▼夜叉様



 夏侯淵達が仕える前から、狐狸一族(フーリ)は曹操と同等の立場に在った。
 曹操の父曹嵩に隠れ、気まぐれに曹操の要求に応えて手を貸す程度の自由奔放な長甘寧は、見た目は華奢な身体の少女だ。

 だが途方も無い年月を過ごしただけあって、見た目以上の風格を持ち、長く人間を見つめてきた彼女は達観して曹操を見守った。

 見てくれも、人とは違う。
 足はくるぶしよりやや上辺りから赤毛、白毛の獣の足となり、尾骨からは服をすり抜けて九本のふわふわの尻尾が膨らんで生えている。鼻は獣のそれに近く、頭頂の左右に天を向く耳が生えていた。

 狐狸一族では尻尾を持つのは長だけだ。唯一長と同じ狐に似た耳は、しかし長以外の者は人間の耳と同じ部分から左右に突き出して生えている。
 そして、総じて身長が高い上にがたいも良い。
 長兄蒋欽などは大岩を繋げて作った人形のようで、彼に剣で挑んでも、夏侯惇も夏侯淵も素手で容易くいなされてしまうのが常だった。打倒蒋欽と掲げて鍛錬に励んでいたのも、つい最近までのことだったように思える。それだけ、曹操軍にとってもあの文献の記述のみとなった伝説の一族は身近な存在だった。

 常に世を広く見渡す甘寧は、曹操と同じくらい十三支を贔屓にする。人間に化けて曹操軍の武将を装い十三支に接触しては、時に慰め、時に叱咤し。まるで自分の子供のように接する。
 それが面白くない訳ではなかったけれど、文句を言ったとしても「人生の短い人の子には到底分からぬことだ」などとかわされるに決まっている。それに、甘寧達を人間達の枠の中に当てはめるのがそもそもの誤りである。そう、夏侯淵も学習した。

 十三支に恩情をかけていても、曹操を裏切る様子は無いのだから、甘寧の好きにさせた。神の一族にこちらの常識を押しつけることは暗黙のうちに禁忌とされた。

 夏侯淵もそれに則(のっと)り、甘寧のすることは基本的に放置――――していたのだが。

 さすがに、放置出来ないことを、彼女は酒宴で言い放った。


『娘出来たから夏侯淵の嫁にする。あ、お前に拒否権ねぇから』


 非常に珍しく酔った彼女の側を通りかかったのが運の尽き。
 甘寧が強引に曹操を頷かせてしまった為に、見たことも無い女と婚約する羽目になってしまったのだった。その時の夏侯惇含め臣下達からの同情の眼差しは、とても痛かった。
 酔っていたのだから忘れるか撤回するだろうと、一縷(いちる)の望みに賭けてはみたが無駄な足掻きだった。

 翌日夏侯淵は鍛錬中に蒋欽に拉致され、狐狸一族の里に連れていかれた。

 そこで、笑顔で脅され無理矢理に相手と対面させられた訳なのだが――――……。



‡‡‡




『お初にお目にかかります』


 その声は、静かに鼓膜をすり抜けた。

 狐狸一族初の娘の名は、幽谷と言った。
 ほっそりとした長身に露出の多い服を着て、傷一つ無い滑らかな肌を晒していた。細身の身体の割に胸は豊満で、彼女を初めて目にした時、李典や夏侯惇が見れば即座に目を背けて近付けないだろうと思った。

 だが、そのかんばせは胸などよりも一際目を引いた。
 赤と青の色違いの目は凛々しく美しい面立ちと反して世の中の何も知らぬかのように幼く純粋で、珠のように煌めいた。
 周泰とは色味は異なるが、同じ色違いの瞳を持つ彼女は、甘寧の言う四霊の娘だ。

 四霊とは人間が勝手に呼んで罵る四凶の本来の呼称。夏侯淵も甘寧に教えられ、周泰を知るまで四凶だと疎んじていた。
 価値観とは時間はかかるが変えられる。
 夏侯淵も、この時には幽谷の目を素直に美しいと感じられるようになっていた。

 予想以上の上玉だったことに、驚き歓喜した夏侯淵は、しかし婚約は待てと甘寧に物申した。
 さすがに急すぎたのだ。こちらにも選ぶ権利はある。幽谷のことを何一つ知らぬのに見た目で神の一族の娘を娶ると決めて良いのか、慎重になった。

 女遊びなら数え切れない。
 けれど彼も一応は夏侯家の人間だ。家督を貶めぬよう、嫁に関しては真剣にもなる。
 甘寧は不満だったが、夏侯淵の心中を汲み取った蒋欽が宥め、取り敢えず本人達の意思を考慮しようと婚約の件は保留となった。

 それから、幽谷は蒋欽に連れられて曹操の居城を訪れるようになった。
 最初、武将も兵士も初めての狐狸一族の娘に遠巻きに興味津々だったものの、時が経つにつれ蒋欽達の妹として伝言を頼んだり鍛錬に誘ってみたりと、次第に親しく接するようになった。
 ただ、やはり夏侯惇と李典は一人では絶対に幽谷に近付かない。その場に屈むだけでも足や谷間が危ないのだ、鍛錬中などは直視すら難しい。幽谷の武術は狐狸一族とはまた違うもので、夏侯惇は興味を持っているのだが、彼女との手合わせは一生無理そうだ。

 幽谷も気を遣って、二人には近付かない。夏侯淵に何か用があると察した時は何も言わずに姿を消す。
 無口であるのと、気配を隠すのが非常に上手いのとで、彼らの用を済ませた後に幽谷を捜すのも一苦労だった。

 されど何度も繰り返すうちにだいぶ分かってきた。
 幽谷は、城内よりも城外を好む傾向にある。一人でいる時は外で鳥達と戯れているのがほとんど――――と言うか毎回だ。
 狐狸一族らしくもあり、四霊らしい。

 今日もまた、彼女は中庭で鴨と話をしていた。四霊が獣と会話が可能なのは、周泰ですでに知っている。

 会話が途切れるのを待って、夏侯淵は幽谷に声をかけた。


「幽谷」

「……夏侯淵殿」


 座り込んでいた彼女を見下ろすと、谷間が見える。しかも自身の膝で盛り上がって僅かに歪んでいる。柔らかさの強調されたこれは男にとっては絶景だ。
 さり気なく見つつ、夏侯淵は幽谷の隣に腰掛けた。


「夕暮れには雨が降るんだとよ」

「ああ……では、じきに里に戻らねばなりませんね」


 天を仰ぎ、幽谷は目を細める。
 朝には爽やかな快晴だった空も、厚い雲に覆われている。雨雲と言うにはまだ黒ずんではいないが、それも時間の問題だろう。


「そう言えば、お前はこっちに泊まらないよな?」

「はい。そのような許可は受けておりませんので」

「そうか……ま、甘寧が許さないんだったら、仕方ねぇか」


 泊まって欲しくない、と言えば嘘になる。
 けれどそれよりも、周泰達が頻繁にこちらに泊まるのに対して、幽谷が一日足りとも泊まろうとしたことの無いのが気になった。

 何となく感じるだけだ。
 ただ何となく――――曹操軍の長期滞在を避けているような……。
 気の所為だとは、思うけれども。

 幽谷をじっと見つめていると、彼女はこてんと首を傾けた。


「夏侯淵殿、どうかなさいましたか」

「……何でもない」

「泊まることをご所望でしたら、私から母上に、」

「それは良い。要らない。絶対に言うな」


 夏侯淵は即座に断った。
 別に嬉しくない訳ではない。泊まれるなら、泊まって欲しい。

 だが相手はあの甘寧であり、外泊許可を求めるのは言葉の少ない幽谷だ。どんな風に甘寧に都合の良い解釈をされて面倒な事態になってしまうか分からない。
 自分達はまだ婚約保留の間柄だ。これを機に、甘寧が一気に押し切ってこられても困る。

 夏侯淵が頑なに言うのに、幽谷は緩く瞬きをして曖昧に返した。

 それを誤魔化すように後頭部を掻き、「そうだ」と。


「幽谷、少し膝を崩せ」

「膝……こうですか?」

「ああ。そのままでいろよ」


 夏侯淵は少し移動して向きを変え、後ろに倒れ込んだ。
 膝に頭を載せる形となる。膝枕だ。

 幽谷は不思議そうに夏侯淵を見下ろした。


「夏侯淵殿。これは……?」

「膝枕って奴だ。雨が降ったら起こしてくれ。それまで、ずっとこうしてろよ。良いな」

「はあ……しかし、仮眠をとられるのならば、お部屋に戻られた方がゆっくり休めるのでは?」

「こっちで良い。部屋に戻るのは面倒だ。嫌なのか?」


 少し不機嫌になって問うと、幽谷はきょとんとして、首を左右に振る。


「いえ、嫌ではありません」

「なら良いだろうが」

「ですが……」

「ああ、もう、五月蠅い。オレが膝枕が良いって言えば良いんだよ」


 半ば投げやりに言うと、幽谷は「そうですか」と納得したような、していないような、微妙な顔をして頷いた。

 夏侯淵はそれに満足して、頭の位置を少しだけ変える。
 幽谷の足は細い。が、太腿の肉はとても柔らかだった。
 それにいつも思うが彼女からは良い匂いがする。狐狸一族の里が絶えること無く様々な花が咲いているが故だろう。その移り香が、本来の幽谷の匂いと混ざって、香にも勝っている。

 心地良さに力を抜き、夏侯淵は目を伏せた。

 ややあって、額から頭頂へ、何かが撫でつける。
 ぎこちない動きのそれに、しかし安堵を得た夏侯淵の意識は、急速に遠退くのだった――――。



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