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 正直関わり合いになるには○○はかなりの勇気と覚悟と根気のいる相手だが、ここで野放しにしていざ騒ぎになった際、猫族との関係をさらっと暴露されてはたまったものではない。その時こそ猫族は更なる窮地へ立たされることになる。

 取り敢えず明日関羽が店の様子を見に行き、店主がいて、○○のことを人形だと思い込んでいたならそのまま関羽が人形を拾ったと伝えて届ける。正気に戻っているままならまだ様子見とすることで、○○を納得させた。

 不思議なことに、○○は蘇双の言葉には驚く程従順であった。
 関羽達が諭そうとして無駄に終わっても、蘇双の一言ですんなりと頷くのだ。

 これにより、満場一致で蘇双が○○の監視役となった。蘇双自身、他の者に任せることに強い恐怖を感じるので文句は言わなかった。

 念の為、○○が滞在している間は蘇双の両親には他の天幕に泊まってもらうように頼んだ。

 同年代の少女と二人きりで夜を明かす状況に、羞恥も期待も無い。ただただ厄介な事態になったと頭痛が止まない。そのうち胃痛もしてきそうだ。髪の毛……はまだ考えたくない。
 ○○は天幕の隅に端座し、眉間に皺を寄せっ放しの蘇双をじっと眺めている。
 猫は相変わらず、○○に構って攻撃を仕掛けて胸までよじ登ろうとする。

 ○○に怯えていた関定と張飛は勿論、関羽も同情していたくせにこの天幕には訪れない。世平が稀に様子を確認しにくるのみである。他の猫族が来ないのは、きっと世平から言ってくれているからなのだろう。

 蘇双は猫を見つめ、ふと口を開いた。


「例えばの話、その猫を殺したらどう?」

「この猫をですか?」


 猫の首に手をやろうとしたので咄嗟に猫を奪い取る。


「例えばの話で実際に殺せとは言ってない。もし傷つけたのが母親じゃなくてその猫だったら君はどう思うのか、訊きたいのはそれ。想像すれば良いだけの話」


 ○○は猫をじっと見、「わたしがその子を殺す……」思案する。
 そして――――。

 そこで初めて、表情に変化が現れたのである!


「殺す……傷つける……」


 眉間にうっすらと皺を作り、押し黙る。

 思わぬ手応えに、蘇双は少し拍子抜けした。
 ただ、この反応が正直なものなら、母親は猫以下ということになる。
 猫が殺されることに表情に出る程度の嫌悪があるが、母親を自らの手で傷つけても憎いのでもなく好きでもなかった――――それはつまり、《無関心》なのでは?

 だがそれでは○○の凶行の理由が分からない。
 無関心なら金を与えて助けようなどと思えまい。

 取り敢えず人として壊れてはいるだろうが、猫に対して抱く感情は辛うじて残っているのだと、存外なことが分かった。

 蘇双がほっとしたのは、無理もないだろう。
 猫が抗議するように鳴いたので解放してやると、一直線に戻っていく。


「その猫、名前は無いの?」

「……考えたことがございませんでした」

「じゃあ、今付けてみたら?」


 ○○は猫を飽き上げ、間近で見つめ合う。
 ややあって、


「でしたら、『蘇双』と呼ぶことにします」

「は?」

「あなたを魅了した殿方の名前ですもの」


 それが良いですわ。
 蘇双は顎を落とす。


「ちょっと待って。それボクの名前なんだけど」

「はい。ですからこの子が好きになった殿方の名前をと」

「どうしてそうなるのさ!」


 蘇双は変えるように言うが、○○はもう猫を蘇双と呼び、それに猫も嬉しげに鳴き返すのだ。


「蘇双も蘇双さんの名前が良いそうです。蘇双は蘇双さんが本当に大好きなのですね」

「……紛らわしいから止めてってば……!」


 何度言っても、蘇双に従順だった彼女はこればかりは言うことを聞いてくれなかった。

 その後猫を蘇双と呼び続ける○○に脱力してうなだれているのを、○○の分の寝具を持って訪れた世平が見て察し、無言で頭を撫でることになる。

 ○○の問題行動は、それだけに留まらない。
 いざ寝ようとなった時、蘇双が広げてやった寝具に入らず、彼女は座ったまま目を閉じたのである。
 人形扱いされていた頃の寝方なのだろうが、ここでまでそうする必要は無いと、強引に寝かせた。猫もご機嫌で○○の寝具の中に潜り込む。


「横になって寝るのは人形になってから初めてです」


 そう言って目を閉じた○○に安堵し、蘇双も寝に入る。

 翌日またとんでもない事態になるなど予想せず、すぐに意識を睡魔に委ねたのだった。



‡‡‡




 どうしてこうなった。
 窮屈になって目覚めてみたら、何故か目の前に○○の寝顔がある。
 逃げようと思ったら背中にきっちり腕が回っている。

 この時ばかりはさすがに恐怖や戸惑いよりも羞恥が勝った。

 何とかして逃れようとしたり、○○を起こそうとしたりして足掻いてみるが、無駄である。
 この○○、強めに背中を叩いても五月蠅く声をかけても、全く起きない。

 久し振りに横になったことで余程良い眠りに就いているのかもしれないが、どうして蘇双に抱きついているのか……。
 気付けば蘇双の背後に猫も丸くなっている。

 この状態で誰かが来たら――――地獄だ。
 蘇双は必死に○○を離そうと苦心する。

 が、○○は起きないどころか蘇双により密着してくる。足も絡めてきて、全身が爆発しそうである。

 そうこうしているうちに、天幕の外から世平の声が聞こえ、蘇双の赤い顔が一気に青くなる。
 されど世平なら――――と考え直し、「世平叔父、助けて!」と叫んだ。

 その声に世平が天幕に飛び込んでくる。
 険しい顔は蘇双を見て、一瞬で強ばった。
 無言で見つめ合うこと暫し、


「……蘇双」

「違うから! そっちに寝かせてた筈が、朝起きたら勝手に抱きついてて、離そうとすればする程くっついてきて苦しいくらいで――――」

「ん……」

「起きろってば!!」


 胸に頬を寄せてくる○○に、蘇双はたまらず叫ぶ。

 世平が苦笑混じりに蘇双から○○を引き剥がそうとするが、世平の予想以上に強くしがみついており、彼も苦心した。
 ようやっと引き剥がして元の寝具に戻してやっても、○○は起きなかった。


「相当懐かれてるな、お前」

「全っ然、嬉しくない……!」


 朝からぐったりとうなだれる蘇双の頭を撫で、世平はすり寄ってきた猫に声をかけた。


「猫蘇双。お前は早起きなんだな」

「世平叔父その呼び方止めて」

「だが彼女は蘇双って名前を付けちまったんだろ? しかもお前が嫌だと言っても変えないならどうしようもねえ。何でそんなに気に入られてるんだ?」


 さあ……と言おうとして、○○を見下ろす。
 暫し思案して、


「多分、人形生活が始まってからまともに会話をしたのはボクが最初なんだと思う……」


 思えば蘇双にさらさらと躊躇い無く自分の身の上を話してしまったのも、それが少しは作用しているのかもしれない。感情があるのか定かではないが嬉しかったのか、誰かに知って欲しいと思ったのか、単純に話し慣れていなくて加減が分からなかったのかは、分からないけれども。

 ○○を眺めているうち、世平がぼやいた。


「まるで猫みたいだな」

「猫?」

「猫は人を選ぶって言うだろ。群を作らず上下関係が無い所為か、自分が心を許せる人間を見極めて懐くんだそうだ」


 とどのつまり、○○にとって心を許せる相手が自分であると……。

 ……。

 ……。


「それってつまり彼女の飼い主になれってことじゃないよね」

「そうまでは言ってない。ただ、ここにいる間だけは仲良くしてやっても良いんじゃねえか。種族のことは抜きにして」

「仲良くって言ったって……」

「同衾(どうきん)した相手への接し方が分からねえか?」

「違う!!」


 大声で否定する甥に世平は笑い、ひとまず朝飯をこっちに持ってくると天幕を出ていった。

 蘇双はぶつぶつ文句を言いながら己の寝具を片付け、○○から少し離れた場所で彼女が目覚めるのを待った。
 目覚めてすぐ説教をしたが、剥がした後に起きた所為か本人に自覚は無く、さして効果は望めずに終わった。

 それから数日、蘇双は○○の母親の所在が分からずに陣屋で彼女の面倒を見ることになる。

 ○○は片時も蘇双の側を離れなかった。
 寝ると必ず朝には蘇双に抱きついている癖は何度言っても一向に直る気配を見せず、関定に見られて絶好のからかいの種と化す。
 一部では蘇双に恋する○○と言う認識が広まり、更に蘇双を悩ませた。

 自身について色々と考える暇が出来た○○は、猫族の陣屋にいる間は、彼女が強盗殺人を犯す機会も無かった。

 ただ、日が経つにつれ金がそろそろ底をつくとそわそわしだしたのを世平が見かねて、ある日犯行を未然に防ぐ為、曹操から支給されている金を少しだけ持って行かせた。無論、金を置いたらこちらに戻ってくるように言いつけて。
 ○○は素直に従った。

 が――――。

 薄暮に店へ帰宅した○○が猫族のもとに戻ることは無かった。



 彼女が戻ってくる前に、猫族は強制的に洛陽を去らざるを得ない状況に追い込まれたのである。



‡‡‡




 とにかく○○のことだけが気がかりだった。

 こちらの意思に関係無く董卓討伐の連合軍に加えられた猫族。
 黄巾賊討伐同様、曹操によって巻き込まれた彼らは憤然としながらもどうすることも出来ない現状に奥歯を噛み締め従う他なかった。

 わけても蘇双は、置いていく形になってしまった○○とその母親のことが気がかりだった。

 あの時点でまだ母親は行方が知れない状態だった。
 だから陣屋に戻るように言ってあったのに、猫族は洛陽を去った。

 あれから○○と猫がどうなったのか……考えない日は無かった。
 それは世平らも同じで、彼女が悪い状況に陥っていなければと願っていた。

 そんな彼らであったから、ようやっと戻ってきた洛陽の惨状を目にした衝撃は大きかった。

 あんなにも賑やかに活気づいていた洛陽は、死んでいた。
 あらゆる建物は焼けて崩壊し、瓦礫の隙間から黒こげの、人間だったものがはみ出している。

 子供の物だろうか玩具が一部焦げて石畳に転がっているのを見、蘇双は目を逸らした。


「ね、ねえ、蘇双……○○は?」

「……行ってくる」


 曹操軍は董卓を追いかけていった。
 猫族はもう自由の身。

 だから、蘇双は駆け出した。
 真っ直ぐに○○が人形として母親と暮らしていた店へ――――。


「!」


 真っ黒に焼かれ倒壊していた。
 店が見えた瞬間、蘇双は立ち止まった。

 心臓がばくばくと早鐘を打つ。
 走れば体温は上がる筈なのに、逆に冷えていく。
 強い罪悪感が胸の内から無数の針を突き出すように痛みを生む。