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 奸雄曹操は、狂った。

 原因は、二人の若い娘。猫族と人間の混血である。

 何処で聞いたのか、曹操は二人が混血であることを知った途端豹変。すぐに娘達を捕らえ、監禁状態にした。

 猫族と人間が混ざり合って生まれた奇跡の血であると、異常な程に拘泥(こうでい)するのは、彼もまた混血であるが故。
 同じ混血であるだけで、自分が二人と何よりも強い縁で結ばれている、己の傍こそが彼女らの運命に定められた居場所なのだと彼は妄信した。

 曹操の周囲の者共は、主の乱心を訝りながらも、その狂気に触れることを恐れ、見ないフリを決め込んだ。
 娘達を逃がそうとした、忠誠心が誰よりも高かった臣下が怒り狂う主の凶刃を受けて片目を失ったあのおどろしき瞬間が、余程忘れられなかったと見える。

 猫族の手を借りて従兄弟と共に逃げ出した臣下を、狂気の曹操は三人の運命を乱す脅威と捉えた。
 敢えて臣下の二人と特に親しかった武将数名に命じ、彼らと猫族を殲滅せんと追わせる。逆らう者など無かった。
 同じ主に忠誠を誓い共に死地を何度も切り抜けた仲間であろうと、我が身の可愛さにはとても敵わぬのであった。

 決して責められることではない。
 今の曹操に逆らってどんな折檻(せっけん)を受けるか分からない。ただ斬り捨てられるだけならまだしも、かの二人との密通を疑われて厳しい拷問を強いられ悶死してしまうやもしれぬのだ。
 彼らを殺せずに戻ったとしても、どのような仕打ちが待っているか……想像すら出来ず恐怖はより増したに違いない。

 自らの保身故に血眼になって殺そうと追ってくる彼らの為を思い、猫族と元臣下二名は一芝居うつことにした。
 長雨で地盤が弛み地滑りが発生していた場所にて、あたかも全員が土砂に呑み込まれ死亡した風を装った。
 分かりやすく曹操軍との面識が密であった者の得物等を土砂で塞がれた山道にちりばめた。むろん、元臣下の愛用していた剣や弓も。

 これによって混血の娘二人の心がより追い詰められることも考えられた。
 懇意にしていた者達を酷い目に遭わせたくなかった元臣下達の気持ちを猫族が汲んだのと、こちらが死んだと思われれば動きやすいこともあって、決行を選んだ。

 物事は実に上手く進んだ。
 追っ手側も心身共に疲弊していた為、まともに思考出来ない状態であったのも大きい。殺さねばならない者達が、自然に殺されていた事実に安堵し、証拠として遺品を持ち帰った。

 これが彼女らに漏れなければ良いが、追っ手がどのように報告したかまでは確かめようが無い以上、無事なことを祈りながら、迅速に行動する。

 破竹の勢いで瞬く間に河北を制定した曹操の動向を市井に紛れて逐一調べつつ、猫族は時を待った。
 その中で曹操に降った各地の諸将が曹操への反乱を企て曹操軍内部と頻繁に密通しているという情報も大量に得た。


 もはや、これまで。
 元臣下は命を捧げた程の主を断腸の思いで見限った。


 そして――――曹操が南征へと動き出したとの報が舞い込んだ時、彼らは動く。
 荊州の要請に応えて動き出した呉との戦を機に、曹操軍内部の反乱分子がこれを機に蜂起するという情報も同時に得ている。その後北の各地でも反乱が起こるのなら、救い出すには今が好機と踏み切った。

 曹操率いる大軍勢が許都を去った後に数人が許都に侵入、予想通り二人共許都に残されていることを確かめた。
 念入りに策を練り、救出に臨(のぞ)む。

 かつては従兄弟と共に主の為とここで鍛錬に精を出していた。
 夏侯惇は冷えた空気を吸い、痛む眼窩を覆う眼帯を押さえる。

 彼は今、張飛と共に許都に立っている。


「……なあ、良いのか? まだ本調子じゃないんだろ?」


 張飛が不安そうに夏侯惇の眼帯を見つめる。

 曹操に斬りつけられてだいぶ経つが、未だ傷は完治しているとは言い難く、まだ隻眼の視界にも慣れていない。満足に戦える身でないことは、誰よりも自分自身が分かっている。

 されど。

 洛陽で道場を失い、弟子達と共に親戚の住む呉へ移住を決めた老師から別れの挨拶に譲られた、若かりし老師が振るっていた剣を見下ろし、強く握り締める。
 彼らが呉に移住して良かった。もしこのことを知ったらどうなっていたか……想像に難くない。

 孫と、孫が連れてきてくれたももう一人の孫と、もう一人の息子に、また会える日があれば良い……洛陽を去る日に心から残念そうに漏らした老師。

 この剣に誓って、失態は犯さない。足手まといにもならない。

 今度こそ、必ずや二人を助け出す――――。


「耐えられない程ではない。俺のことを気にかけるならもたもたするな」

「……分かった。じゃあ行こうぜ。趙雲達が門前で騒ぎを起こす前に、先に侵入してる蘇双達と合流しねーと」

「心得ている」


 予定では、蘇双達がすでに城内に潜伏し彼女らの居場所を突き止め、そこへ自分達を誘導する手筈になっている。

 徹頭徹尾迅速かつ慎重な行動が求められる策に臨むとあって、心臓がずっと騒いで鬱陶しい。
 失敗して捕らわれでもすれば、我らの命運は尽きる。
 誰も助かりはしない。


「張飛。抜かるなよ」

「当たり前だ。行こうぜ」


 駆け出す張飛を追いかける。
 眼窩がずきりと痛みよろめくが、幸い張飛には気付かれなかった。



‡‡‡




 ○○と言う十三支が尊敬する壮老師の孫であることに、我が耳を疑った。
 だが、老師の道場の弟子の大部分が○○を翠憐師範代と間違えて親しげに話しかけたりすることと言い、老師が息子夫婦に持たせた桃の木の細工物と言い、どうやら事実らしい。

 道場の人間は全て十三支を猫族と呼び、○○を武人として尊敬している。
 夏侯惇夏侯淵両名にはとても信じられない、非常に友好的な態度だった。

 騙されているのかと思った。
 が、老師には逆に自分達の態度が咎められるし、そんな小器で武を高めようなどとは笑止千万だと怒鳴られた。


『良いか、二人共。この老爺の過ちを良く聞きなさい』


 ある夜、夏侯惇と夏侯淵を家へ招き、壮老師は語った。

 壮老師自身、息子が翠憐と言う猫族の女を連れてくるまでは十三支と蔑んでいた側の人間であった。
 それが間違いで、これによって武の極みへの道が閉ざされていたのだと気付かせてくれたのは息子の姿に他ならない。

 毎日のように翠憐との鍛錬に打ち込むうち、父すら凌駕する武人に育っていく息子を見ていて、ある日なるほどと納得した。

 猫族の武術は、壮老師にも見慣れない型であった。翠憐は自分の戦いやすいようにこれに手を加えているし、相手に合わせて更に一瞬一瞬の間に思案し変化させていた。彼女の動きは誰にも予測不可能なのだ。
 息子は、見たことも無い動きで、一瞬で変幻する読めぬ戦い方をする彼女と毎日手合わせするうちに、感覚を研ぎ澄まし、めきめきと腕を上げていった。

 翠憐の武の異質さに気付いたのは、翠憐を十三支ではなく一人の武人として見ていると自覚した時。
 この女は強い――――心の中で認めた瞬間、視界が一気に澄み渡ったようになり、唐突に翠憐の動きをつぶさに分析出来るようになったのである。

 息子が父を越えたのはそういうことか、と納得した老師は、息子と翠憐を師範代とした。師範にしなかったのは、彼らが固辞した為だ。
 十三支であることに強い嫌悪を露わにした弟子達には、彼女を武人として見る努力しろと一喝し、一人一人手合わせさせた。
 そのうち、老師が気付いたことに漠然とながら気付き始める者が現れ、翠憐は次第に師範代、師範代、と弟子達から手合わせを熱望されるまでになった。

 己の武が、己の狭い視野によって閉ざされていたのだと、気付かされたのだった。

 夏侯淵は後々そんなことは無いと否定してはいたが、夏侯惇の胸には壮老師の言葉が強く残った。
 壮老師の言葉を受けて騒ぎ出した、否定と肯定が入り交じった胸中に決着を付けるべく、○○に手合わせを所望したところ結果は惨敗。

 実際に戦ったことで、関羽と○○双方の戦い方に感じていた違和感がはっきりと分かった。
 関羽の動きが十三支に伝わる武術に忠実なのだとしたら、○○はそれを自分のやりやすいようにあれこれ変えていた。○○の母翠憐のように。
 よくよく見ずともはっきりと分かる違いが、どうにも分からなかったのは、壮老師の言う通りなのかもしれない。
 手合わせの最中、○○は関羽の動きと違うと理解した瞬間に、頭の中が晴れたような錯覚に陥った。その一瞬の隙に勝負が決まったのだ。

 恐らく壮老師は、分かっていたのだろう。
 夏侯惇が○○と関羽の動きに違和感を感じていたことを。だからわざわざ家に呼び寄せて、あんな話をしたのだ。

 それからの夏侯惇の行動は早かった。
 その日の夜に壮老師の家を訪れ、そのことを包み隠さず話した。その上で、壮老師の○○と関羽の評価を訊ねた。
 壮老師は待っていたとばかりに、○○と関羽のみならず世平の体捌きも交えてそれぞれの違いを滔々(とうとう)と語ってくれた。

 それが、夏侯惇にとって後押しになった。

 以後十三支一人一人を一個の武人として捉えて観察するように心がけ、○○にしつこく手合わせを求めた。

 いつしか彼女に勝つことが武の極みに到達する為の最低条件だと考えるようになった。
 それは、○○が己より遙かに格上の武人であると認めたようなものである。

 そこから、夏侯惇は武以外に於いても彼らと対等にものを考えるようになる。

 当時の夏侯淵は夏侯惇のこの変化を理解せず、壮老師の言ったことを真に受けるなと警告されたこともしばしば。ほとんど、夏侯惇が逆に説得し、夏侯淵が途中で逃げるという形になっていたが。

 そんな彼が。
 ○○の武を追いかけていた筈が、○○を追いかけていたのは、いつからだっただろう。
 境界線が、夏候惇自身にも分からない。
 だが気付くのが遅すぎたのだけは分かった。

 気付いたら弟子の一人と話しているのすら気に食わなかった。
 いつかは○○も関羽も嫁いで行くんだなとぼやいた弟子を思い切り睨んでいたと、夏侯淵に指摘された時にはもう戻れないくらいに惚れ込んでいたのだ。

 惹かれいく心は気付く前に歯止めを失い、ずぶずぶと深みへ沈み続ける。その激情の心地良さは手放しがたい感覚だった。

 なればこそ――――主を捨てて○○を選んだことに後悔は無い。

 曹操への忠誠よりも、曹操に奪われた○○の不幸を予想しながら何もせずにいる方が耐えがたかった。
 混血に狂った曹操の手から愛した女を取り戻したい。
 この激情は、張飛にも劣らない。むしろ勝っている自信すらあった。

 ○○を助ける為なら、腕を斬り落とされても戦い続ける。
 取り戻すまで、死んでも彼女を追い求めるだろう。
 武の高みを目指す為でなく、死ぬ時まで己の隣にいて欲しい一人の男の願いの為に。

 昔の自分ならば想像出来なかっただろう。
 十三支と罵っていた種族の混血の娘を、こんなにも愛してしまった自分など。
 許都に侵入する前夜に一人自嘲していたのを思い出し夏侯惇は苦笑する。



 たった一人、真っ白な世界で。