無い。私に対して情なんてあるものか。

 夏侯惇様の言葉がきっかけでそんなことを考えていると、ふと一つ重要なことに気が付いた。


 私、ここにいる理由が無くなってる。


 郭嘉が私を連れてきて、勝手に部下にしたから私はここに居着いた。
 なら郭嘉が死んだ今、私は庶民に戻って良い筈なのだ。
 どうして私、クビにされた時に城を出て行かなかったんだろう……分からない。

 郭嘉から、私は解放された。

 気付いた翌日に、私は曹操様の部屋へ飛び込んで庶民に戻りたいと願い出た。

 曹操様はすぐに許して下さった。
 私の身の丈に合わせた住居も用意してくれて、お金も職に就けるまでの生活費にしろと多めに貰えて、本当に有り難かった。

 世話になった人達にきちんと挨拶をして、私は庶民に戻った。このまま女官として働いていれば良いのにとは、女官長の言葉である。
 賈栩様にも勿論挨拶をした。城を出て市井で暮らすと言った私に対して、特に残念がる様子も無く、小さな声で『ああ、お疲れ』とあっさりしたもので、正直これはかなり堪えた。あれだけの出来事があったのに、出ていくとなったらこれか。
 郭嘉に対しての私の態度が気に食わなかったのかもしれない。だったら、寂しいけど仕方がない、と思う。

 市井で新しい生活を始めた私。
 すぐに職も見つけ、すぐに充実した毎日が送れるようになった。

 城を出た途端、一日の記憶が残らないなんてことは無くなった。

 一日いちにちを背伸びなんてせずに精一杯生きていく。
 ああ、これだ。
 私がいるべき世界は、私に丁度良い暮らしは、これなんだ、

 仕事に明け暮れていると、何も考えなくて良い。とても《楽》だ。

 私は、毎日毎日仕事にのめり込んだ。



‡‡‡




 どうしてこうなった。
 眼前に広がる光景に私は顎を落とした。

 ここ、何処……。

 見慣れない部屋だ。
 かなりの身分のお屋敷だとは分かるのだけど、城のものとは違う内装のこの部屋には全く覚えが無い。

 仕事してた筈なんだけど……途中から記憶が無い。
 皆怒ってないかなあ、休めって言われてたから早めに帰らせてもらうつもりだったんだけどなあ。
 そんなことを考えながら、寝台を抜け出して――――自分が寝衣姿であることに気が付いた。
 何じゃこりゃ。しかも滅茶苦茶肌触りが良いじゃないか。

 寝台の横でぼけーっと自分の姿を見下ろしていると、扉が開いた。

 反射的に見て、


「あ」


 驚いた。
 中に入ってきたのは懐かしい女官長だった。


「○○さん。目が覚めたようですね」


 女官長は私を見るなりほっとして微笑んだ。
 私に近付いて寝台に座らせ、つんとした匂いのする薬湯……かな? を持たせた。


「お加減は如何ですか。気持ちが悪かったり、眩暈がしたりなどはありませんか?」

「あ、無いです」


 首に指を押し当てて脈を確認されながら答える。
 ここが何処で、そもそも何が起こってここにいるのか、私から訊くまでもなく女官長が教えてくれた。

 過労で倒れたのを街を歩いていた女官長に保護されて、たまたま近くの賈栩様の屋敷に無断で運び込んで寝衣も勝手に私に着せて、薬湯も厨を勝手に使って作ってくれた……そうです。
 まさに勝手知ったる他人の家。


「え……良いんですかそれ」

「ほとんど帰っていないのですから問題はありません。賈栩さんには後から言っておけば良いのです」

「は、はあ……」


 まあ、前々から親しい間柄だったんだから良いのか……良いのか?
 賈栩様、女官長のことだいぶ苦手だったみたいだしなあ。
 いつだったか、随分と前に街で事故に遭いそうだった時のことを思い出し、ちょっとだけ胸が疼いた。
 別れの挨拶の時の賈栩様も思い出されて、少し気分が下がってしまった。今の今まで忘れてたのに。

 女官長は私の頭を撫でてもう一日横になるように言った。