▼露乃様
奸雄曹操は、狂った。
原因は、二人の若い娘。猫族と人間の混血である。
何処で聞いたのか、曹操は二人が混血であることを知った途端豹変。すぐに娘達を捕らえ、監禁状態にした。
猫族と人間が混ざり合って生まれた奇跡の血であると、異常な程に拘泥(こうでい)するのは、彼もまた混血であるが故。
同じ混血であるだけで、自分が二人と何よりも強い縁で結ばれている、己の傍こそが彼女らの運命に定められた居場所なのだと彼は妄信した。
曹操の周囲の者共は、主の乱心を訝りながらも、その狂気に触れることを恐れ、見ないフリを決め込んだ。
娘達を逃がそうとした、忠誠心が誰よりも高かった臣下が怒り狂う主の凶刃を受けて片目を失ったあのおどろしき瞬間が、余程忘れられなかったと見える。
猫族の手を借りて従兄弟と共に逃げ出した臣下を、狂気の曹操は三人の運命を乱す脅威と捉えた。
敢えて臣下の二人と特に親しかった武将数名に命じ、彼らと猫族を殲滅せんと追わせる。逆らう者など無かった。
同じ主に忠誠を誓い共に死地を何度も切り抜けた仲間であろうと、我が身の可愛さにはとても敵わぬのであった。
決して責められることではない。
今の曹操に逆らってどんな折檻(せっけん)を受けるか分からない。ただ斬り捨てられるだけならまだしも、かの二人との密通を疑われて厳しい拷問を強いられ悶死してしまうやもしれぬのだ。
彼らを殺せずに戻ったとしても、どのような仕打ちが待っているか……想像すら出来ず恐怖はより増したに違いない。
自らの保身故に血眼になって殺そうと追ってくる彼らの為を思い、猫族と元臣下二名は一芝居うつことにした。
長雨で地盤が弛み地滑りが発生していた場所にて、あたかも全員が土砂に呑み込まれ死亡した風を装った。
分かりやすく曹操軍との面識が密であった者の得物等を土砂で塞がれた山道にちりばめた。むろん、元臣下の愛用していた剣や弓も。
これによって混血の娘二人の心がより追い詰められることも考えられた。
懇意にしていた者達を酷い目に遭わせたくなかった元臣下達の気持ちを猫族が汲んだのと、こちらが死んだと思われれば動きやすいこともあって、決行を選んだ。
物事は実に上手く進んだ。
追っ手側も心身共に疲弊していた為、まともに思考出来ない状態であったのも大きい。殺さねばならない者達が、自然に殺されていた事実に安堵し、証拠として遺品を持ち帰った。
これが彼女らに漏れなければ良いが、追っ手がどのように報告したかまでは確かめようが無い以上、無事なことを祈りながら、迅速に行動する。
破竹の勢いで瞬く間に河北を制定した曹操の動向を市井に紛れて逐一調べつつ、猫族は時を待った。
その中で曹操に降った各地の諸将が曹操への反乱を企て曹操軍内部と頻繁に密通しているという情報も大量に得た。
もはや、これまで。
元臣下は命を捧げた程の主を断腸の思いで見限った。
そして――――曹操が南征へと動き出したとの報が舞い込んだ時、彼らは動く。
荊州の要請に応えて動き出した呉との戦を機に、曹操軍内部の反乱分子がこれを機に蜂起するという情報も同時に得ている。その後北の各地でも反乱が起こるのなら、救い出すには今が好機と踏み切った。
曹操率いる大軍勢が許都を去った後に数人が許都に侵入、予想通り二人共許都に残されていることを確かめた。
念入りに策を練り、救出に臨(のぞ)む。
かつては従兄弟と共に主の為とここで鍛錬に精を出していた。
夏侯惇は冷えた空気を吸い、痛む眼窩を覆う眼帯を押さえる。
彼は今、張飛と共に許都に立っている。
「……なあ、良いのか? まだ本調子じゃないんだろ?」
張飛が不安そうに夏侯惇の眼帯を見つめる。
曹操に斬りつけられてだいぶ経つが、未だ傷は完治しているとは言い難く、まだ隻眼の視界にも慣れていない。満足に戦える身でないことは、誰よりも自分自身が分かっている。
されど。
洛陽で道場を失い、弟子達と共に親戚の住む呉へ移住を決めた老師から別れの挨拶に譲られた、若かりし老師が振るっていた剣を見下ろし、強く握り締める。
彼らが呉に移住して良かった。もしこのことを知ったらどうなっていたか……想像に難くない。
孫と、孫が連れてきてくれたももう一人の孫と、もう一人の息子に、また会える日があれば良い……洛陽を去る日に心から残念そうに漏らした老師。
この剣に誓って、失態は犯さない。足手まといにもならない。
今度こそ、必ずや二人を助け出す――――。
「耐えられない程ではない。俺のことを気にかけるならもたもたするな」
「……分かった。じゃあ行こうぜ。趙雲達が門前で騒ぎを起こす前に、先に侵入してる蘇双達と合流しねーと」
「心得ている」
予定では、蘇双達がすでに城内に潜伏し彼女らの居場所を突き止め、そこへ自分達を誘導する手筈になっている。
徹頭徹尾迅速かつ慎重な行動が求められる策に臨むとあって、心臓がずっと騒いで鬱陶しい。
失敗して捕らわれでもすれば、我らの命運は尽きる。
誰も助かりはしない。
「張飛。抜かるなよ」
「当たり前だ。行こうぜ」
駆け出す張飛を追いかける。
眼窩がずきりと痛みよろめくが、幸い張飛には気付かれなかった。
‡‡‡
○○と言う十三支が尊敬する壮老師の孫であることに、我が耳を疑った。
だが、老師の道場の弟子の大部分が○○を翠憐師範代と間違えて親しげに話しかけたりすることと言い、老師が息子夫婦に持たせた桃の木の細工物と言い、どうやら事実らしい。
道場の人間は全て十三支を猫族と呼び、○○を武人として尊敬している。
夏侯惇夏侯淵両名にはとても信じられない、非常に友好的な態度だった。
騙されているのかと思った。
が、老師には逆に自分達の態度が咎められるし、そんな小器で武を高めようなどとは笑止千万だと怒鳴られた。
『良いか、二人共。この老爺の過ちを良く聞きなさい』 ある夜、夏侯惇と夏侯淵を家へ招き、壮老師は語った。
壮老師自身、息子が翠憐と言う猫族の女を連れてくるまでは十三支と蔑んでいた側の人間であった。
それが間違いで、これによって武の極みへの道が閉ざされていたのだと気付かせてくれたのは息子の姿に他ならない。
毎日のように翠憐との鍛錬に打ち込むうち、父すら凌駕する武人に育っていく息子を見ていて、ある日なるほどと納得した。
猫族の武術は、壮老師にも見慣れない型であった。翠憐は自分の戦いやすいようにこれに手を加えているし、相手に合わせて更に一瞬一瞬の間に思案し変化させていた。彼女の動きは誰にも予測不可能なのだ。
息子は、見たことも無い動きで、一瞬で変幻する読めぬ戦い方をする彼女と毎日手合わせするうちに、感覚を研ぎ澄まし、めきめきと腕を上げていった。
翠憐の武の異質さに気付いたのは、翠憐を十三支ではなく一人の武人として見ていると自覚した時。
この女は強い――――心の中で認めた瞬間、視界が一気に澄み渡ったようになり、唐突に翠憐の動きをつぶさに分析出来るようになったのである。
息子が父を越えたのはそういうことか、と納得した老師は、息子と翠憐を師範代とした。師範にしなかったのは、彼らが固辞した為だ。
十三支であることに強い嫌悪を露わにした弟子達には、彼女を武人として見る努力しろと一喝し、一人一人手合わせさせた。
そのうち、老師が気付いたことに漠然とながら気付き始める者が現れ、翠憐は次第に師範代、師範代、と弟子達から手合わせを熱望されるまでになった。
己の武が、己の狭い視野によって閉ざされていたのだと、気付かされたのだった。
夏侯淵は後々そんなことは無いと否定してはいたが、夏侯惇の胸には壮老師の言葉が強く残った。
壮老師の言葉を受けて騒ぎ出した、否定と肯定が入り交じった胸中に決着を付けるべく、○○に手合わせを所望したところ結果は惨敗。
実際に戦ったことで、関羽と○○双方の戦い方に感じていた違和感がはっきりと分かった。
関羽の動きが十三支に伝わる武術に忠実なのだとしたら、○○はそれを自分のやりやすいようにあれこれ変えていた。○○の母翠憐のように。
よくよく見ずともはっきりと分かる違いが、どうにも分からなかったのは、壮老師の言う通りなのかもしれない。
手合わせの最中、○○は関羽の動きと違うと理解した瞬間に、頭の中が晴れたような錯覚に陥った。その一瞬の隙に勝負が決まったのだ。
恐らく壮老師は、分かっていたのだろう。
夏侯惇が○○と関羽の動きに違和感を感じていたことを。だからわざわざ家に呼び寄せて、あんな話をしたのだ。
それからの夏侯惇の行動は早かった。
その日の夜に壮老師の家を訪れ、そのことを包み隠さず話した。その上で、壮老師の○○と関羽の評価を訊ねた。
壮老師は待っていたとばかりに、○○と関羽のみならず世平の体捌きも交えてそれぞれの違いを滔々(とうとう)と語ってくれた。
それが、夏侯惇にとって後押しになった。
以後十三支一人一人を一個の武人として捉えて観察するように心がけ、○○にしつこく手合わせを求めた。
いつしか彼女に勝つことが武の極みに到達する為の最低条件だと考えるようになった。
それは、○○が己より遙かに格上の武人であると認めたようなものである。
そこから、夏侯惇は武以外に於いても彼らと対等にものを考えるようになる。
当時の夏侯淵は夏侯惇のこの変化を理解せず、壮老師の言ったことを真に受けるなと警告されたこともしばしば。ほとんど、夏侯惇が逆に説得し、夏侯淵が途中で逃げるという形になっていたが。
そんな彼が。
○○の武を追いかけていた筈が、○○を追いかけていたのは、いつからだっただろう。
境界線が、夏候惇自身にも分からない。
だが気付くのが遅すぎたのだけは分かった。
気付いたら弟子の一人と話しているのすら気に食わなかった。
いつかは○○も関羽も嫁いで行くんだなとぼやいた弟子を思い切り睨んでいたと、夏侯淵に指摘された時にはもう戻れないくらいに惚れ込んでいたのだ。
惹かれいく心は気付く前に歯止めを失い、ずぶずぶと深みへ沈み続ける。その激情の心地良さは手放しがたい感覚だった。
なればこそ――――主を捨てて○○を選んだことに後悔は無い。
曹操への忠誠よりも、曹操に奪われた○○の不幸を予想しながら何もせずにいる方が耐えがたかった。
混血に狂った曹操の手から愛した女を取り戻したい。
この激情は、張飛にも劣らない。むしろ勝っている自信すらあった。
○○を助ける為なら、腕を斬り落とされても戦い続ける。
取り戻すまで、死んでも彼女を追い求めるだろう。
武の高みを目指す為でなく、死ぬ時まで己の隣にいて欲しい一人の男の願いの為に。
昔の自分ならば想像出来なかっただろう。
十三支と罵っていた種族の混血の娘を、こんなにも愛してしまった自分など。
許都に侵入する前夜に一人自嘲していたのを思い出し夏侯惇は苦笑する。
たった一人、真っ白な世界で。
‡‡‡
酷く気怠い目覚めである。
瞼を押し上げると見慣れた天幕の天井が。
寝かされている。
何故?
茫漠とした記憶を手繰り、今まで自分が何をしていたのか思い出そうと苦心する。
一人で過去のことを思い出し懐かしんでいた――――あれは夢か? 現実か?
それすらも分からない状態である。
眼球を失った眼窩が疼き、痛む。
暫く天井を見上げていた彼の口から、ぽろりと、無意識にその単語がこぼれた。
「……○○」
呟いて、今が夢か現かも判断がつかなかった彼の意識は完全に覚醒した。
そうだ、○○!!
彼女と関羽を助けに曹操の居城へ侵入したのだ。
夏候淵の誘導で○○を連れ出し、張飛達と合流した……その直後の記憶が無い。
あれから何があった?
ここは何処の天幕だ?
○○は助かったのか!?
矢も盾もたまらず上体を起こして――――腹から何かがずり落ちたのに気付いた。
視線を落として、あっと声を漏らす。
いた。
○○、が。
全身から力が抜けた。
彼女の身なりは曹操に捕らえられる前の動き易さを重視した物に戻っている。
ということは、ここは猫族の陣屋、ということになる。
まさか許都の側に陣屋は構えまい。
追っ手がかからぬと判断された場所に陣屋を構えたと思って良いだろう。
俺達は無事に逃げられたのか……。
長々と溜息をつき、夏侯惇の腹に突っ伏して眠っていたらしい○○の頭を撫でる。
部屋に押し入った際にも思ったが、関羽も○○も、驚く程痩せ細って弱々しくなった。
窶(やつ)れて濃い隈が目の下に出来た酷い顔をしている。
よほど安心しているのか、夏侯惇が起き上がって太腿辺りにまでずり落ちても彼女は起きる様子を見せない。死んでいるのではないかと不安になり、呼吸を確かめた。生きている。
ほっとしたのもつかの間、夏候惇はすぐに渋面を作った。
外は明るいが、少し冷える。
風邪を引く前に起こしてやるべきか、心身共に消耗しているだろうから何か羽織らせて眠らせたままにしておくべきか。
迷っていると、忙しない足音が段々と近付いてくる。
声がけも無く中に入ってきたのは関羽。寝衣らしき物を抱えて入ってきた彼女は夏侯惇を見るなり目を丸くした。夏侯惇も○○も寝ていると思っていたらしい。
声をかけようとするも、○○が眠っていることに気付き、一旦口を噤(つぐ)む。
○○の背中に寝衣を被せてやり、小声で夏侯惇に話しかけた。
「もう、身体は大丈夫?」
「目の痛みを除けば気怠い程度だ」
関羽は安堵して泣きそうな笑みで頷いた。
「そう……良かった」
「んん……」○○が呻いて僅かに身動ぎした。起きるかと思ったが、彼女の瞼が上がることは無かった。
関羽は妹へ優しい眼差しを向け、「この子ね」
「わたし達と合流した途端あなたが倒れてからずっと側を離れなかったのよ。夏侯惇殿がいつ目覚めるか分からないから寝る時間も、食事を摂る時間も惜しいって言って持ってきた食事を食べようともしないで。勿論食べさせたけど」
「……俺はどのくらい寝ていたんだ」
「四日よ。たまに目を開けていた時、○○とその場にいた人達で呼びかけたり、ちょっとだけ水や柔らかく炊いた野菜をすり潰したのを飲ませたりしていたの、覚えてる?」
言われて、記憶を手繰る。
「……いや」
首を横に振ると、「そう……」関羽は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい。わたし達の為に無理をさせてしまって……」
合流した直後に倒れた夏侯惇を背負って逃げてくれた張飛も、右太腿に敵の矢を二本受けてつい昨日まで寝たきりだったらしい。
夏侯惇は謝罪する関羽に、自分達が決めたことだと返す。
関羽と○○を助ける為に危険を冒すと決めたのは夏侯惇と張飛であり、危険を承知で手を貸してくれると申し出てくれたのは猫族。
全員それぞれが二人を助けたいと思った結果なのだから、それだけ思われていることを喜びこそすれ、二人が負い目を感じることは無いと諭した。
関羽は途中で涙ぐみ、目元を拭いながら何度も何度も頷き、感謝の言葉を繰り返した。
彼女もまた身体同様精神も酷く弱っていることは救出した際に分かっていたので、今はここにいるよりも張飛か仲間の和に混ざっていた方が良かろうと、○○はこのまま寝かせておくと言って戻らせた。
消化に良い食事を作って持ってくると言い残していったのは、お節介に過ぎる関羽らしい。
それから間を置かずに、張飛が夏侯淵に支えられながら右足を引きずって訪れた。
無傷の筈の夏候淵の顔色が優れず、体調が悪いのかと心配すると、彼は「兄者……」声を震わせ夏候惇から視線を逸らした。何か言いたげだが、言いたくなさげにも見えた。
張飛が気遣うように夏侯淵を見やる。自分が言うかと申し出るが、夏侯淵は唇を曲げ、ゆっくりと首を横に振った。
その不穏な様子に夏候惇は眉間に皺を寄せる。
「夏侯淵。どうした」
「……曹操軍は、情報の通り内部で寝返りが相次ぎ、荊州を救援した呉に大敗。壊滅状態で敗走したそうだ。それを受けて北では各地で一斉に挙兵……許都に戻って関羽達がいなくなったと分かってもそれどころではなくなる筈だ」
「……。……そうか」
なるべくしてなった結果である。
されど、まだかつては忠誠を誓った曹操に情けが残っているのか、曹操軍が惨敗したことへの僅かな落胆と、この惨敗で曹操が正気に戻るのではないかという小さな期待があった。
そんな自分を馬鹿馬鹿しいと内心嘲りつつ、今度は張飛が口を開くのへ意識を向ける。
「寝返った部下に襲われて重傷を負ったっていう曹操の行方は分からねえ。だから今のうちに、壮爺ちゃんがいる呉へ逃げようかって話も出てる。趙雲とおっちゃんは、今動くのは危ないって言ってるけど」
「……二人の言う通りだ。あの方が許都に戻ったと分かるまでは何処か、誰にも見つからない場所にこもっていた方が良い。呉からの追っ手を避けながら逃げているのだから、何処で遭遇するか分からない」
這々(ほうほう)の体で許都へ逃げ帰る重傷の曹操を奇襲して殺す手もある。むしろ猫族の未来を守る為ならばその方が良い。
だが、追い詰められた人間程何をするか分からない。すでに予測不可能になっていた彼が追い詰められて、より執念を燃やした時何が起こるのか――――夏候惇らにとって良い方向には絶対に傾くまい。
だが、現在河北の諸将はすでに曹操を追い込む準備を整え互いに示しあわせて一斉に挙兵した。
今猫族が彼を殺さずとも、人間によって彼は更に追い詰められることになるのだ。
ならばこちらは人間達から隠れて状況を見守り、動乱の波に紛れて逃げるのみ。
曹操軍の正確な被害状況は分からないが、少なくとも曹操が重傷を負い、軍そのものも壊滅状態であるならば、兵士は疲弊し、かつて圧倒的な武で下した者達にも簡単に圧されるだろうとは想像に難(かた)くない。
各地で同時に蜂起された故に限られた兵力を分散しなければならない。どんなに混血の同胞を渇望しようとこちらに構っていられる状況ではなくなる。
が、今の曹操がこちらの想像の及ばないことをすると分かっているだけに、自分達の考えでは不安がつきまとう。
暫し思案していた夏侯惇は、ふと壮老師が話していたことを思い出した。
「……臥竜鳳雛……」
「がりょう……何だって?」
「壮老師の旧友を兄と慕う水鏡と呼ばれていた男の門下に、旧友に臥竜、鳳雛と称された程の才覚の者が二人いたと聞いたことがある。名前は分からないが、片方は荊州の何処かに隠遁(いんとん)しているらしい。もし彼の知恵を借りられれば、俺達が考えるよりももっと有益な選択肢を増やせるかもしれない」
ただ、壮老師は呉におり、その者についてより詳しい情報を得られない為、荊州中を探して回ることになるが。
もっと詳しく聞いておけば良かったと後悔する夏候惇。
しかし、そこで夏侯淵と張飛は顔を見合わせた。
「水鏡って……もしかしてあいつの言っていた水鏡先生のことか?」
夏候淵の言葉に、夏候惇は首を傾げる。
「あいつ?」
「あー、あいつってのは……許都から逃げるオレ達をここまで案内してくれたホウ統って言う、顔が醜いからって仮面つけてて、滅茶苦茶変で貧相なおっさんのこと。そいつの恩師が水鏡先生だとか何とか言ってた……ような気がする」
「何だと……」
夏候惇は瞠目した。
これはなんと言う僥倖(ぎょうこう)か。
水鏡先生が夏候惇の聞いた水鏡と同一人物だとするなら、彼に訊ねれば臥竜鳳雛の居場所が分かるかもしれない。
話を聞けば、ホウ統なる男は見た目の所為で仕官するあてが無くなってしまったので、暫く一緒に行動させて欲しいと勝手にいついているそうだ。
特に猫族を差別することは無いらしい。
猫族としては、ホウ統を巻き込む訳にはいかないと、ここを離れる時に別れるつもりだったようだ。
だが、彼の話次第では話が変わる。
夏候惇も、この後にでもそのホウ統と話をしたいと思った。
水鏡の門下と言うのなら、彼もこちらの助けとなってくれるかもしれない。
「じゃあ、皆と話し合う前にホウ統に訊いてみようぜ」
「兄者の言う臥竜鳳雛について知っているなら、あいつも話し合いにも参加させる必要があるな」
「そうだな。……あ、もしそいつを捜しに行くことになったら、知ってたらホウ統加えて、趙雲と猫族の何人かってことになると思う。オレと夏侯惇は完治するまで待機な」
「……仕方あるまい」
無理をして○○の救出に向かい、四日間の昏睡状態――――関羽の話ではものを飲んだり食べたりしてはいたそうだから厳密にはそうではないのだが――――から目覚めたばかりの身体では、動けるようになった後でも元の勘を取り戻すまで相当量の鍛錬をしなければならない。
ホウ統の返答によるが、荊州にいるとしか分からぬ者を捜す間にどれだけの危険が伴うかも今後の動乱の程に左右される。
それを考えると、口惜しいが今の夏侯惇は確実に足手まといになる。
「まあ、実際動き出すのはまず誰にも見つからない場所に落ち着いてからだけどな。移動するのだって、オレと夏侯惇が長距離を歩けるようになってからだし。今はホウ統のこととか、方針を決めるだけってことで」
「迷惑をかける」
「仲間なんだし、気にすることはねえよ」
『仲間』
張飛が自然とこぼした言葉を繰り返し、夏侯惇は思わず小さく吹き出した。
「どうした? 兄者」
「いや……張飛に『仲間』と言われる日が来るとはな。昔の俺が聞いたらどんな顔をするか」
「きっとすげー嫌そうな顔するぜ」
張飛が笑って言うのに、夏侯惇も笑ったまま同意する。
夏侯淵も眦をつり上げて不満そうだったが、否定出来ないので黙りである。
それもまたおかしくて、夏侯惇は声を漏らして笑った。
二人分の笑い声でさすがに、○○が呻き、ゆっくりと瞼を上げて夢と現をさまようようにそのままの格好で視線をさまよわせた。
それを見て、張飛と夏侯淵は天幕を出て行く。
暫し焦点が定まらなかった○○は、時間をかけて己の状況を把握した。
不意にはっと起き上がり、夏侯惇を見る。
途端、真ん丸に見開いた目から大粒の涙をこぼし始めるのである。
声を出さないのは、多分感極まって出せないからだろう。魚が水面でやるように口をぱくぱくと開閉させて、夏侯惇を凝視する。
自分を救出し直後に倒れ以後四日間意識が無かった人物が起きているところを、起き抜けに目撃したのだから、衝撃を上手く消化出来ないのも無理はない。
夏侯惇は現実を把握出来ずにいる愛しい少女を抱き寄せた。
頭を優しく撫でてやると、小さな身体が痙攣し出す。
ややあって、啜り泣き始める。
夏侯惇の寝衣をぎゅうっと握り締めて、結局言葉を発せられぬまま嗚咽を漏らす。
○○が落ち着くまで夏侯惇はずっと彼女の頭を撫でていた。
天幕の外に人の気配がある。
夏侯淵と張飛ではない。一人だ。
なかなか落ち着かない○○を気遣って、天幕をそっと覗き込んだのは関羽で。
夏侯惇が気付くと、○○と手にした料理を示して地面に置き、静かに立ち去った。
関羽の気遣いにも感謝しながら、夏侯惇は一度強く痩せた身体を抱き締めた。
彼女の温もりが、取り戻せた現実をようやっと夏侯惇に実感させてくれる。
二度と奪わせない。奪われてたまるか。
何をしてでも、守り抜いてやる。
心の中でそう、泣き止まぬ○○に向けて、堅く誓う。
「……ああ、そうだ」
約束した『あの言葉の意味』をきちんと教えてやらなければ。
「○○。このままで良い。何も言わずに、俺の話を聞いてくれ――――」
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