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※前半ホラー風味です。
※流血注意



 自分達とは無縁だった洛陽。
 見たことも無い程の活気が熱気となって身体にまとわりつき、大量の嫌悪と恐怖などの邪な感情が目に見えぬ魔物と変わって迫り来る。

 圧倒されるでもなく、怖じ気付くでもなく、自分達が如何に人間に忌み嫌われているか、黄巾族討伐軍陣営に引き続き市井に於いて再確認して、むしろ冷静になっている。

 大切な長劉備が曹操に攫(さら)われ、取り戻す為に洛陽まで追いかけてきた猫族。

 関羽が明らかに冷静さを欠いており、怒気どころが殺気立っている。
 お陰ですれ違った人間達は皆恐れおののき、遅かれ早かれ兵士を呼ばれそうだ。

 さて、関羽をどうやって落ち着かせるか――――洛陽に入った猫族数人の中では冷静な方の蘇双は周りの様子を窺いながら、思案していた。

 しかしふと強い風が吹き――――足を止めた。
 微かに鼻腔に入り込んだのは、鉄の臭いだ。
 気の所為とも思える程度の微妙な臭いだったが、嫌に気になってつい、首を巡らせた。

 そして、目にしてしまうのだ。


 一人の少女を。


 そこは蘇双達から離れた路地だった。
 家屋と家屋の間を通る細い道は双方の庇に日差しを遮られて薄暗い。

 が、少女の姿はやけにはっきり見えた。

 とても美しい少女だ。
 黒髪を高く結い上げ、白地の衣は赤い斑点が無数に散らばる。赤い雫を垂らす細長い物を握る右手、不気味に揺れる小さな巾着の紐を握る左手はとても細い。

 少女の足下には、何か大きな物が転がっている。猪のように大きなそれから突き出し、少女の左足の甲に乗っている物の正体が分かった瞬間、蘇双は戦慄した。

 人、である。

 それは倒れた男性の身体なのである。
 少女の足に乗っているのは、彼の手……ぴくりとも動かぬ。

 心臓が痙攣(けいれん)したような感覚に襲われた。

 いや、まさか、そんな――――。
 死んでいる?

 こんな真っ昼間の、洛陽で?

 少女が、こちらに顔を向ける。
 何も無い無表情を蘇双へ向ける。

 恐ろしい、と。
 思った。

 咄嗟に顔を背け、数度深呼吸をする。
 もう一度路地へ視線をやり、肩を落とした。安堵した。


 少女の姿は、無かった。


 あるのは、石畳に横たわる男の身体だけ――――。


「蘇双ー! そこで何してんだー!」

「! ……っい、今行く!」


 裏返った声で返事をし、蘇双はその場から逃げた。
 見なかったことにしよう。
 忘れてしまえ。
 無理矢理に、頭の中から追い出した。



‡‡‡




――――これは、悪夢か。
 店先でそれを目にした瞬間蘇双は呼吸が止まり、咳き込んだ。


「ど、どうしたの蘇双!? 大丈夫!?」


 隣で商品を選んでいた関羽が慌てたように蘇双の背中をさする。

 「何でもない……」蘇双は呼吸を落ち着かせ、もう一度店の奥を見る。

 結局曹操に逆らえずに洛陽郊外に暮らすことになって数日。

 蘇双は関羽の手伝いで共に買い物に付き合っている。
 たまたま欲しい物が店頭に並んでいた店に寄って、まず店主が自分達にどのような反応をするか確かめようと奥を見た時、それが視界に入った。

 少女が奥に座っている。
 蘇双が数日前に見た、あのおぞましい少女が。

 豪奢な婚礼衣装を身にまとい、煌びやかな装飾品で全身を飾り付けた美しい姿で。

 少女を見た瞬間全身が凍り付いたかのような衝撃を受けた。


「な、んで……」

「蘇双? ……あら、あれって、」


 関羽も少女に気付いたようだ。「綺麗……」感嘆の溜息をつき、じっと魅入った。

 それに、ようやっと出てきた店主の老婆が、


「あら、十三支のお客さんとは初めてだ。何をお求めかね」


 特に蔑視するでもなく、人間の客に対するのと変わらない態度で近寄ってきた。
 が、関羽と蘇双の視線が少女に向けられているのを見て、ああ、と納得した。


「その人形が気になるのかい」

「え……」


 人形?
 蘇双は顎を落とした。


「こんなに大きな人形があるんですね。初めて見ました。とっても綺麗……」

「昔に病で亡くなった娘にそっくりでね。つい、貯蓄はたいて買っちまったんだよ。気味が悪いと思うかもしれないが、あの子にしてられなかったことを人形にしていてね。止めようと思っても止められないんだよ」

「そうなんですね。気味悪くなんてないですよ。それだけ、大事な娘さんだったんでしょう」


 店主は頷き、生前の娘が如何に器量が良くて親思いの子だったか語り、満足してから商売を始めた。
 関羽も人形に救いを求める店主にすっかり同情し、予定以外の物も買い求める。

 その間、蘇双はずっと店主を疑わしく思っていた。
 あれが人形?
 人間と同じ大きさじゃないか。そんな人形があるのか?
 あれが人形――――作り物だなんて到底思えない。

 だってボクは確かに彼女が動いているのを見た!
 衣を真っ赤に染めて、赤い刃を手にして、蘇双に顔を向けた。
 少女は確かに動いた。
 生き物として存在していた。

 白昼夢? だとしたら自分は何処から夢を見て、何処で夢から覚めた?
 分からない。
 心当たりなど無い。


「蘇双? 買い物終わったけど……あなたも何か買う?」

「え? あ……別に」

「そう。じゃあ、次のお店に行きましょう」


 関羽は蘇双の心中など知る由もなく、不思議そうに顔を覗き込みながらも特に深く追求はしてこなかった。

 話したところで信じてもらえるか分からないから、蘇双としてはその方が有り難い。
 店主に見送られて立ち去る直前にもう一度少女の人形を振り返る。

 蘇双を見ているように感じたのは、気の所為だと思いたい。

 その日から、関羽がその店と交流を持ち始めた。

 猫族を十三支と呼ぶものの特に強い差別意識がある訳ではなく、普通に客と店主のやりとりをしてくれるのを有り難がってというのが大きいだろうが、関羽自身が店主へ同情したのもあって優先して利用することにしたのだった。

 蘇双にしてみれば身近な人が不気味極まる存在と接触を密にしていることがそら恐ろしく、かといって周りにしてみれば荒唐無稽な話を理由に注意を促されても戸惑うのは必定。疲れているだけだと片付けられるならまだ良いが、気が触れたと思われかねない。
 結局止めることも出来ず、関羽が店主とどんどん親しくなっていくのを怖々と見ているしか無かった。

 蘇双はあれから一度もその店には行っていない。街中を歩いていても少女を見ることは無い。
 このまま関わらずに、いつかは故郷へ帰れるのだと願っていた。

 だが、縁とは奇異なるもので、本人の意思に関係なく嫌がらせのように効力を発揮する。

 蘇双が劉備の部屋に忘れ物をして、夜になる前にと一人薄暮の洛陽に入った時のこと。
 劉備の話し相手をしたこともあり、忘れ物を回収して曹操の屋敷出た頃にはもう辺りは暗く、蘇双は早足に来た道を戻っていた。

 その道途。再びあの微かな鉄の臭いを拾った蘇双は反射的に足を止めた。
 背筋が冷えたのと首が勝手に動いたのはほぼ同時。

 また、家屋と家屋の間の薄暗い路地の奥だった。今回は近い。二歩、三歩進めば路地の影に踏み入る距離だ。

 少女がいた――――大柄な男と抱き合って。

 夜目が利くことを、今程後悔したことは無い。
 男が目を剥いて口を魚のように開閉させのも、手が必死に少女の肩口にしがみついているのも、大きな身体がずるずると崩れ落ちる様も、晴れた昼間の日向から見るよりもくっきりと見えてしまう。

 蘇双は、その場から動けなくなっていた。
 目が少女から離せない。


「……ぁ、はぅ……へ、へぇ……」


 ヒューヒュー苦しげな息遣いの中必死に蘇双へ何かを訴えてる死にかけの男を助けるのが人道だろうけれど、蘇双は少女の呪縛から逃れられない。

 少女がゆっくりとその場に屈み、男の身体に覆い被さってまさぐり始める。
 懐から財布らしき物を取り出して立ち上がる。

 蘇双を、見る。


「あぇ……」


 何とか発せられた我が声は間抜けで、頼りない。
 恐怖がぶわりと膨れ上がり、逃げろと頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。だのに身体は動かない。

 少女は蘇双を見て無表情に首を傾げる。
 最初に見た時と同じく真っ白な衣と匕首を血で汚している彼女。
 視線を逸らして戻せば何処かに行ってしまうかもしれない。

 嗚呼、目が逸らせれば!

 少女は蘇双をじっと見つめる。表情は全く動かない。
 人らしい感情が窺えれば恐怖も僅かにでも薄らいだかもしれない。少なくとも動く人形ではなく、人間に近い生き物であるとは認識出来るのだから。

 足が動く。
 蘇双のではなく、少女の足が。


「……!」


 少女が近付いてくる!

 動けない。
 逃げたいのに逃げられない!

 元々近距離であった為に少女はすぐに蘇双の前に立った。
 背丈は蘇双よりも少し低い。
 月光を受けて青白い顔にまで血飛沫は至り、紅唇の鮮やかな色は血を塗った所為なのではないだろうかと、蘇双は本気で思った。

 少女は蘇双へ顔を近付ける。鼻先同士が掠める位置で蘇双の目をじっと凝視する。

 身が竦んで動けぬ蘇双は、ややもすれば気が遠退きそうだった。

 やがて、少女の細い人差し指が蘇双のうっすらと開いた唇に触れる。
 少女の指は温かかく、柔らかかった。

 人間の指の感触だった。


「ぇ……」

「これは、わたしとあなたの、秘密ですよ」


 少女は無表情に言い、蘇双から離れて舞うように身体を翻した。路地の影に潜り込み颯爽と走り去っていく白を茫然と見送り、彼女が完全にいなくなったと分かるやその場から駆け出した。

 それから何処を走って帰ってきたのか、分からない。

 我に返った時自分の視界には雑草にぶちまけられた吐瀉物が占め、その酸い臭いにまた吐いた。
 関定が背中をさすってくれていた。
 何か変なことを口走っていないのではないかと不安になったが、彼の蘇双を気遣う言動から察するに自分はどうやら帰ってきてすぐ吐いて、間を置かずまた吐いたらしい。それが今だ。
 体力も限界ぎりぎりで、全身が呼吸を急かし、心臓がばくばくと早鐘を打って苦痛で訴えかけてくる。

 張飛に呼ばれて駆けつけた世平らによって蘇双は天幕に運ばれ、養母の看護を受けて翌日まで眠らされた。
 翌朝。
 夢だったならどんなにか良かっただろう。

 目覚めて、空腹を覚えるよりも早く少女の指の感触を思い出し、蘇双は頭を抱えた。
 柔らかくて温かかった彼女の指。あれは人間の指だ。とても人形のそれとは思えなかった。

 だが、店の奥に座っていた婚礼衣装の彼女は店主が昔亡くした娘にそっくりだという理由で購入した人形だと言う。
 人間と同じ大きさの人形があることを疑うべきなのか、人形にそっくりな人間が同じ街に存在していることを疑うべきなのか……。

 数日安静にしていろと言われた蘇双には、十分すぎる程考える時間があった。