泉の畔(ほとり)には小さな祠があった。
 長い時間熱心な手入れを受けていない、所々腐り朽ちかけた粗末な祠だ。
 壊れて意味を為さなくなってしまっている扉を覗き込めば中には小さな石像がある。苔むしたそれは辛うじて、ゆったりとした衣をまとう女人であることが窺い知れる。
 産土神(うぶすながみ)だろうか。

 この祠はまだ《生きて》いる。
 虫の息だけれどまだ力が残っている。
 幽谷には、そう感じられた。
 じっと石像を眺めていると、ふと下からにゅっと手が伸びて来た。

 驚いて身を引くと、少女――――筍が伸ばした手に握っていた小さな花束を石像の前に置かれた一輪挿しの中に挿した。一輪挿しの丈よりも花の茎が短く口に、花のうてなが引っかかって不格好だ。

 されども筍はそれを満足そうに見上げ、大きく頷いた。祠に向けて合掌して頭を下げた。

……ぽわり、と。
 幽谷はぎょっと祠を見やった。
 筍が拝した途端に祠から感じられる微弱な力が、少しだけだが強まったではないか。

 たった一人の少女が拝しただけで、こうなる筈がない。
 この少女に、強い霊力が備わっていない限り――――。


「……筍、あなたは、」


 まさか。
 幽谷の呟きに、筍はきょとんと見上げた。


「なあに、お姉ちゃん」

「ちょっと、よろしいでしょうか」


 幽谷は向き直った筍の前に片膝をつき、首筋に手を当てた。すうっと息を吸って目を伏せる。少しだけ力を込めて脈を探した。
 血液の巡る場所。そこに触れて意識を集中させた。
 脈動の中、その波動を探す。

 ……。

 ……流れている。
 間違い無い。

 幽谷は目を開けて筍の頭を撫でた。


「お姉ちゃん?」

「……いいえ。何でもありません」


 この子は、本当に哀れな娘だ。
 これは生まれつきだと本人は言っているが生まれつきではない。
 生まれた瞬間に《敏感に反応してしまった》だけなのだ。
 村に居続ける限り、彼女は醜いまま。

 この村の邪気をどうにかするか、この子を村から連れ出すか。
 そうすれば、彼女の顔は元の通りになるだろう。

 それが分かって、幽谷はほっと安堵する。


「あの祠に手を合わせていたのは、昔から?」

「うん。占者のババ様がね、毎日毎日生きて、暮らしていられるのは、祠の女神様のお陰なんだって。だから毎日ありがとうを言いましょうねって、約束したの。ババ様は死んじゃったから、私だけになっちゃったけど……」


 ババ様はね、私のこと殴ったりしなかったの。遊びに行くといつもお菓子を一緒に食べたりしてたの。
 筍は顔を歪める。けれど、幽谷には、彼女がどんな気持ちで、その思い出を語っているのかよく分かった。声が、とても穏やかなのだ。

 幽谷は微笑み醜い顔の少女を、そっと抱き寄せた。



‡‡‡




「ここにいたのか、幽谷」


 日も沈んで橙色から藍色に空がうつろう頃、諸葛亮は泉を訪れた。
 筍と花で冠を作って――――幽谷の出来映えは触れずにおく――――遊んでいた幽谷は、立ち上がって諸葛亮に拱手した。

 筍が真似して拙く拱手するのに、微かに笑う。


「随分と仲良くなったな」

「はい。筍には、色々と遊びを教えていただきました」

「あのね、お姉ちゃんお歌が下手なんだよ」

「……」

「……私はお前に金輪際歌うなと、いつだったか言った覚えがあるが」

「……どうしても、とせがまれてしまって」


 お陰で筍は多分今までで一番大笑いした筈だ。それだけは良かったと思う。……思っておきたい。
 幽谷は呆れた諸葛亮の視線から逃れるように顔を逸らし、思い出し笑いを始めた筍の頭を撫でた。

 されど、ふっと顔を引き締めて「話はどうでしたか」と。

 諸葛亮は腕を組み、筍を見下ろした。


「……今日中に、解決させた方が良さそうだ」


 そう言い、彼もまた筍の前に座り込んで頭を撫でてやった。

 筍は占者のババ様以外の人に頭を撫でられることなど――――いや、持続的に優しくされること自体無かったのだろう。
 少しだけ照れ臭そうに俯く。けれど、嬉しそうだ。

 諸葛亮もそれが分かるのか、薄く微笑む。


「村長の屋敷に泊まることになる。……が、体調は大丈夫か。無理であるなら、別の家に――――」

「いえ。構いません」


 それに、諸葛亮に話しておかなければならないこともある。
 そう伝えると、彼は「分かった」と。


「では、そろそろ戻ろうか。件の現象が起こるまでになるが、お前は筍の側にいてやれ」

「はい。では、筍。戻りましょうか」


 優しく言葉をかけると、筍は頬を痙攣させた。
 瞳に映った濃い怯えの色は、母親に向けられたものだろう。
 だが、文句は言わない。幽谷に手を握り締めて諸葛亮にも手を伸ばした。

 諸葛亮も、その手を拒みはしない。

 筍の両側に並んだ二人を見上げ、彼女は俯く。


「お姉ちゃんと、お兄さんのとこに生まれてくれば良かったのになぁ」

「……」


 それは、半分だけが本心。もう半分は違う。
 地面を蹴って独白した筍に、幽谷は胸が締め付けられる思いだった。

 子供は、親の愛情を受けて育つのが当たり前。親の周囲を見て世界を知っていく。
 けれども筍は、受けるべき愛情は無い。彼女の見る世界はあまりにも禍々しく、厳しい。
 それなのにこんなにも健気に育ったのは、奇跡だ。

 幽谷は暫し考え、口を開いた。


「それは、駄目です」

「え?」


 筍が弾かれたように顔を上げる。

 瞳を潤ませていく彼女に、幽谷は笑って見せ、


「……私は、あなたの友人ですから」


 と。
 友達になって欲しいと言われたでもなく、友達だよねと確認されてもいない。
 だが、幽谷ははっきりと断じた。

 筍は軽く瞠目した。
 ややあって、今まで以上にぐにゃりと顔を歪めた。
 それが彼女に出来る最上の笑顔だ。


「うん!!」


 筍はとても嬉しそうに、元気な声を上げて、大きく頷いた。



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