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 再び、店を訪れた。
 一人でだ。

 結局、その先の結果がどうであれ、少女乃至(ないし)は人形の正体を確かめてすっきりしようという結論に落ち着いた蘇双。
 誰にも言わずに少女が座る店に入る。

 周りの人間達が容赦なく向けてくる痛々しい蔑視にはもう慣れつつある。
 蘇双が店の中に入っても人間達が盗みだなんだのと騒ぎ出さないだけましだ。


「すいません、誰かいませんか」


 怪しまれぬようもうすぐ必要になりそうな物を陣屋で確認して金まで持って店にやってきたというのに店に店主の姿は無かった。奥へ声をかけても出てくる気配が無い。

 少女は、変わらず婚礼衣装を身にまとって座っている。

 蘇双は首を傾げ、もう一度声をかけた。

 すると。


 にゃあぉ。


「……猫?」


 店主ではなく、真っ白な猫が尻尾をぴんと立てて現れたのである。
 猫は人懐こいようで段差から飛び降りると蘇双の足にすり寄って歓迎を示す。
 蘇双が頭を撫でると嬉しそうに鳴き目を細めた。


「お前のご主人はいないの? 買い物に来たんだけど」


 猫は鳴いて小走りに少女へ寄り、膝の上へ飛び上がる。丸くなって欠伸を一つ。

 蘇双も店主がいないのならと、目的である少女に恐る恐る近付いた。寄せた手に顔を擦り付ける猫を可愛がるフリをして少女の様子を窺う。
 間近で見ると、人形とは思えない生々しさをより強く感じる。

 じっと見つめていた蘇双は息を呑んで手を少女の顔にそっと近付けた。
 頬に触れる。

 ふに、と。


「あっ……」


 触れた瞬間全身が粟立った。
 引っ込めた手を見下ろし、息を震わせた。

 人間らしい弾力と温もり。
――――生きている。

 彼女は、生きている。


「……人形じゃない……」


 やっぱり、人間だ。
 茫然と呟く。


 にゃあぉ。


 と、猫がまた鳴いた。

 猫を見下ろし、固まる。

 か弱い手が猫の背を優しく撫でている。
 首の後ろから尻尾の付け根辺りまでを何度も何度も撫でている。

 無論蘇双の手ではない。


「見つかってしまいましたね」


 抑揚の無い声を聞いた途端蘇双は大きく距離を取った。

 人形が――――少女が、ゆっくりと顔を上げる。


「怖がらせてしまいましたか。でしたら、申し訳ございません」


 感情の無い目が蘇双を捉えた。

 蘇双は言葉を失い、暫く間抜けな顔を晒していた。
 猫が暢気に鳴き、動きを止めた手にせがむように身動ぎする。

 少女は猫を見下ろし再び撫でてやった。

 その様子を眺めているうち、柔らかな安堵が蘇双の恐怖を塗り潰して全身から力を奪う。
 蘇双は座り込んだ。深呼吸を繰り返し、努(つと)めて冷静に、少女と対峙した。


「君は……」

「わたし、とうとう刑罰を受けなければならないのですね」

「え?」

「残念です、ええ、とても」


 ほう、と少女は溜息を漏らす。
 言葉通りのことを思っているのか怪しいくらいの無表情は人間らしさに欠けるが、彼女は間違いなく生きた人間であった。


「……えええ……」


 あっさりとした展開に拍子抜けする。

 今まで自分が怖がっていたのが、意気込んで店に臨んだのが、何とも情けなくなった。
 長々嘆息すると、少女が無表情を向ける。


「言っておくけど、犯罪者だって突き出す気は無いよ。ボクはただ自分が見たことを確かめたかっただけだから」


 少女は何度か瞬きを繰り返し、


「そうなのですか。それはようございました」

「……本当にそう思ってる?」

「思っておりますわ」


 頷いてみせるが、ぴくりともしない無表情では説得力が無い。
 意気込んでいた自分を馬鹿だと思いながら、蘇双は口を開いた。

 が、先んじて少女が。


「ところで、お話をするなら猫と話しているフリをして下さいませんか。わたしは、人形でいなければなりませんので」

「……それ、もう少し早く言うべきじゃない?」

「いつ言おうかと、機会を待っておりました」


 何なんだ、この人間……。
 本当に彼女が二人も殺したのか、自分は彼女を怖がっていたのか、疑問に思った。
 言う通りに彼女の前に屈み、猫を撫でる。

 色々と複雑な感情が胸に去来する蘇双の手を見下ろし、


「あなたは、今は怖がらないのですね。前はあんなにも怯えていらっしゃいましたのに」


 と。

 それは、覚悟していたような結果とは逆方向の展開になってしまった上に、少女の態度にも拍子抜けしたからだ。
 そう答えると、「左様でございますか」と淡々と納得された。


「君は人を殺して何していた訳?」

「お金をいただいておりました。お母さんを気味悪がって、お店に人が寄り付きませんし、収入よりも出費が酷いので、お金が無いのです」

「気味悪がってって……別に普通の人間のお婆さんって感じにしか見えないけど……」

「お母さんは許されないことをしました」

「許されないこと?」

「お父さんがいたのに、お父さん以外の男性と密通をしておりました。わたしがまだ四つの頃です」


 猫の背を撫でていた少女の手が止まる。
 猫が不満げに少女を見上げるも、何かを察したようで催促はしなかった。

 少女は目を伏せ、語る。

 浮気の発覚後母親はすぐに男の所へ行った。父親よりもずっと若い男の方が良いらしかった。
 その後、父親は少女を連れて故郷へ帰り別の女性と再婚。少女も継母に十分過ぎる程愛されて育った。

 一方母親はと言えば男と上手くいかず、男の為に昼夜問わず働かされ、男の暴力と度重なる浮気で追い詰められた果てに捨てられて精神を病んでしまった。

 そして、少女が十五になった一昨年、男と浮気相手を殺したばかりか、彼女は父親の故郷にも現れた。夜中に家に押し入り、少女以外を斧で何度も何度も殴り斬り、惨殺したのである。
 襲われること無く、実母が実父を、継母を、生まれたばかりの弟をなぶり殺す様を眺めているしか出来なかった少女へ、母親は三人の返り血で全身を真っ赤に染め、笑った。
 『お母さんが迎えに来たよ』と――――。


「わたし、それから暫くのことは覚えていないのですが、気が付いた時には二年も経っていて、お母さんはお父さんもわたしも大昔に病で死んだと思い込んでおりました。わたしのことは、娘にそっくりだからつい買ってしまった人形だと信じて疑いません」


 蘇双は見目こそ規格外に美しく、酷い欠陥を抱えた少女を見つめた。
 母親が壊れた原因、自分が壊れた原因、どちらを話すにも、声音にすら感情が微塵も混ざらない。ただ書かれた文字を事務的に音読しているだけのようだ。
 彼女の言動全てに、人間なら表れるべき感情の一切が無い。


「母親が許されないことをしたと分かっていて、母親が新しい家族を目の前で無惨に殺したことを覚えていて、どうして母親の為に人を殺してまで金を稼ごうと思うのさ。いつまでも人形のフリをしているのさ」


 普通なら、そのような母親に罪と分かっていることまでして尽くす程の情が湧くとは思えない。
 少女は目を開け、顔を上げた。蘇双を見つめ、蘇双の言葉を繰り返す。

 ややあって、


「そう言えば、そうですね」


 どうしてなのでしょう。
 と淡泊に言うのである。

 眩暈がした。


「どうしてって……こっちが訊いてるのに」

「申し訳ありません。わたしにはお答えしかねます。不思議でございま――――」


 少女は言葉を止めて猫から手を離した。元のように顔の位置を固定する。

 突然黙った少女に声をかけるよりも足音が聞こえた。


「……おや、この間の子じゃないか。今日はあの女の子じゃないんだね」


 蘇双は不満げな猫を慰めるように頭を撫でてやり、首を巡らせた。

 ようやっと、店の奥から店主――――少女の母親が現れた。


「……どうも。猫を飼ってるんですね」

「飼ってる訳じゃないよ。どうしてか野良猫が居着いちまってね。で、今日は何を買ってくれるんだい」


 柔和に微笑む店主。

 彼女を見ていると厭悪が顔に出てしまうからと、蘇双は俯き加減に商品を手に取り金を払った。早々に店を出る。
 猫が、蘇双を送り出すように鳴いた。



‡‡‡




 蘇双がその噂を聞いたのは、店で少女と会話を交わした翌日の昼だった。

 劉備のところへ出かけていた関羽が帰りざまに、夏侯惇達が騒いでいたのを聞いたそうだ。
 その内容を聞いて、蘇双は肝が冷えた。


「……白い衣の少女が人を殺してる?」


 声が、震える。


「ええ。なんでも、洛陽で二ヶ月くらい前からお金持ちが刺殺されてお金を奪われている事件が頻発していたそうなの。それが昨夜、重傷でも何とか逃げられた人が曹操の屋敷に助けを求めて来たみたいで」


 暗くて顔は良く見えなかったけど真っ白な衣をまとった若い娘だったんですって。

 ……間違い無い。
 彼女だ。

 人殺しを失敗したのだ。

 何故、と考えて、昨日の会話が蘇る。


『母親が許されないことをしたと分かっていて、母親が新しい家族を目の前で無惨に殺したことを覚えていて、どうして母親の為に人を殺してまで金を稼ごうと思うのさ。いつまでも人形のフリをしているのさ』

『そう言えば、そうですね。どうしてなのでしょう』



 あれだ。
 何をどう考えてどうなったのかは分からないが、あれがきっと原因に間違い無い。
 蘇双は青ざめた。

 彼の心中など知らず、洗濯物を取り込みつつ関羽は気を付けてねと注意を促してくる。

 平静を装い言葉を返した。


「注意しないといけないのはボクより買い出しにも行く関羽の方だろ。……じゃあ、この洗濯物を片付けてくるから」

「ありがとう。後はわたしだけで十分だから、自由にしてて良いわよ」

「分かった」


 関羽に顔を見られないよう気を付けながら早足にその場を離れ、すれ違った同族に散歩してくると嘘をついて洛陽へ――――少女のいる店へ走った。

 店は閉まっていた。

 商品の無いがらんとした店内には少女の姿も無い。呼んでも店主は出てこない。

 まさか捕まったんじゃ……!?
 青ざめる蘇双。

 されど側を通りかかった男女が、十三支がいると嫌悪混じりに吐き捨てた後、気になる話をした。


「ここの頭のおかしい婆、昨日の夜誰かに斬られたんだってさ」

「え、本当? 死んだの? 出来れば死んでて欲しいんだけどー……」


 蘇双は彼らに背を向けたまま聞き耳を立てた。


「あー……死んだって話は聞かねえなあ。俺もあの婆には死んでて欲しいけど、何か人間と同じ方法で死にそうになくね?」

「ああうん、それ分かるー! ……あ、今思い出したんだけど。先月くらいかな。お姉ちゃんがたまたま店の前通ったらお婆ちゃんに話しかけられちゃってさー、人形の前に立たされて何言われたと思う? 『自慢の娘なの、可愛いでしょう? 良かったらお婿さんを紹介してちょうだい』だって! 私聞いただけで鳥肌が止まらなくてさー!」

「人形を嫁に貰う男なんている訳ないじゃんなー」


 人形が実は人間で、店主の娘だと知ったら、この二人はより店主を嫌悪するだろう。