▼葵様
※郭嘉が死にます。
※夢主と賈栩の間に子供がいます。



 街の雑踏から離れた隅に、立派な墓が在る。

 多少劣化が見られるそれへ、ゆっくりと歩み寄る女。
 腕に小さな赤子を抱いて、静かに歩み寄る。

 女は微笑みを湛え、赤子をあやしながら墓の前に立つ。

 赤子がきゃらきゃらと無邪気な笑い声をあげ、穢れを知らない無垢な笑顔を母親へ向けている。
 愛おしげに目を細める女は、ふと背後を振り返り、微笑を浮かべたまま首を傾けてみせる。

 やや遅れて女の隣に立ったのは男だ。
 赤子の父親である。
 不安が見える慣れない手つきで女から赤子を受け取り、男は一歩後退する。

 女は彼に深々と頭を下げ、墓に向き直る。

 何度も深呼吸をする。
 そのうち、瞳が潤み出し、息が震え出した。
 片手で額を押さえ、「落ち着け……落ち着け……」己に繰り返し言い聞かせる。

 男は赤子を抱いたまま、女を見つめる。急かすことも無く何も言わず、温かな眼差しで見守り続ける。


 やがて。


 女は両手で己の頬を二度強く叩き、墓に向かって深々と頭を下げた。



‡‡‡




 郭嘉が死んだ。


 何の病気かは知らない。
 けど死んだ。


『○○。今日でクビだから』


 私を見ずに放った冷たい言葉。
 彼が死ぬ十日前のそれが、私が聞いた郭嘉の最期の言葉で、私が見た郭嘉の最期の姿だった。

 最近咳をすることが増えたと思って、あんまり続くようなら、薬でも用意してやろうと思ってた矢先にクビにされた私。
 郭嘉は今までになく厳しく私を城から追い出そうとした。

 郭嘉の様子がおかしいと思うのは私だけではなかった。

 郭嘉の異常な行動は私以外にも及んだ。
 私をクビにしたのを皮切りに女遊びも無くなり、同僚との接触も、城内を歩くことも極端に減った。
 私を追い出した後、部屋にこもって出てこなくなったからだ。仕事も格段に処理速度が落ちたらしいとは、周りの言葉。

 曹操様が怪訝に思って部屋を訪れても、決して扉を開けないで、中に入ろうとすると物凄く嫌がる。私が咳をしていたことを話してお医者様を呼んで下さっても固辞して顔を全く見せない。

 仕事もろくにせず、部屋の前に食事を置いて知らせても手つかずのまま放置。

 郭嘉の身に何が起こったのか誰も分からないまま十日が経って、賈栩様が郭嘉の部屋の扉が開いているのに気が付いて覗き込み、寝台の上で息絶えているのが発見された。
 発見された郭嘉の身体は、おぞましいくらいに痩せ衰えていた。寝衣も喀血(かっけつ)を起こしたらしく変色した血でぱりぱりに固まっていた。

 郭嘉の弱り果てた姿を見た時私ははたと気が付いた。
 そう言えばクビになるずっと前から、私、郭嘉の顔を見ていない気がする――――。

 うん……うん、そうだ。そうだった。
 いっつも嫌みな笑顔で私をからかっていた郭嘉。
 でも最近の記憶を手繰っても、彼の後ろ姿しか浮かんでこない。
 彼はいつの頃からか、私に顔を向けなくなっていた。

 それをぽろっと漏らすと、拾った夏侯惇様もそう言えば俺も、と思い出す。
 私の独白は人から人へ伝わり、皆が私と同じ頃から郭嘉の顔を見ていない気がする、と言い出した。

 そこまでして、弱っている姿を誰にも見せたくなかったんだ……郭嘉。
 長年弱者の上に君臨する強者のつもりでいた自分が、弱者だった私の父と同じように病によって弱っていくのを、彼はたった一人でどう思っていたんだろう。
 顔を見せないようにしていたのは、せめてもの足掻きだったんだろうか。

 結局、皆の目に晒されているのに。


『……ざまあみろ』


 病に殺された郭嘉の遺体に向かってそう吐き捨てた私は、人として間違っている。
 けれど、頭の片隅に父の姿が浮かんで、どうしても言わずにはいられなかった。

 夏侯惇様が物言いたげな顔をしていたけれど、私が彼を見上げると途端に青ざめて黙り込んだ。理由は分からない。

 それから、郭嘉の身体を私以外の女官が清め、私は参加しなかったけど曹操様によって葬儀が行われた。
 故郷の無い郭嘉の墓は、許都の一角に立てられた。
 この時、私の父の隣に郭嘉の墓を、と言おうとした曹操様に私ははっきりと嫌だと返した。

 解せなかったのは、私の言葉を聞いて、曹操様も夏侯惇様達も憐れむように私を見ていたことだ。誰も、幼馴染であった筈の死者を冒涜するような態度の私を責める人は一人もいなかった。

 曹操様が墓に花を供えた後、城に戻っていく曹操様達を見送り、私はそこに残った。
 ざまあみろ――――また呟いて、墓を蹴る。何度も何度も蹴る。足が痛くなると拳を叩きつける。何度も何度も殴る。気付いたら両手で殴ってた。
 何を思ったのでもなく、ただただ、そうしたくなった。

 手が自分の血で真っ赤になって、痛いし汚いし、馬鹿らしくなって止めた。
 何をやってんだ私。
 何がしたいんだ私。

 郭嘉なんかよりも自分のこれからを考えなさいよ。

 そう思うけれど、いざ考えようとすると真っ暗で、何も分からない。
 仕方なく今日は何も考えずに寝てしまえと思って身体を反転させた私は驚いた。

 全員帰ったものだとばかり思っていたのに、少し離れた場所で賈栩様と女官長が待っていたのだ。

 私が近付くと二人は何も言わずに歩き出す。
 無言で私を後ろに従えるような形で城へ帰り、手当てをしましょうとそこでやっと口を開いた女官長と一緒に自分の部屋へ戻った。

 それからの私は、何が起こったのか。
 どうも記憶力が急激に低下したようだ。

 自分が一日何をしているのかほとんど覚えられなくなってしまったのだ、
 気付いたら廊下の端に腰掛けていて、傍に夏侯惇様や、夏侯淵様がいたりする。曹操様がいた時にはさすがに驚いた。

 どうやら印象に残るようなことは記憶に残っているらしい。それ以外で自分が何をしているのか、全く覚えていない。
 いつ起きて服を着て、いつ部屋を出て――――全然、分からない。
 夏侯惇様達にそれとなく訊ねてみたら、普通の生活は出来ているらしいけれど、気付いたら一日の大半を廊下や部屋の隅、中庭のど真ん中で虚空を見つめて過ごしているのだそうだ。
 最初はそっとしておこうと周りで気を遣っていたのだが、池に落ちそうになっていたのを――――これは印象に残っていなかったのか、全く覚えが無い――――曹操様が助けてからこれは危ないと思ったんだって。


『郭嘉に先立たれて悲しいのは分かるが、残されたお前がしっかりしなくてどうする』


 なんてことを夏侯惇様に言われて、その言葉に凄まじい程の違和感を感じて苛立ちを覚えた。

 悲しいなんて感情はこれっぽっちも無い。
 これは事実。
 怒りも無い、憎悪も無い、寂しいなんて気持ちも無い。

 じゃあ、郭嘉の死に対して、今の私に何があるのか。


 何も無い。


 郭嘉にとって私は、私達は蹂躙されるべき弱者だった。
 私が彼の最愛の姉の記憶を持っていたから、彼は側に置いていただけ。郭嘉の中で○○という人間にそれ以上の価値は無い。私に対して情なんてあるものか。

 夏侯惇様の言葉がきっかけでそんなことを考えていると、ふと一つ重要なことに気が付いた。


 私、ここにいる理由が無くなってる。


 郭嘉が私を連れてきて、勝手に部下にしたから私はここに居着いた。
 なら郭嘉が死んだ今、私は庶民に戻って良い筈なのだ。
 どうして私、クビにされた時に城を出て行かなかったんだろう……分からない。

 郭嘉から、私は解放された。

 気付いた翌日に、私は曹操様の部屋へ飛び込んで庶民に戻りたいと願い出た。

 曹操様はすぐに許して下さった。
 私の身の丈に合わせた住居も用意してくれて、お金も職に就けるまでの生活費にしろと多めに貰えて、本当に有り難かった。

 世話になった人達にきちんと挨拶をして、私は庶民に戻った。このまま女官として働いていれば良いのにとは、女官長の言葉である。
 賈栩様にも勿論挨拶をした。城を出て市井で暮らすと言った私に対して、特に残念がる様子も無く、小さな声で『ああ、お疲れ』とあっさりしたもので、正直これはかなり堪えた。あれだけの出来事があったのに、出ていくとなったらこれか。
 郭嘉に対しての私の態度が気に食わなかったのかもしれない。だったら、寂しいけど仕方がない、と思う。

 市井で新しい生活を始めた私。
 すぐに職も見つけ、すぐに充実した毎日が送れるようになった。

 城を出た途端、一日の記憶が残らないなんてことは無くなった。

 一日いちにちを背伸びなんてせずに精一杯生きていく。
 ああ、これだ。
 私がいるべき世界は、私に丁度良い暮らしは、これなんだ、

 仕事に明け暮れていると、何も考えなくて良い。とても《楽》だ。

 私は、毎日毎日仕事にのめり込んだ。



‡‡‡




 どうしてこうなった。
 眼前に広がる光景に私は顎を落とした。

 ここ、何処……。

 見慣れない部屋だ。
 かなりの身分のお屋敷だとは分かるのだけど、城のものとは違う内装のこの部屋には全く覚えが無い。

 仕事してた筈なんだけど……途中から記憶が無い。
 皆怒ってないかなあ、休めって言われてたから早めに帰らせてもらうつもりだったんだけどなあ。
 そんなことを考えながら、寝台を抜け出して――――自分が寝衣姿であることに気が付いた。
 何じゃこりゃ。しかも滅茶苦茶肌触りが良いじゃないか。

 寝台の横でぼけーっと自分の姿を見下ろしていると、扉が開いた。

 反射的に見て、


「あ」


 驚いた。
 中に入ってきたのは懐かしい女官長だった。


「○○さん。目が覚めたようですね」


 女官長は私を見るなりほっとして微笑んだ。
 私に近付いて寝台に座らせ、つんとした匂いのする薬湯……かな? を持たせた。


「お加減は如何ですか。気持ちが悪かったり、眩暈がしたりなどはありませんか?」

「あ、無いです」


 首に指を押し当てて脈を確認されながら答える。
 ここが何処で、そもそも何が起こってここにいるのか、私から訊くまでもなく女官長が教えてくれた。

 過労で倒れたのを街を歩いていた女官長に保護されて、たまたま近くの賈栩様の屋敷に無断で運び込んで寝衣も勝手に私に着せて、薬湯も厨を勝手に使って作ってくれた……そうです。
 まさに勝手知ったる他人の家。


「え……良いんですかそれ」

「ほとんど帰っていないのですから問題はありません。賈栩さんには後から言っておけば良いのです」

「は、はあ……」


 まあ、前々から親しい間柄だったんだから良いのか……良いのか?
 賈栩様、女官長のことだいぶ苦手だったみたいだしなあ。
 いつだったか、随分と前に街で事故に遭いそうだった時のことを思い出し、ちょっとだけ胸が疼いた。
 別れの挨拶の時の賈栩様も思い出されて、少し気分が下がってしまった。今の今まで忘れてたのに。

 女官長は私の頭を撫でてもう一日横になるように言った。
 いや、身体はもう大丈夫そうだし、家を空ける訳にはいかないのでとやんわり断ると、


「ではわたくしがお邪魔いたしましょう」


 と。

 ……何故?


「いやいや。女官長だってお仕事が忙しいんじゃ……」

「曹操様にお知らせすれば許して下さいます。皆様、○○さんを心配しておいでなのですよ」

「まさか」

「ほんの五日前なんて、夏侯淵様がこっそり様子を見に行って夏侯惇様に厳しく注意されて……」

「え、えええー……?」


 そんなことしてたんですか、夏侯淵様。
 全く気付かなかった……。
 女官長はそれからも皆がどれだけ私のことを案じているかを一人ずつ語った。

 その中に、賈栩様はいなかった。
 ああやっぱり愛想を尽かされたんだなと、更に気分は深く沈んでいった。

 が、肩を落としたところで、


「○○さんも、思いませんか? そんなに心配なら賈栩さんのように暇を見つけて○○さんに会いに行けば良いのです」


 ……。

 ……。

 ……ん?


「……私、賈栩様と会ってませんけど……?」


 瞬間、女官長の周りの空気が一気に冷めた……気がした。


「……何ですって?」

「え」

「それは本当ですか?」

「あ、いや……はい」


 ごめんなさい。
 何か私、マズいことを言ってしまったようです。
 女官長の今まで見たこと無い笑顔を見、背筋が凍った。
 美人が本気で怒ると、滅茶苦茶怖い。

 謝ろうとすると、女官長はいつもの笑みに戻って、


「○○さんは何も悪くありませんよ」


 と言ってくれたけれどその表情の変化も恐ろしかった。城にいた頃、この人の逆鱗に触れないで本当に良かったと思う。


「少し、お待ち下さい」

「あ、はい……」


 女官長が早足に部屋を出ていった後、私は一人で胸を撫で下ろした。

 それからだいぶ時間が経って、女官長が連れてきたのはやや不服そうな賈栩様で。

 気まずくなるよりもまず、彼の頬が真っ赤に腫れていたのを見て察してしまい、心の中で大変でしたねと声をかけた。


「え、えーと……」

「○○さん。わたくし、薬などを用意したり、曹操様にご報告をしたりなどで時間がかかりますので、それまで賈栩さんとここで休んでいて下さいまし。わたくしが戻って参りましたら、○○さんのご要望通り、ご自宅に帰りましょう」


 一人で帰れますから大丈夫です。
 そう言おうとしたら声を出す前に颯爽と出て行く女官長。
 さすがにちょっと……暴走気味に思えた。

 賈栩様は恐らく女官長にやられたであろう頬を撫でながら、ほんの少し疎ましそうに女官長を見送っていた。あの賈栩様でも、さすがに腹に据えかねたって感じみたい。

 気まずさよりも何よりも、ただただ賈栩様にお疲れ様でしたと言いたかった。

 無言でいると、賈栩様がやおら嘆息し、寝台とは離れた場所に腰を下ろした。


「だ、大丈夫ですか……?」

「……女性でも容赦なくぶてば男を退かせる程の威力になるものだ。いつかの為に覚えておくと良い」

「……」


 つまり大丈夫ではないらしい。
 私は苦笑し、厨を借りて冷やすものでも用意しようと寝台から降りた。

 けれど、


「俺のことは気にせずに。痛いが、冷やす程ではないから」

「でも……真っ赤ですよ、物凄く見事な手形が……」

「だろうな……」


 また、溜息。
 賈栩様は座ったまま腕を組み、目を伏せた。

 彼を見つめ、


「ところで、賈栩様が私に会いに来ていたって女官長が思い込んでいましたけど」


 賈栩様が目を開く。
 私を見て、すぐに逸らしてしまう。


「……ただの、履き違えさ」

「履き違え?」


 何だ……ただの勘違いか。
 肩を落とす私に、賈栩様は私を見ないまま横になるように言う。

 言われた通り、私は寝台に横になった。



‡‡‡




「……ようやく眠られましたか」


 扉を開けたのは、城に戻った筈の女官長である。
 寝台で眠る○○を見、ほっとした様子で寝台へ歩み寄った。

 賈栩は女官長へ視線をやり、


「俺が来るまでに、動き出したりは」

「いえ。注意はしておりましたが、全く」


 女官長は寝台へ腰掛けて○○のやや窶れた寝顔を見下ろし、ほうと吐息を漏らす。

 郭嘉が病死してから、○○の様子はおかしくなった。
 起きている時も、寝ている時も。

 夏侯惇達が案じる前者に賈栩も女官長も関与しない。彼らで十分だからだ。

 ただ後者が、問題だった。

 本人は全く覚えてないが、彼女は寝ながら部屋を出て、郭嘉が暮らしていた部屋に入って中を整理したり、掃除したりしていた。郭嘉が座っていた場所に、さも郭嘉がいるかのように話しかけながら。
 郭嘉が生きていた頃の仕事を、毎夜寝ながら繰り返しているのだ。

 最初に気付いたのは賈栩。
 郭嘉のやり残した仕事を引き継いだ彼が、たまたま回収し忘れた物を取りに夜中に郭嘉の部屋へ入った際に彼女の異常行動を目にしたのだった。
 ○○は一通りの仕事が一段落すると部屋の隅で座り込んで動かなくなる。その隙に彼女を部屋へ運び、夜が明けるまで部屋の外で様子を窺った。

 それからも同様の異常行動が毎夜認められ、賈栩は誰にも言わずに郭嘉の部屋で待機し、動かなくなったのを見計らって部屋に運んで貫徹――――その繰り返しだった。

 当初は己一人でどうにかなると思っていたのだが、思惑から外れ、賈栩の体調にも影響が出始めた。
 賈栩の顔色の変化にいち早く気付いた女官長に詰問され、彼女と交代で○○に対処することになった。

 二人体制になってすぐ○○が庶民に戻ると宣言し城を去った後も、二人は交代で夜な夜な彼女の様子を確認しに行った。
 女官長が昼にも様子を見に行けとしつこく言うので、暇がある時に仕事中の彼女の姿を確認しに行った。
 が、女官長は確認だけでなく、直に会って話をしてこいと言ったつもりだったようで。ただの言葉の履き違えで痛烈な平手打ちを食らうのは正直納得がいかない。

 城でなくなった所為か、異常行動は見られなくなった。
 その代わりに仕事にのめり込んで日に日に顔色が悪くなっていく。
 そして――――とうとう街中で倒れた。

 所用で街に出ていた女官長が土気色の○○を見かけていなかったら、あれは危険だと追いかけていなかったら――――誰が助けていたのか。世の中善人ばかりではない。

 ○○の頭を撫で、女官長は厳しい面持ちで賈栩を見やる。


「賈栩さん。やはり○○をあなたの傍に置いておいた方がよろしいのでは?」

「またそれか」


 賈栩は辟易した様子で、女官長を睨む。


「何度言ったら分かる? 今、そのつもりはない」

「○○さんの心が整理出来るまで……確かにそう聞きました。ですが、」

「自覚も無く精神がぼろぼろの女性、しかも亡くなったばかりの同僚の幼馴染を、この隙に付け入って甘言を用いて籠絡しろと?」


 軽蔑するように言うと、女官長は承伏しかねるような顔をしつつも沈黙する。

 ○○は、郭嘉を酷く冷めた目で見ることが多かった。
 かと思えば時折、全く逆の眼差しを向けたりもするのだ。

 その矛盾に気付かないまま――――或(ある)いは無意識に蓋をしたまま、郭嘉は死んだ。

 その結果が、これだ。
 ○○にこの矛盾を指摘するかについては、彼女の異常行動が落ち着いて精神状態が安定してから考えるつもりだった。

 女官長は賈栩が今のうちから傍で寄り添ってやればと思っているだろうが、賈栩にはそういう考えがあって、今はとにかく彼女の心と身体が壊れてしまわないか、遠くから見守ることにしていた。

 ○○を郭嘉が賈栩に預けていた過去を思えば、芋蔓式に郭嘉との記憶が蘇ってしまうのは必至であった。

 賈栩は、それを女官長にすら話すつもりがない。他者にぺらぺらと話して良いこととも思えないし、特に女官長のような人間がどう暴走してくれるか、それによって○○にどんな影響が出るか分かったものではないからだ。

 自分の愛情を優先するよりも、愛した女の壊れかけた心を守りたいと思った。

 女官長は長々と溜息をつく。責めるような眼差しを向けてくる。

 それを無視し、賈栩も寝台に歩み寄る。
 そっと静かに手を伸ばし、頬に触れる。

 と、意識の無い筈の○○が、賈栩の掌にすり寄った。
 途端に胸に温かいものが広がっていく。

 我知らず、賈栩の口元は綻んでいる。

 それを見て、女官長はまた、溜息をついた。


「本当にあなたという人は……待つ前にご自分の年齢を考えなさい」


 あなただって、いつ死ぬか分からないのですよ。
 ぼそりと呟かれた言葉を、賈栩はまた無視した。




‡‡‡




『○○って、本当馬鹿なんですよねぇ』


 郭嘉は幼馴染を笑罵(しょうば)した。
 あの時の彼の笑顔は、嘲笑のようにも、憫笑(びんしょう)のようにも見えた。

 賈栩は郭嘉の墓に向かって深々と頭を下げる妻の後ろ姿を見つめながら、郭嘉の遺体が発見されるほんの三日前のことを思い出していた。

 あの時、郭嘉に呼び出された賈栩は同僚の生気の尽きかけたかんばせを眺めながら、死ぬまであと何日くらいだろうかと思案しながら話を聞いていた。

 ○○は馬鹿、本当に馬鹿。
 そこらを這い蹲(つくば)る弱者の方がまだ賢い。
 郭嘉は幼馴染を糞味噌に貶(けな)し続けた。
 されどその声音は、内容とは正反対にとても優しかった。

 若く、才気溢れた郭嘉。
 そんな彼が、好きな者程苛めたい――――を酷く拗(こじ)らせているのは、だいぶ前から賈栩も曹操も分かっていた。

 が、予想外なことに、死を間近にしてもなお本心を彼女にさらけ出さずに逝ってしまった辺り、周りが思うよりもまだ幼稚な部分が彼には残っていたらしい。生きているうちにそれに気付いていたら、良いからかいの材料になっていたのだが。

 明日死ぬかも分からぬこのご時世とはいえ、彼への死の到来はあまりに早すぎた。

 惜しいことだ。
 昔よりも今の方が、より強く思う。


「賈栩様。お待たせしました」


 くるりと身体を反転させて駆け寄ってきた○○は、穏やかな笑みを浮かべて両手を差し出した。
 賈栩の腕の中で健やかに眠る赤子を受け取るつもりで差し出したのだと分かってはいたが、賈栩は赤子を妻に戻しそのまま抱き締めた。

 ○○が驚いて声を上げる。


「うわっ! 何ですか」

「いや、特に意味は」

「無いんですか?」

「……さあ」


 頭を撫でて話すと、不思議そうに○○が見上げてくる。

 女という生き物は不思議なものだ。
 少女から女性へ、そして母親へ、瞬く間に変わっていく。
 それでいて、生来の魅力は損なわれない。いや、むしろ時が過ぎれば過ぎる程、磨きがかかっていく。

 出会ったばかりの頃と同じようで違う○○の頭をそっと撫で、その手で我が子の頬にそっと触れる。

 郭嘉がこの子を見たら、何を言うだろうか。
 無意識に小さな手を伸ばし指を握り締める子供に、賈栩は我知らず笑みをこぼす。が、寝ている時に限って一度掴むと簡単に放さないことを思い出し、困った。

 苦笑いを浮かべる賈栩をおかしそうに眺め、○○は赤子の名を呼び歌い出す。彼女の故郷の子守歌だ。
 すると赤子の手は解け、指は解放される。

 歌いながら歩き出す○○。
 足取りは軽い。

 ○○は、ちゃんと一人で立てている。生きている。
 彼女の後ろ姿を見て、賈栩は吐息を漏らす。

 郭嘉はきっと、○○の矛盾を知っていた。
 賈栩に気付けたことに賈栩よりも近い彼が気付けない筈がない。

 その上で何も言わず彼女を側に置き続けたのだ。
 そんな郭嘉だから、彼女が己の死後どうなるかも予想出来ていたに違いない。

 誰にも見せなかった己の弱り果てた姿を賈栩を呼び寄せて見せつけ、くどくどと○○を貶し続けたのも、彼なりの賈栩への《頼み方》だったのだろう。
 そんな分かりにくい方法をとらずに素直に言えば良いものを……どうやら郭嘉、賈栩が幼馴染に惚れていることに対して完全に好意的だった訳ではなかったらしい。
 当たり前か。

 一から十まで貶し終えて、彼は最後にぼそっと言った。


『……行動次第では、呪いますからね』


 賈栩にぎりぎり聞こえるくらいの声で。

 まだ俺は呪われていない。
 なら、今のところ郭嘉の機嫌は損ねていないらしい――――。
 墓を振り返り、苦笑い。墓に向かって拱手(きょうしゅ)した。


「賈栩様ー、置いて行っちゃいますよー!」


 遠くで声がする。

 ようやっと外出が許されたからと、この後彼女の囲碁仲間へ挨拶に向かうことになっている。
 今度こそ勝つのだと息巻いているが……結果は考えるまでもないだろう。

 賈栩は墓に肩をすくめて見せ、大声で急かす妻を足早に追いかけた。



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