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 世平が横を駆け抜けていく。
 店だった残骸に駆け寄った叔父は、ややあって怒鳴るように蘇双を呼んだ。


「蘇双! ○○がいたぞ!!」

「! え……」


 蘇双は立ち上がり、世平のもとへ。

 彼が示す場所は店の横の小道。
 そこには、婚礼衣装を真っ赤に染めた○○が仰向けに倒れ、その横で尻尾を揺らす白猫がいる。

 世平は○○の身体を抱き上げ呼吸と脈、怪我が無いか衣装の血に染まった部分を重点的に確認し、世平はほっとした。


「……眠ってる……細かい怪我はしているが、重傷は無いようだな」


 にゃあぉ。


「猫蘇双も、元気そうだ。この服の血は、別の人間のものだろう」


 何が起こったのかは、彼女が目覚めてからだ。
 取り敢えず皆の所へ戻ろうと蘇双が○○を背負い、移動する。

 と、暫くして、


「ん……」


 耳元で○○が掠れた声を漏らし、身体を震わせた。


「○○?」


 恐る恐る呼ぶと、ややあって、


「あら……蘇双さん。お久し振りですね」


 平坦な声が返ってきた。
 脱力しかけた身体を持ち直し、「ごめん」と。


「何かございましたか?」

「○○を店へやった日、俺達は洛陽を急いで去らなければならなくなった。陣屋があった場所に戻ってきて、驚いただろう」

「ええ。何にも無かったので、そこでのんびり寝ておりました。ですが、蘇双さんと一緒に寝ている時程眠れませんでしたわ」


 蘇双は彼女の声音に違和感を感じた。
 長らく聞かなかったからかもしれない。
 微かだが、言葉に感情の起伏があるように感じられたのだ。

 気の所為か?
 そう思ったが、首に回った○○の腕に少しだけ力がこもる。


「あの後、思い出しました」

「思い出した?」


 ○○は蘇双のこめかみにすり寄った。


「わたし、お母さんのことどうでも良かったのですね。お金を集めていたのも、わたしの生活費として集めていただけだったのを、たった数ヶ月前のことなのに忘れておりました」

「……○○、」

「……ふ、ふふ……ふふふ……」


 声色低く、笑い出す。
 初めて笑った。
 壊れたのではなく、嘲るような、蘇双の記憶に残る○○では考えられない程人間らしい笑い声だった。

 驚いて足を止めた。
 世平も目を丸くして○○を凝視している。

 蘇双達が洛陽を離れている間に、彼女に……否、彼女と母親の間に一体何があったのだろう。


「ふふふ……お母さん、手当てをして戻ってきたらまたわたしを人形にしていたのに、わたしを庇ったんですよ。いきなり現れた兵士にわたしが襲われようとした時、体当たりして、わたしの名前を呼んで、お父さんの所に逃げなさいって……自分が殺したのに、それを忘れて……かと思ったら、ふふ……人形が動いていると騒ぎ出して、私に怯えて傷だらけで逃げていったんです……あんなに速く……ふ、ふふふ……何がしたかったのか……ふふふふふ」


 笑い声は震え、湿っている。
 泣いていると見ずともすぐに分かった。
 ○○は驚く程、人間らしくなっていた。

 母親に庇われた直後に人形と誤認されて勝手に怯えて見捨てられて、感情が表面に出るようになったらしい。
 だがこれでは喜べないし、良かったとも言えない。
 もっと良い戻り方があっただろうに、よりにもよってこんな状況で、こんな状態で……とは。


「……世平叔父」

「ああ。関羽達には俺から言っておく。……お前もあまり気に病むなよ」

「分かってる」


 世平は小走りに猫族のもとへ。

 蘇双は適当な段差に○○を座らせ、隣に座った。

 ○○はやはり泣いていた。ぼろぼろと止め方が分からないようで、絶えず流し続けながら、笑い続ける。
 猫がすり寄ると抱き締める。

 世平にはああ言われたが、彼女を見てきっかけを作ってしまった蘇双を罪悪感がじりじりと苛む。
 蘇双が○○の犯行を目撃して、彼女の正体を確かめようとか思わなかったら、安易なことを言わなかったら、もっと良い形で良い方向へ進んだのではないだろうか。
 後悔先に立たず――――今更思い悩んでもどうにもならないが、そんな考えが止まらない。

 原因が彼女に何をしてやれば良いのか迷った末に、恐る恐る頭を撫でた。
 ○○は目を伏せ、猫を抱いたまま蘇双にすり寄った。胸の辺りにすり寄り、ただただ泣き、ただただ笑い続けた。

 劇的に人間らしくなっている。けれどこれはつかの間のことで、次の瞬間には本当に壊れてしまうのではないか……不安で落ち着かない。


「その……ごめん」

「何がです?」

「そもそもボクが安易なことを言わなければ、こうはならなかったかもしれない」


 別の人間が○○を救っていたかもしれない。
 ○○は暫し沈黙し、「でしたら」


「蘇双さんには責任を取ってもらわなければなりませんわね」


 また、すり寄る。


「殿方が女の人生を変える責任を負う代わりに、女は殿方に永遠を誓うものだと、継母に聞きました……」

「……は?」


 蘇双は固まった。
 ……ちょっと、待て。
 それはつまり結婚――――男女の深い関係にのみ適応されるものでは?


「責任は責任でもそっちの意味の責任じゃ――――」


 言い止(さ)し、彼女が笑いながらもぞっとする程虚ろな目でこちらを見上げていることに気付いた。

 ○○は母親の残酷な所業によって失った人間らしさを母親の残酷な所業によって取り戻した。
 だからといって、新たに何かが壊れていないとも限らない――――。

 蘇双は何も言わず、受け入れも拒みもせず、彼女が疲れて眠ってしまうまで頭を撫でてやった。

 その後寝ている筈なのに抱きついてこようとしたのを何とか回避し、着替えを持って駆けつけた関羽にそのまま引き渡す。関羽に抱きつこうとしないのが不思議だった。

 ○○を背負い、関羽は痛ましげに蘇双を見やる。


「世平おじさんから聞いたわ。○○、感情が出るようになってたんですって? よりにもよってこんな時に」

「一時的かも知れない。……落ち着いた後でもっと壊れる可能性もあるよね」


 眠る前の状態は言わず、示唆(しさ)する。

 世平から○○の母親がやったことも聞いたのだろう。関羽は苦しげに顔を歪めて「……そうね」頷いた。


「皆、この子を引き取ることには賛成してくれたわ」

「誰か殺されるかも知れないよ?」

「殺してお金を奪う理由はもう無いでしょう? 贅沢は出来ないけど、普通に暮らせる環境になるんだから」

「……まあね」

「○○を捨てるような形で洛陽を出て行ってしまったこと、関定達も結構気にしていたみたいよ。何だかんだで数日一緒に過ごしていたから情が湧いたのね。世平おじさんも言っていたけど、何だか蘇双に構って欲しがる猫みたいだったって。だからあなたも○○とずっと一緒にいるのかしら?」


 にゃあぉ。


 下に降ろされた白猫が尻尾をぴんと立てて鳴く。
 「きっと大丈夫よ」関羽は蘇双に言い、歩き出す。

 関羽の言葉を繰り返し、蘇双は吐息を漏らす。


「……そうだと良いんだけどね」


 脳裏に、○○の虚ろな眼差しが蘇る。

 結果的にこんな状況に追いやるきっかけを作ってしまった責任は取らなければならない。
 だが正直、どうやって彼女に責任を取れば良いのか現時点では分からなかった。
 蘇双は実の両親を幼い頃に亡くした。今の両親も良くしてくれている。親の修羅場や凶行を見ることなど無かったし、見捨てられるなんて考えもつかない。それはきっと他の猫族だって同じだ。○○の境遇こそ、作り話のようにすら思える。
 責任を取らねばならないと分かっていながら、どうやったら彼女の壊れた部分が直るのか、父親や継母、異母弟と暮らしていた頃の彼女に戻せるのか、見当もつかない体たらく。

 ただ、言えるのは。
 ○○の言っていた責任の取り方は簡単だが、何も解決しないということだけ。

 まさか人間の為にここまでなるとは思わなかった。
 が、○○に比べてずっと恵まれた環境で育った自分には非常に難しい問題だと思いながらも、不思議と億劫ではない。

 むしろ、真摯に取り組もうとしてる。


「悪いけど、お前も協力してよ。○○が普通に生きられるように」


 代わりに、別の名前を用意してやるから。
 蘇双は猫を見下ろして頼んだ。


 にゃあぉ。


 猫は、答えるように鳴き、蘇双の咽元に頭をすり付けた。



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