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 本日、何度目になるのだろうか。
 数えることすらとうの昔に億劫になった溜息をこぼし、幽谷は目の前を歩く褐色の肌した男を睨め上げた。

 彼によって右手は拘束され、彼の知らぬ間に姿を消すといった行動も許されない。そう言った幽谷の行動すら読まれているのだ。腹立たしいことこの上ない。

 男――――馬超は幽谷が面倒な諍いを回避する為に捧げた休日の朝早くに幽谷の家を訪れた。デートだと堂々と言ってのけたので、家人は皆驚いた。……辟易した幽谷が分別していた空き缶を苛立ち紛れに握り潰したことで一応の事情は把握してくれたらしいが。

 バイクに乗せられる際にいつ解放されるのかと問うたが、さも当然とばかりに日付が変わった後の時間を言い渡された。勿論家事をしなければならないと全力で拒絶したが。
 数時間かけて向かったのは若者の中で有名らしいデートスポットの牧場である。ハートの形をした雌牛を数頭飼育していることで恋愛の御利益にこじつけられたこの施設、最近はそのこじつけに乗っ取ってカップル向けのイベントやサービスに力を入れているという。……今の幽谷には迷惑この上ない。

 入場料は馬超持ちで、その恋人然とした態度から完全にスタッフには勘違いされた。この時点でもう地獄である。


「どうした、姉ちゃん」

「……いいえ、何でもありません」


 手を引かれて歩いている今、周囲からの目が痛い。美男美女カップルとか、お似合いだとか……色々と全力で否定したい部分が沢山ある。沢山ありすぎて、嫌になる。
 鬱屈した気分で馬超に従っていると、彼は不意に立ち止まった。

 ぶつかりそうになって寸前で足を止めれば、肩越しに振り返って口角をつり上げた。顎を動かしてとある方向を示した。
 怪訝に眉根を寄せながらそちらを見やれば、木の囲いの中には数頭の馬がゆったりと歩いたり草をはんでいる。

 その中に見慣れた馬を見つけて声を漏らした。


「あの馬は……」

「こっちの獣医に看てもらうことになったんだよ。今はもうだいぶ回復しているんだとさ」


 幽谷の手を引いて囲いに近付き、馬超は手慣れた仕草で指笛を鳴らす。

 すると、幽谷が凝視する一頭の青毛の馬がこちらに顔を向け、優雅な所作でこちらへと歩み寄ってくる。
 柵を越えて馬超に顔を寄せ、目を伏せた。長い睫毛が影を作った。

 この雌馬は、幽谷が以前関羽と共に通っていた乗馬クラブで幽谷によく懐いていた馬だ。元々動物に好かれる体質であったが、この馬とは他の馬よりも何かと気が合うので、非常に乗りやすかった。
 馬超の父がその乗馬クラブの経営者で、幽谷が私用でなかなか乗馬クラブに訪れられなかった間にこの馬が病を患い走行不能になったとは馬超からもたらされた報せだった。その時点ですでに馬超の父の知り合いが経営する牧場へ療養の為に移送されたと聞いたが、よもやここに引き取られていたとは思わなかった。


「馬肉にされたと思ったか?」

「……いいえ」


 競走馬が役目を終えたからと馬肉される為に屠殺(とさつ)されるというのは日本では問題にされている。競走馬は怪我や病気のリスクが非常に高い。引き取り手を捜して乗用馬にもされるが、引退馬はほとんどが馬肉にされてしまうと、聞いたことがある。育成が虐待に近いなどといった主張には、知識の乏しい幽谷には多少の脚色があるのかも分からないが、アメリカから日本に輸出されたアメリカダービーの優勝馬が最後に殺されたと問題にされたこともある。
 動物である馬を賭博の道具としか見ない、そんな風潮は今はもう無いと思いたいが、せめて役目を終えた馬には余生をのんびりと過ごさせて欲しい。

 知識の浅さを自覚しているが故に全ての情報を鵜呑みにした訳ではない。だが、火の無いところに煙は立たないと言う。誰かにそう言わしめる部分があったとすれば、それはとても悲しいことである。

 幽谷にも顔を寄せてきた馬の額を撫で、彼女は微笑んだ。


「……久し振りね。安心したわ」


 優しく、そっと語りかける。
 幽谷の言葉に応えるように、馬は小さく鳴いた。
 額と額を合わせて、暫くそのままでいると視線を感じた。

 言わずもがな馬超だ。
 いつもの不敵な、からかうような笑みではない。まるで愛おしいものを見るかのような、珍しい和やかな眼差しをしていた。
 少しだけそれが気まずくて、馬を撫でながら視線を逸らす。


「……何ですか」

「いや、その馬がお前に会えて嬉しいとさ」

「まさかこの馬の為に私を?」

「半々ってところだな」

「……半々?」


 もう一度彼を見上げた時には、いつもの笑みだった。
 だが、恐らくは彼もこの馬のことを気にかけていた筈だ。出産の際、難産に苦しむ母馬からこの馬を引きずり出したのは自分だと、誇らしげに話していたのはまだ辛うじて記憶に残っている。

 半々と言うのは、正解ではないような気がして、幽谷は馬の頭を撫でながら、色違いの目をすっと細めるのだった。



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