幽谷は、屋敷に戻ってから夜が更けた今まで、ずっと筍に寄り添っていた。
 部屋の縁側には諸葛亮がおり広い庭から村中を見渡している。

 村の家屋はどれも、扉も窓も全てキツく閉められていた。強い拒絶の塊が、闇の中でぼんやりと点々と浮かび上がる。

 村人達の不安は、今宵払拭されれば良いのだけれど……。
 何より、筍がこれで救われて欲しい。
 筍は、日が沈んでからずっと異様な怯えを見せていた。
 だがそれも、筍の性質上仕方のないこと。きっと今まで部屋で一人、誰にも分からない、筍だけに分かる恐怖に堪え忍んでいたのだ。
 抱き締めてやると、震える身体がすり寄ってくる。


「幽谷、筍は大丈夫か」

「私以上に敏感になっているようです。まだ姿を見せていない状態でこんな風なのに、今までずっと一人で耐えていて、気が狂っていないのが不思議なくらい……」


 諸葛亮は筍を見、痛ましげに顔を歪めた。
 その瞳は一瞬だけ遠い彼方を見る。
 きっと、生き別れになった弟妹を重ねているのだろう。
 諸葛亮が狐狸に入ったのは、幼い頃賊の襲撃から逃れるさなかに離ればなれになってしまった弟妹を探す為である。

 幽谷は諸葛亮を呼ぼうとして、筍が一際大きく震えだしたのに声を詰まらせた。


「……やだ……やだ……やだ……来る、……来て、る……怖いの、怒ってるの……お母さん達を怒ってるの……伯母さん達が、来てる」

「筍? 筍っ!」


 双肩を掴んで揺すると、彼女は大粒の涙を流し始める。ごめんなさい、お母さん達をゆるしてあげて、と繰り返す。
 そのところどころで聞く単語に、諸葛亮が反応した。


「……やはり、伯母、か」

「諸葛亮殿? 伯母と言いましても、村長の娘はこの子の母親一人では……」

「いや、いたのだ。もう二人」


 村長の手によって殺された娘が二人、な。

 幽谷は目を剥いた。
 諸葛亮の言葉にではない。諸葛亮の後ろに現れた二つの影に、だ。
 筍を離し諸葛亮の腕を引いて背後に庇った。

 けれども、諸葛亮は「必要無い」と幽谷を筍の方へ押しやる。そして自身が、影に向き直った。


「お前達の朽ち果てた肉体は何処にある。こちらで丁重に弔った上で、村で起こった大罪を然るべき場所で裁いてもらおう」

『……』

『……』


 影は揺らめくだけだ。部屋の中から溢れる光を受けても黒い。身体は全て墨に塗り潰されている。
 それぞれ同じ程の身長で、体格もよく似た女だ。
 彼女らは物言わぬ。ただ揺らめきそこに佇むのみ。

 幽谷は固唾を呑んで、影と対峙する諸葛亮を見つめる。


「村長達の自業自得だが、これ以上関係無い姪を苦しませるな。罪はこの子には無い。それは、お前達とて分かっている筈だ」


 そこで、影が筍を見たように思えた。目がある訳ではない。けれども、何となく彼女らの意識が筍に向けられたと幽谷は感じた。
 それは決して、敵意や憎悪などではなかった。微かな悲しみが込められていた。

 筍が恐る恐る顔を上げると、影が大きく揺らいだ。


『……れ』

『遅れ……手遅れ……』


 かそけき声は、哀調を帯びている。懺悔するように、諸葛亮に告げる。


『……もう……染み着いた……』

『……もう……祓えぬ……』


 諸葛亮は押し黙った。憐れむように、筍を振り返る。
 彼に向けられた言葉は、まだ続いた。


『その子……だけ、』

『……明日……連れて行け』

「……諸葛亮殿」

「……」


 諸葛亮の意思を後ろから問う。
 彼女らの伝えたいことは、漠然と分かった。
 だが、彼女らの言葉は筍にとってはあまりに残酷だ。

 こちらの返答を待たずして――――否、拒絶して、影はすうっと消えた。

 同時に、声が聞こえ始める。ゆっくりとした、低い濁声は不穏な言葉を歌でも歌うかのように夜陰に溶け込ませた。


『この村の村長は』

『前妻と娘を川へ沈めた』

『後妻と作った娘は、』

『家族皆で殴り殺した』

『二人は醜女(しこめ)』

『親に殺された歪んだ顔の娘』

『村人達も知らぬフリ』

『醜女など死んでも困らぬ』

『赦しを乞うてももう遅い』

『最後の一人が死ぬ日まで』

『我らは呪う』

『我らは呪う』

『苦しめ』

『苦しめ』

『全ての責は村長へ』

『全ての罪は村長へ』

『妹だとて赦しはせぬぞ』

『妹だとて逃しはせぬぞ』


 不穏な言葉を並べながら徘徊する妖とは、彼女らのことだったのか。
 言葉に込められた呪詛が夜陰に溶け、汚していく。
 決して誰にも浄化出来ぬよう、毎夜毎夜呪詛を広めていく。


「諸葛亮殿……」

「……明日、何としても二人の亡骸を見つけて弔おう。そして、村長とその娘には必ず相応の罰を受けてもらう。少しは、ましになるかもしれん」

「……染み着いている、とは……やはり、」

「この屋敷の妖気のことだろう。これを助長させているのは村長達の自分本位な罪逃れの念だ。醜く逃れようとすればする程に妖気は強まっていく。そして、彼らに逃げようとさせているのは……」


 ……筍の、この顔もある。
 偶然の不運。
 幽谷は筍を抱き締めた。

 筍のこの顔は、呪いでも何でもない。
 むしろ恵まれたが故に起こってしまった、炎症のようなものだった。
 この村にいる限り、彼女の顔は、一生このままなのだろう。
 依然恐怖に震える筍の頭を撫でると、背中に腕が回る。ぎゅうっと縋るように抱き締められた。

 筍の伯母にあたる二人は、繰り返し繰り返し村長の罪を話して回る。

 影が戻ってくる様子は、無い。
 こちらの言葉に従う気は毛頭無い。村長が、妹が、そして村人達が一人残らず死に絶えるまで続けるつもりなのだ。
 それだけ、裏切られた憎しみは深い。
 姪である筍だけ逃してくれる辺り、まだ微細にも良心は残っているようだ。筍だけ見逃されるのに、疑問が無い訳ではないけれど。


「……今夜はここで夜を明かそう。筍の為にも」


 諸葛亮は引き戸を閉め、明かりを消した。
 途端に筍はびくりとするが、幽谷が背中を撫でると深呼吸を繰り返した。


「筍。私達がいる。恐れなくて良い」

「……うん」


 諸葛亮が幽谷の背中に回した筍の手に触れると、筍はその手を握り締めた。



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