休日。

 幽谷は朝早くから家を出た。
 仄かに甘い匂いをまとわせて、真っ直ぐに駅へと向かう。私服姿の彼女は、ただ歩くだけでも目を引いた。色違いの目も起因するが、彼女の凛々しい顔つきは人を惹きつけた。
 視線が気になりはするものの、彼女自身にその自覚が無いのは、言わずもがなである。

 切符を買ってホームに向かうと、ふと誰かに呼び止められた。


「幽谷」

「……夏侯惇殿」


 背中に、布にくるまれた細長い物を担いだ青年が、白線の手前で立ち止まった幽谷の隣に立った。

 左目は眼帯で覆われ、右目は鋭い眼光で幽谷を射抜く。彼のこの相手を威圧するような姿勢は、昔からだ。大概の人間はこれに萎縮してしまうが、それなりの付き合いがある幽谷は慣れっこであった。

 幽谷は夏侯惇に頭を下げた。だが、同時にあれっとなる。
 いつもと態度が違うのだ。


「今日は道場へ?」

「ああ、練習試合に立ち会うことになった。それに加えて、相手の師範代とも手合わせをする」


 そう言う彼はいやに嬉しげだ。相手の師範代との手合わせが、余程嬉しいと見える。
 相変わらず、剣道に対する熱は健在であった。

 幽谷はゆるく瞬いた。


「そうですか。では、健闘を祈ります」

「お前も来ないか?」


 幽谷はかぶりを振って拒む。孤児院に行くことを話せば、彼はすぐに納得してくれた。一応、幽谷が孤児だとは彼も知っているのだ。さすがに孤児になった経緯までは知らないが。


「孤児院に行くのなら、俺と同じ電車に乗るのか?」

「恐らくは」

「そうか」


 師範代との手合わせを控えているからか、突然道場を辞めた幽谷を責め立てはしなかった。いつもは出会い頭にキツく言われるのだが、それが無いのだ。
 責め立てられるのも面倒臭いが、いつもと比較的穏やかな彼は、少々調子が狂う。
 最初の違和感に納得しつつ幽谷は夏侯惇を横目に見やった。

 そしてふと己の手を見下ろした。
 竹刀を握らなくなって久しい自分の手には、まだ硬いタコがある。これはきっとずっと残るだろう。
 また、竹刀を振るいたいと思ったことは何度かあった。
 けれども自分は関羽達を支え守りたいからと、道場を辞めた。戻ってこいと師範にも夏侯惇にも言われるが、今更戻ることはしない。

 とは言うものの、身体が鈍っているかもしれないと思うと、確かめたいという気持ちが湧いてしまうのだった。
 特に、道場に通っている間手合わせをする何かと機会の多かった――――と言うよりは、ほぼ毎日手合わせを強要されていた――――夏侯惇と会うと、それも一層強まった。


「幽谷?」

「……いえ。何でもありません。道場の子供達は元気にしていますか?」

「ああ。先日、彩芽が引っ越して辞めたがな」


 幽谷は軽く目を見張った。


「あの子、引っ越したのですか」

「ああ。親の転勤でな」


 彩芽とは、幽谷が辞める直前に道場に入ってきた女子である。相当腕に自信があったようだが、それ故に幽谷に完敗してより、彼女が辞めるまで何かと突っかかってきた高飛車な娘であった。

 幽谷に負けはしたが、その腕は優れたもので、師範も師範代も、夏侯惇すらも彼女の将来には期待したものだ。

 それが辞めてしまうとは、残念なことだ。引っ越した先でも剣道を続けてくれれば良いのだが。


「私が辞めてから、誰か入りましたか?」

「十人程度な。見込みのある奴もいた」

「それはようございました」


 ここで、いつか見に行くと言うべきなのかもしれないが 行けば夏侯惇にまた手合わせを強いられそうだから言い出せない。

 幽谷とて、道場の子供達は可愛がっていたし、様子が気になってもいる。

 が、如何せん夏侯惇は幽谷との手合わせについてはとにかくしつこく食い下がる。正直、彼に付き合うのは面倒臭い。
 強い者と手合わせをしたがる彼が、自分の力を認めてくれているのが嬉しいことだとは、一応思っているのだけれど。
 思わず嘆息をつきそうになったその時、アナウンスが流れた。


『間も無く、二番乗り場に、△△行き普通が到着します』


「電車が来ますね」


 幽谷の声は掻き消された。
 青緑の電車が風を裂きながら速度を落とし、停車する。

 扉が開けば夏侯惇が先に乗り込む。

 幽谷もそれに倣(なら)って、ドアの側に立った。彼女らの後には、休日で街にでも出かけるらしい若者や、こんな日でも仕事があるらしいサラリーマンなどが続いて乗り込んだ。

 夏侯惇もまた、幽谷の側に立った。吊革を持って荷物を上の棚に載せた。


「人が多い……」

「仕方がない。この時間帯はいつもこうだろう。平日よりはましだ」

「それはそうですが……」


 平日になるとこの時間帯は満員電車になることも珍しくない。
 たまに女性が痴漢に遭うこともある。幽谷も被害に遭ったことはあるけれど、その時は即座に取り押さえて駅員に突き出してやった。

 それを思えば、確かにましだろうが……。

 近くでたむろする着飾った少女達の抑えもしないはしゃいだ声が喧(かまびす)しく不快である。
 少々下品な笑声に眉根が寄ってしまった。


「最近の若者は……」

「お前が言うな」


 確かに自分はまだ二十代前半である。だが、彼女達は自分よりも若い。というか、関羽よりも低いのでは無かろうか。恐らく中学生だ。休日だけだろうとは思うが、せめて、ミニスカートでヤンキー座りは止めて欲しい。周りには男性もいるのだから。
 溜息を禁じ得なかった。


『次は、○○。○○に停車致します』


「……まだ、か」

「……」


 呆れた風情で、夏侯惇はうんざりとした幽谷を見やった。



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